第119話 ー踏み出すためにー
おかえりなさいませ。
本日は、一歩を踏み出す前の静かな準備と、その内側の揺れをお届けいたします。
朝の支度部屋は、静かだった。
衣装はすでに整えられている。
淡い色合い。飾りは最小限。
慈善の場に相応しく、同時に、誰かと比べられるための装いではない。
リリアナは鏡の前に立ち、しばらく動かなかった。
王都で暮らしていた頃、こうした場へ向かう準備は、いつも緊張と諦めが入り混じっていた。
目立たぬように。
余計なことを言われぬように。
それだけを考えていた。
(……今回は、違う)
そう思おうとするほど、胸の奥がわずかに重くなる。
逃げたいわけではない。
だが、踏み出す理由を、きちんと言葉にできずにいた。
扉が開きアルフレッドが入ってきた。
「準備は整ったか?」
促すでも、急かすでもない。
リリアナは、深く息を吸い、鏡の中の自分を見る。
表情は、まだ硬い。
けれど、目は逸らさなかった。
「……少しだけ、考えていました」
正直な言葉だった。
「行くべきかどうか、か」
アルフレッドは、彼女の隣に立つ。
視線は鏡ではなく、彼女自身に向けられている。
「はい」
迷いは、隠さない。
ここで強がる必要はなかった。
「怖いのは、場ではありません……また、誰かの物語の中で、私が使われることです」
それは、王都で何度も味わった感覚だった。
自分の意思とは関係なく、都合よく位置づけられる。
アルフレッドは、少しだけ考え、口を開く。
「使われないために、行かないという選択もある」
否定はしない。
だが、答えも用意しない。
「だが、行くなら――
立つ位置は、こちらで整える」
それは、守るという宣言ではない。
だが、背後に立つという約束だった。
リリアナは、視線を落とし、そして上げる。
「……逃げているままでは、変わらないですよね」
声は、小さい。
だが、揺れてはいなかった。
「今回は、確かめたいんです
……私が、どこに立てるのかを」
アルフレッドは、何も言わずに頷いた。
それで十分だった。
リリアナは、手袋を取る。
指先に伝わる布の感触が、現実を引き戻す。
(……大丈夫)
誰かに押されてではない。
誰かの期待に応えるためでもない。
自分で決めた。
それだけで、足元は少しだけ確かになる。
扉が開く。
廊下の先には、王都の空気が待っている。
だが今回は、ひとりではない。
リリアナは一歩、前に出た。
踏み出した理由は、勇気ではない。
覚悟でも、決意でもない。
――選んだ、という事実。
それが、彼女を支えていた。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
選び取った一歩は、やがて立つ位置を定めてくれることでしょう。




