第002話 ー白狼の封蝋ー
おかえりなさいませ。
本日もお足をお運びいただき、
誠にありがとうございます。
甘いお茶をご用意いたしました。ひと息つきながら、
物語の余韻をお楽しみくださいませ。
朝靄が庭の白薔薇を包んでいた。露が光を裂き、細い蔓の先で震える。リリアナの手には、一通の書状。白狼の封蝋は夜気の冷たさをまだ残している。
部屋に戻ると、侍女のエマが気配を消して立っていた。長く仕える年上の彼女は、目だけで問う。
「……届きました」
「お嬢様」
言葉を飲み込む仕草は、慰めにも忠告にも見えた。リリアナは微笑み、封蝋の縁を爪で割る。
文は簡素だった。昨夜の一行に、もう一行だけが添えられている。
――貴女が尊ばれぬ場所で、貴女の価値は少しも減らない。
胸の奥で、何かが静かに音を立てた。痛みと同じ場所だ。そこに、別の形が重なる。リリアナは手紙をもう一度読み直し、机に置いた。
扉が乱暴に開く。母の声が、空気を裂いた。
「リリアナ、朝食の席に出なさい。遅れるのはみっともないわ」
「はい、母様」
返事をしても、扉はすでに閉まっている。足音だけが廊下を過ぎた。
食堂では、銀器が朝光を投げていた。父は新聞を、母は今日の予定の束を、姉セレナは自らの映り込みを、それぞれ見ている。
「遅かったわね、妹」
セレナの声は蜂蜜の香りに似て、舌に触れた途端にざらつく。
「昨夜はよく頑張ったわ。貴女なりに」
「ありがとうございます」
リリアナは席に着き、祈りの言葉を小さく口にした。パンを割る音は静かだったが、彼女の少し隣で別の音が生まれた。
ライナルトが椅子を引く音。彼は家族の同席を当然のように受け入れ、しかしリリアナを見ない。
「セレナ、今夜の夜会は君の色で統一したい。装花も君のドレスに合わせておいた」
「うれしいわ。ありがとう、ライナルト」
父が満足げに頷く。母は日程に赤い印をつけた。
「それから、リリアナ」
ライナルトがようやく名前を呼んだ。新聞から目を上げない父の横顔が、ほんのわずかに固定される。
「君はこの家の名をもう少し丁寧に扱うといい。昨夜の遅刻は、来賓への侮辱と同義だ」
言葉は刃ではなく秤の皿のように落ちた。重さを測ってから、静かに価値を下げるために。
「申し訳ありません」
「謝罪は行為で示すものだ。今日の昼、孤児院への寄付の手配に同行しなさい。セレナの傍でやり方を学ぶといい」
「……承知しました」
パンの欠片が皿に落ち、音はやけに大きく響いた。リリアナはフォークを置き、姿勢をただす。吐く息の形が整うまで数え、微笑を作る。ここはそういう場所だ。
食後、廊下に出ると、背後から小さな影が着いてきた。エマが包みを差し出す。
「お嬢様、糸と針を」
「ありがとう」
「袖口に、金の糸を一本。……あの方の仰る通りに」
リリアナは頷き、昨夜のドレスの袖を広げる。縁をほどき、細い金糸を通す。指先の皮に針の頭が触れるたび、白狼の封蝋の冷たさがまた思い出された。
昼の慈善訪問は、庭の噴水が最も美しく見える刻に合わせて行われる。二台の馬車。先頭はセレナとライナルト、後ろにリリアナ。通りに人が集まり、花が投げられる。視線は前の馬車に集中し、後ろの窓は風ばかりを受けた。
孤児院の門前には、院長と子供たちが並ぶ。セレナは降りると同時に笑顔を広げ、周囲の空気を自分色に染めた。布施の包み、祝辞、抱擁。ライナルトは完璧な角度で手を差し出し、院長の緊張をほどく。
リリアナは少し離れた場所で、子供の一人が靴紐を結べずに困っているのを見つけた。しゃがみ、紐を結び、靴の泥を布で拭う。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「こちらこそ。転ばないように、しっかり結んでね」
小さな笑顔は、風のない水面に残る波紋のように心に残った。
寄付の目録が読み上げられ、名が続いた。侯爵家、伯爵家、商会、そして――
「グレイバーン辺境伯家より、医薬品一式および冬季燃料」
ざわめきが生まれた。王都では遠い名前だが、昨夜の白狼の噂が加速剤のように作用する。視線が、ほんの少しだけ後ろの馬車に向く。リリアナは思わず背筋を正した。彼女の名は呼ばれない。けれど、包み紙の紐をほどく手は、誰よりも丁寧でありたいと願った。
帰途、馬車の簾越しに、グレイバーンの紋が押された木箱を載せた荷車が数台、東大通りを進むのが見えた。院に向かっているのだろう。箱を押す人夫の額に光る汗は、王都の光の種類と違って、まぶしさではなく確かさを連れていた。
屋敷に戻ると、玄関で侍僕が呼び止める。
「リリアナ様、王城より使者がお見えです」
胸の内側の糸がぴんと張る。迎賓室に入ると、紫の短衣をまとった若い使者が立っていた。
「セレスティア伯爵家次女、リリアナ殿にお伝えする。明夜、王妃陛下主催の小夜会にお越しを願いたい。……御姉君の栄誉を家としても祝うために」
最後の一文が、丁寧に針を刺す。リリアナは礼をとった。
「謹んで承ります」
去る足音を待って、深く息を吐く。エマが喉元に手を添え、軽く押した。
「ここ、力が入っております」
「……ありがとう」
「明夜は、袖口の金糸をもう少し増やしましょう」
リリアナは笑った。ほんの少し、楽に。
夕暮れ。窓を開けると、冷たい風が部屋をめぐる。机の上の白狼の手紙が揺れ、角が軽く机を叩く音がした。紙の下に、彼女は小さな白い花弁を挟んでおく。春にエルバンで流行るという薬草の押し花。まだ行ったことのない土地の名を、そっと口の中で転がす。
「……グレイバーン」
夜。鏡の前に立ち、袖口の金糸を一本、指でつまむ。薄い光が絡まる。場所が決める――彼の言葉を反芻する。
王都の光は強い。けれど、強さは眩しさのことだけを言うのではない。冷たい光の下でも、見える色がある。その色を、見える場所へ運べる人がいる。
燭台の火を落とす前に、リリアナは紙とペンを取り出した。白狼の封蝋に返す言葉を、慎重に小さく。
――必要なときは、参ります。わたくしの価値を、見つけてくださった場所へ。
墨が乾くのを待つ間、窓の外で遠くに鐘が鳴った。刻は明夜へ滑っていく。リリアナは封をし、胸に押し当てる。痛みと同じ場所に、別の形が、確かに根を伸ばしていた。
お見送りの用意が整いました。
次の刻にも、変わらぬ椅子と灯りを
ご用意してお待ち申し上げます。
どうぞお気をつけてお休みの間へお戻りくださいませ。