第011話 ー揺さぶりの影ー
おかえりなさいませ。本日は王都からの影を前に、日常を整えるひとときをご覧いただきます。どうぞお茶をお手元に、心を温めてお寛ぎくださいませ。
翌朝の城館は早くからざわついていた。王都の税務院が派遣する査閲官の一団が、すでに領都へ向かっているとの報せが届いたからだ。門の前には伝令馬がひっきりなしに出入りし、書記たちが帳簿や書簡を抱えて走っている。
食堂の卓上には港と鉱山の帳簿が広げられていた。リリアナは昨夜から続けて目を通している。数字の羅列に慣れぬはずなのに、不思議と抵抗はなかった。港の荷動き、鉱山の搬出、孤児院への支援。昨日見た人々の顔が、そのまま数字に繋がっているのだ。
「これは……鉱石の搬出が一日分ずつ帳簿に反映されていないのでは?」
指摘すると、若い書記が顔を赤くして頭を下げた。
「お恥ずかしい限りで……運搬記録と合わせるのに遅れが生じておりました」
「遅れたままでは“水増し”と見られてしまう。すぐに整理しましょう」
彼女の声に、周囲の緊張が少し和らいだ。訂正を恐れるより、正直に整える方が早い――そんな空気が広がる。
昼過ぎ、馬車で市場へ向かうと、行商頭のミリアが帳簿を胸に抱えて待っていた。
「王都の役人って、数字に牙が生えてるんだよ。こっちが笑ってても、噛みついてくる」
「だからこそ、笑っている間に牙を折りましょう」
リリアナは帳簿を開き、外貨の流入分に赤い線を引いた。
「ここは昨日から一時停止。査閲官が滞在している間は動きを抑える。代わりに食料と衣服の出入りを目立たせるの」
「なるほど、“暮らし優先”を見せるんだね」
「ええ。数字は暮らしを支える道具であって、逆ではありませんから」
午後、孤児院を訪れると、院長が子どもたちに読み聞かせをしていた。紙芝居のように絵を見せながら、数字を数えていく。リリアナはその光景をしばし見守り、院長と目を合わせて微笑んだ。
「こうした日常も、帳簿に載せられたらいいのに」
「本当にね。けど、子どもの笑い声は数字にできないよ」
院長の言葉は、疲れを和らげる薬のようだった。
夕刻、城館の執務室。アルフレッドは地図の上に印を増やしていた。港、鉱山、市場、孤児院。リリアナが関わった場所すべてが、細い線で結ばれている。
「揺さぶりは必ず来る。王都は辺境を“弱い”と決めつけているからだ」
「でも……弱いところは確かにあります」
「そうだ。だから“当たり前”を増やす。市場が回り、孤児院が笑い、鉱山が休憩を取る。それを数字にして積み重ねれば、弱さは強さに変わる」
灰色の瞳が一瞬、柔らかさを帯びた。
「リリアナ。お前が見たものを書き留めろ。役人の前で数字に力を与えるのは、言葉だ」
その夜、机の上に紙を広げた。昼に市場で見た行商人の焦り、孤児院の笑い声、鉱山の湿った空気。すべてを文章に落とす。数字の隣に人の息遣いを書き添えれば、ただの羅列は物語に変わる。
外では秋の虫の声が高まり、夜風が冷たさを増していた。揺さぶりの影は確かに迫っている。だがリリアナは筆を止めなかった。
「……当たり前を、守るために」
紙に並ぶ文字は、彼女自身の誓いでもあった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。次の刻には、役人たちとの対面へとご案内いたします。どうぞご期待のうえ、お待ちくださいませ。




