1-4: 本の声が聞こえる図書館と本の声を聞き分ける司書
少し古びた広大な書庫の片隅には、こじんまりとした書斎のようなスペースがある。
端がささくれだったようなこの書庫らしさの漂うライトブラウンの木机には近代的なオフィスチェアが組み合わされていて、LED式のデスクライトに羽ペンとブルーブラックの大きなインク瓶、そして机と同じ色合いの書見台が置かれている。
ある意味不釣り合いな組み合わせのように見えるが、麻衣にとってはこれがベストだった。
「一瞬私も『貴女かな?』って思ったんだけどね。赤い表紙ではあるし」
麻衣は抱えた本を書見台に置きながら、少しだけ残念そうに笑った。
《まぁ、そうよねー。コレでもあたし、ファンタジー筆頭みたいな感じなところはあるし? ……って言っても、『不死鳥』も似たような見た目してるけどね》
そして、書見台に置かれた本――『ハリー・ポッターと秘密の部屋』のハードカバーが、少しだけ楽しそうな口調で答えた。
――国立H大学付属中央図書館には、いくつか変わっているところがある。
そのひとつはお悩み相談室の存在ではある。だが、それよりも大きな要素であり、お悩み相談室の存在の根幹に関わる部分――それは「中央図書館に勤務している者は、その程度の大小こそあれど、必ず『本の声を聴くことができる』」ことだ。
「『怖い感じの女の人』って言うと、マクゴナガル先生がもしかしたら該当するかもとは思ったけど、トータルで見たらあの先生にその印象を持つかと言えば……」
《彼女の記憶違い――というほどでもないかもしれないけど、ちょっとした掛け違いみたいなことがあるならば、ね》
椅子に座って真正面から本と向き合う麻衣。その姿勢は先ほど翌凪と向き合っていたものとほとんど同じだった。
自分で取ったメモのページを開いて少しばかり思案する。情報は今のところこれで全てだ。この蔵書の中に恐らくはあるはずのその1冊を探し当てるためには、もう少し絞り込みが必要だった。
「あとは雪と、森の中……か」
《雪とか森も私の仲間には出てくるけど、表紙の条件からは外れるのよね?》
「そうねぇ……」
与えられた情報がすべて正解とも限らないが、そこを疑っていても始まらない。少なくとも条件をすべて満たしている作品を候補として選んでおくべきだろうけど、だからと言ってほんの少しの部分だけ条件から外れていたとしても候補自体からは外すべきでは無い。
可能性がゼロでないモノは捨ててはいけない――。
これは麻衣がお悩み相談室の仕事をする上での行動理念と言えるほどに重要視している部分だった。
「何より大事なのは『赤い表紙』。装丁の問題があって。……ハードカバーも紙装丁が無い状態で考えなくちゃいけないから、そこもちょっと難しいというか」
《あら、エッチ》
「違いますぅ、そういうことじゃないですぅ」
中身を見ると言ってもそういう意味では無い。もちろんそれを理解しているからこそ麻衣にこういう話の振り方をするのだが。
――とはいっても、棚の前でただひたすら唸っているだけではどうしようもない。『声が聞こえる者』として、こういうときには棚に訊ねてみるのが順当だろう。
「ちょっと一緒に来てもらっていい?」
《もちろんよ》
一旦メインとなる閲覧エリアへと、『秘密の部屋』を抱えながら戻ってみる。ターゲットは童話や児童書などの中でもファンタジーなどが置かれている場所。あまり時間もかけられないのでさらっと見る程度として、麻衣は検索を始めた。
《何をお探しだっけ? 赤い表紙のファンタジー?》
「そうなの」
少々の返答でもこの辺りは声が響きがちなので気を付けなければいけない。麻衣はできるだけ小声で答える。
「赤い表紙、雪と森、怖い女の人……。ん~……」
ギリギリ本棚には届く程度の声量で呟来ながら、そっと背表紙に触れていく。
《ぼくは違うと思うなぁ……。雪は降るけどね》
該当しそうなストーリーを持っていそうなところを狙ってみると時々返答をくれる。具体的でなくてもいっしょに悩んでくれているのは伝わってくる。
《『森の奥』ならば任せて欲しいところだが……、違う気がするね》
何かしら近さのような者は感じているが、決定打にはならない。予定通りにさらっと見る程度に止めたとはいえ、謎は若干深まるばかりだった。
再びの書庫。書見台に『秘密の部屋』を立てたところで本は話し始める。
《でもさぁ》
「うん?」
《登場人物が知らない世界に入っていくっていう展開は、結構良くあるパターンだと思うのよね》
「まぁ、王道っていう印象はあるわ」
ファンタジーのやり口と言ってしまえば乱暴ではあるが、実際そういう風に物語というものは紡がれ続けて今に至っている。
「扉だったり、大穴だったり、自然災害みたいなので攫われたり…………――?」
ひとりごとのように呟きながらも、麻衣は書庫の空気がわずかに動いたように感じた。
《そういえば……あたしの先輩に、あたしと似てる入り口があったと思うんだけど……》
「あ。それ今、私も同じ事思ったかもしれない……!」
《ほんと?》
司書見習いをしているだけあって本の虫の側面も持つ麻衣と、まさしく本そのものとは、案外考え方なども似るモノなのかもしれない。
《……でもねー。何かちょっとひっかかってて》
「もしかするとそれも同じかも」
一瞬だけ会話が止まる。
見つめ合ったような気持ちになる。
小さく頷いて麻衣は言う。
「表紙、赤かったかな?」《赤かったっけ? って》
麻衣と同時に『秘密の部屋』も言った。しかも本当に同じ内容を。
決定的ではない。
だがここまで共通認識があると分かれば、引っかかりを覚えずには居られない。
その何かを確かめるには、もう少しだけ情報が欲しい――。
――コン、コン。
「……っと?」
書庫の扉がノックされているようだ。
《はるかちゃんみたいだよ》
「あ、は~い。今開けます」
ありがたい報告をもらった麻衣は、気配の正体に思い当たりながら、麻衣は小さく返事をして立ち上がった。
もちろんそこに居たのははるかだった。
「居た居た、良かった。マイちゃんは何かひらめいた?」
「ぼちぼちより少し下、って感じですかねー」
麻衣は頬に手を添えながら唸る。
「じゃあ、これがきっかけになってくれたら良いんだけど」
「え?」
何か情報は――と思っていたが。
「アスナちゃん、ちょっとだけ思い出してくれて」
「ほんとですか!」
思った以上に声が書庫内に響き渡る。そこに《おおっ》とか《嬉しそうだねえ》などという声も聞こえてきて、麻衣は赤面する。
「お話のキーワード部分みたいなところでは『光ってるポールがあった気がする』って言ってて」
「光ってるポール……」
「たぶん街灯とかのことよね」
少しずつパズルが嵌まっていく。
「もうひとつが思い出の話で、アスナちゃん、おばあちゃんに読んでもらうお話は結構がんばって理解しようとはしてたって」
「…………あっ、そっか」
少しずつ、少しずつ嵌まっていくパズルは、完成へと近付いていく――。
「私、思い違いをしていたかも」
「思い違い?」
はるかが先を促すように訊く。
「さっき『翌凪ちゃんならたぶん読める』っていう言い方をしてたと思うんですけど、あれって誰と比較しているんだろう、って思ってて」
誰かひとりだけを見ているのならそういう言い方にはなりづらいような気がして、麻衣はそこがひっかかっていた。
「最初は翌凪ちゃんのいとこのお姉さんなのかなって思ったんですけど、昔保育園の先生をしていたっていうのなら、もしかしたら『今までの同年代の子たちと比べて』っていうことなのかもしれない、って」
読み聞かせをするには如何せん難易度は高そうにも思えたが、そういう意図を持っていたのなら話が変わってくる。
「はるかさん、あのレーベルの装丁ってたしか昔は……!」
「そうだわ! ……その本なら、まだ向こうの書庫にあるはず!」
「行ってきます!」
○
視線の先には、少し色褪せた赤い表紙の一冊。
静かな空気の中で、麻衣は確信を持って手を伸ばした。
「――きっと、あなたね」