第105話 ー崩れ始めた物語ー
おかえりなさいませ。
本日は、夜会の裏で囁かれてきた“もう一つの物語”と、
それに縋ろうとするセレナの胸中をお届けいたします。
夜会は、まだ終わっていなかった。
音楽も、談笑も、形式上は続いている。
だが、その中心にあった緊張だけが、
形を変えて場に残っていた。
セレナは、広間の端で扇子を開いたまま、
微笑を貼りつけて立っていた。
――これ以上、ここにいてはいけない。
そう判断したのは、
誰かに促されたからではない。
自分自身の感覚だった。
視線が、以前とは違う。
露骨ではないが、
“探るような間”が混じり始めている。
(……まずい……)
セレナは、誰にも悟られぬよう、
自然な動作で一歩、後ろへ下がった。
給仕の影に紛れ、
壁際を伝うように歩く。
引き止める声は、なかった。
それが――
何より、彼女の胸を冷やした。
一方、リリアナは気づいていなかった。
周囲から向けられる視線に、
まだ慣れていない。
アルフレッドの隣に立つことに、
意識を取られていた。
だから、
姉が広間から姿を消したことにも、
気づかない。
だが。
アルフレッドだけは、違った。
視線の端で、
“人の流れとは逆に動く影”を捉えていた。
――逃げたな。
追う必要はない。
今は、追わない方がいい。
逃げるという行為そのものが、
すでに答えになっている。
◆
馬車の扉が閉まった瞬間、
セレナはようやく扇子を下ろした。
手が、わずかに震えている。
(……どうして……こうなったの……)
夜会の場で、
自分は“語る側”でいられなかった。
噂を操ってきたはずの自分が、
沈黙する側に追い込まれていた。
脳裏に浮かぶのは、
辺境伯アルフレッドの声。
低く、抑えられ、
感情を表に出さない声。
だが、
あれは間違いなく“怒り”だった。
(……あの男……)
怒鳴られたわけでもない。
責め立てられたわけでもない。
それなのに、
胸の奥を押し潰されるような圧だけが残る。
(妻……?
あの子が……“辺境伯の妻”……?)
その言葉が、
何度も頭の中で反響した。
本来なら――
そこに立つのは、
自分であるはずだった。
(……そうよ……
わたくしが、辺境伯の妻になる話だって……
無かったわけじゃない……)
王妃派の茶会で、
何度も囁かれてきた言葉。
――「本来なら、
セレスティア家の長女であるあなたが
辺境伯夫人になる筋だった」
――「妹の婚約破棄さえなければ……」
レーン伯も、
それを“当然の前提”のように語っていた。
(……わたくしは……
奪われた側のはず……)
だからこそ、
妹が“守られる側”として立っている姿が、
どうしても許せなかった。
始まりは、ほんの些細なことだった。
夜会の衣装。
よりにもよって、
リリアナと同じ色。
姉である自分が目立つはずの場で、
控えめな妹に
「新鮮だ」「清楚だ」と視線が集まった。
(……あの子が、
わたくしの場所を奪った……)
そう思い込むのは、
あまりにも簡単だった。
――だから、
少しだけ強い言葉を使った。
――だから、
事実を“自分が被害者になる形”で語った。
(……誰も見ていないと思ったのに……)
ラングフォード公爵家が、
あの夜だけ警備を強化していたなど、
知る由もなかった。
中立貴族。
王妃派である自分に、
内情が共有されないのも当然だ。
だが――
“知らなかった”は、
“許される理由”にはならない。
セレナは、そっと拳を握る。
(……まだ……終わっていないわ……)
夜会では引くしかなかった。
だが、王都には“味方”がいる。
王妃派。
「あなたこそが正妻に相応しかった」と
言ってくれる人々。
(……わたくしは、
間違っていない……)
そう信じなければ、
これまで築いてきた自分の物語が、
すべて崩れてしまう。
鏡の中の自分は、
まだ“セレスティア家の長女”の顔をしていた。
――だが。
その物語を信じているのは、
もう、自分だけかもしれない。
王都の空気は、
確実に変わり始めていた。
そしてその変化は、
セレナにとって、
決して優しいものではなかった。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄にございます。
「本来あるはずだった未来」という幻想が、
彼女をさらに深い選択へと導いてまいります。




