第001話 ー月下の招待状ー
おかえりなさいませ。
本日は新たなる物語の幕開けにございます。
温かいお飲み物でも召し上がりながら、
ごゆるりとお楽しみくださいませ。
王都アルセリオの夜会は、香と笑い声で満ちていた。白い柱の間を、宝石のような人々が流れていく。光は舞台を選ぶ。今夜の中心はただ一人――セレナ・セレスティア。金糸を織り込んだドレスが笑顔に合わせて波打ち、取り巻きの視線は追従するばかりだ。
その少し後ろ、同じ家の次女リリアナは、壁際に置かれた水差しの影に立っていた。背筋は伸びている。俯いてはいない。けれど、呼び止める声は彼女を通り過ぎ、挨拶の輪は一歩手前で折り返す。
「……お姉様、たいへんお綺麗ですね」
「まあ、ありがとう。リリアナも、もう少し色の映える布を選べばいいのに」
セレナは視線だけで刺繍の粗を見抜き、優しい声色で退路を塞ぐ。褒め言葉に見える刃は、音もなく皮膚の下に沈む。
「遅かったな、リリアナ」
低い声が背後から落ちた。元婚約者――ライナルト・フォン・ヴェルンハルト。杯を傾け、空の底を覗き込むように彼女を見る。
「招待状に『準備に時間がかかるなら出席を見合わせても結構』と書いたが? 読まなかったのか」
「……遅れて、申し訳ありません」
「謝罪は僕ではなく、社交に向かない己の才に向けてするといい」
笑いは小さく、届くべき場所にだけ届く。リリアナは頷いた。受け流すことは身についた。痛みは鈍いが、確かにある。彼女はそれを抱え、立っている。
ホールの扉が開いた。ひとつの視線が風向きを変える。黒い軍装の男が入ってきた。肩章は銀、胸章に白狼。辺境の旗印。噂より若い。冷たい灰色の瞳が、まず人の配置を数え、次に出口の高さを測り、最後に天井の梁を一瞥してから、ようやく目の前の笑顔を見つける。
「グレイバーン辺境伯、アルフレッド様!」
呼びかけに、彼は礼法通りの角度で頭を下げる。それからほんの一瞬だけ、壁際の水差しの影に立つリリアナを見た。そのまなざしは、何かを測定して、静かに肯定した者のものだった。
音楽が変わり、舞踏の一曲目が始まる。ライナルトはセレナの前へ。自然の流れのように手を差し出し、自然の笑みで彼女を誘う。見慣れた光景だ。周囲はそれを称賛として受け取り、輪はより華やぐ。
踏まれない場所を選んで立つ。それがリリアナの夜会の作法だった。だが今日は、違う声が届いた。
「その色は、森の葉の濃さに近い。薄い金の糸を一本、袖口に足せば、今夜の灯りに負けない」
アルフレッドが言っていた。彼はまるで、壊れやすい器物に触れるような距離を保ち、目線だけを向ける。
「……似合わないと思っていました」
「似合う似合わないは、鏡が決めることじゃない。場所が決める」
「場所、ですか」
「王都の光は、強い」
それだけ言って、彼はホールの中央に目を戻す。視線は冷えているのに、言葉の温度は低くない。不思議な矛盾が、雪解けのようにリリアナの胸に残る。
「辺境伯どの」
王都の若い貴族が割って入る。笑顔に刃を仕込み、杯を掲げた。
「遠路ご苦労。山の暮らしに飽いたら、王都の作法をお教えしますよ。粗野が洗練に憧れるのは、自然なことですから」
その“自然”という言葉に、幾つかの笑いが添えられる。アルフレッドは肩を揺らしもしなかった。
「では、手ほどきを。ここで一つ」
彼は若貴族の杯を目で示した。
「王都の作法では、相手の杯が“空”のまま、三度も同じ話をしないと聞いた」
若貴族の笑みが固まる。周囲が杯を見る。確かに空だ。三度、同じ軽口を繰り返していたことに、それから気づく。
「……無作法をしたかな」
「山でも、同じだ」
笑いは逆流した。穏やかな潮位の差が、立ち位置を一歩ずらす。若貴族は退いた。セレナの眉がわずかに動く。ライナルトは何も言わずに踵を返し、音楽に身を預ける。
アルフレッドはそれ以上、何も言わない。ただ、王都の光で見えにくい色を、見える場所に運ぶ準備をしている人間の目をしていた。
夜の終わり、冷たい風が回廊を抜ける。リリアナの髪が揺れ、彼女は自分の手袋を握り直した。白い革が温度を返す。胸の痛みは消えない。けれど、初めて違う形をとりつつあった。
翌朝、彼女宛てに一通の書状が届く。封蝋は白狼。文は簡素だった。
――辺境は静かです。必要なときは、来なさい。
最後までお付き合いくださり、誠に光栄に存じます。
次回も同じ刻に物語をご用意してお待ち申し上げます。それでは、どうぞ良き夜をお過ごしくださいませ。