4-2: 旧分館へ
「まず手がかりを増やしたいですよね。書名が分からないなら、シリーズ名、著者名、出版社……。もちろんこれはいつも通りの手順だけど、その中で何か覚えてることってある?」
麻衣が訊くと、純平はやや右上に視線を向ける。
「とりあえずは赤い装丁で、たぶん物理系。じいちゃん、今も電気工学とか電子工学とか好きなんだよね」
「物理、電気系。で、旧分館。……よし」
麻衣は端末の画面に向き直り検索フォームを開く。旧分館所蔵に絞れるフィルタ。発行年の範囲。分類。探し当てる対象をいきなり一点に当てるのは難しいが、候補を狭めていくのは司書の仕事だ。
「まずは、旧分館所蔵で、理学系の大型本、あるいは叢書を……」
「うん、そのやり方がいい」
はるかが頷く。
「装丁についてはデータに残ってないこともある。でも叢書ならシリーズでまとまってる。シリーズ名が分かれば一気に絞れるわね」
麻衣は頷き検索条件を入力していく。画面にずらっと候補が並ぶ。発行年が古いものも多い。
そして――。
「あ……」
画面の文字をなぞっていた麻衣の指が止まった。画面の右端に見慣れないようで見慣れた文字があった。
――旧分館/書庫 要同行
所蔵場所の表示。利用条件。
そして、状態は『所在あり』。
「……これ、かなりそれっぽい」
「どれ?」
麻衣が言うと、純平が身を乗り出す。
「シリーズ名が理学系の叢書で、発行年がちょうど……。注記に『旧分館書庫保管』、利用条件が要同行になってて。寄贈扱いじゃないけど、旧い装丁が多いタイプ」
麻衣が画面を指差すと、はるかは「うん」と頷き、もう一段階深い画面へ進むように促した。
「詳細を開いてみて。所蔵の棚記号と資料IDも併せて確認」
「はい。……ん?」
麻衣がクリックする。詳細画面が開いた瞬間、空気が少しだけ重くなった気がした。
――気のせい。
そう言い聞かせる。けれど。
《鍵を戻したら……次は、扉の向こうだよ》
つい最近も聞いたような声色が、今度ははっきり胸の奥で鳴ったような気がした。
扉の向こう。旧分館。書庫。条件が揃いすぎている。
「宇津木さん?」
純平が不安そうに覗き込んでくる。麻衣は慌てて笑ってみせた。
「ごめん、大丈夫。……候補が見えたから」
麻衣は詳細情報を読み上げる。
書名、シリーズ名、所蔵の棚記号、旧分館の書庫区画。要同行とは職員が同行して出納する必要があるタイプの資料だ。旧分館は利用者がふらりと入れる場所ではないためこのような設定になっている書籍の方が多い。
「純平くんも解っていると思うけれど、今すぐ本を見つけるところまで行けるとは限らない。旧分館の書庫は今は管理区画だから、同行者の記録も残すし開けるならそれなりに段取りがある。安全確認も必要。……それでも」
はるかが笑い、やや堅くなっていた麻衣の肩を撫でる。いつものふんわりに戻る。
「ね、マイちゃん」
「……ええ。きっと扉の向こうで本が呼んでるはずなので」
「そう。行かない理由はない」
《ほう? もしや君にはここからでも聞こえているのか》
冗談めかして言ったつもりではあった。だが、麻衣は少しばかりの賭けに出てみた。
そして賭けには、勝った。
はるかは机の引き出しを開けた。その中で鍵束が控えめな金属音を立てる。古びたタグのついた鍵を取る。
「旧分館。……久しぶりね」
はるかが小さく言って、絡まりかけていた鍵束を手の中で整える。
麻衣の耳の奥で、また紙が擦れる音がした。
ページがめくられる音。
誰かが、息を吸う音。
《……ようやく》
短い囁き。
麻衣は目を閉じて一度だけ深呼吸をする。読む前に息をするという意味を、彼女は生まれながらにして知っているような気がしていた。
「行きましょうか」
「お願いします」
麻衣が言うと、純平は小さく頷いた。
その声は、理学部の男子学生の声というより、祖父の背中を追いかける孫の声だった。
はるかが先に歩き出す。麻衣と純平がそれに続く。
廊下を抜け、職員区画のさらに奥――普段はあまり足を向けない方向へと歩を進める。その一歩毎に空気の質が変わっていくような気配を感じる。きっとこれが『現在』から『過去』へと向かっていく道のりなのだろう。
廊下の突き当たりにさらに古い建物へ続く連絡扉がある。当然ながら普段は閉じられている。貼り紙や案内がその傍らにある。今日はその紙がどこか色褪せて見えた。
はるかが鍵を差し込む。
古い金属質の物体が静かに回る独特な音。
扉が開かれる。
その向こうからは、古い紙の匂いがふっと漏れた。
純平が、無意識に息を吸う。
麻衣も、同じように息をする。
《……いらっしゃい》
ハッキリと声がした。麻衣にはハッキリと聞こえた。ふたりの顔を確かめると、恐らくははるかと純平にもその声は聞こえていたようだ。
誰に向けた声か分からないのに、確かに歓迎の声だった。
麻衣は胸元の名札を指先で確かめる。室長の文字が今日は少しだけ頼もしい。
こちらへ伸びてくる旧分館の誘い。
赤い背表紙の理学書が、息を潜めて待っている気がした。
○
旧分館の空気は、本館よりも一段だけ重かった。
重いといっても息苦しいわけではない。湿度のせいでもない。むしろ冷えている。冷えていて、乾いていて、音が吸い込まれる。紙の特有の温度感がここにはある。
扉を開けたはるかが、まず立ち止まった。
「……ん。異常無しね」
小さな声で言ってから振り返って笑う。
「ふたりとも足元には気をつけてね。古い建物だから段差がちょこちょこあるの」
「はい」
麻衣は頷き視線を落とした。
そもそもバリアフリーになっていないというのもあるが、それ以前に床材の継ぎ目が確かに本館より不揃いだ。他にも、わずかに沈む場所がある気もする。
古い木のにおいも混ざっている。さっき吸い込んだ紙の匂いに建物の匂いが重なる。
純平は何も言わずに息を吸っていた。深く、そしてゆっくりと。
それは緊張を鎮める呼吸というより確認する呼吸。ここに来たことを身体の奥へ落とし込むみたいに。
「じいちゃんが……ここに通ってたんだよな」
独り言みたいな声が、旧分館の静けさに吸われる。
「そうだね」
麻衣は、同じくらい小さな声で返した。
はるかが先導して進む。
旧分館の廊下は狭く、照明はやや暗い。壁の色も少し黄味がかって見える。案内板の文字も古いフォントで、ほんの少しだけ時代の匂いがする。
通路の途中ではるかが一度立ち止まった。壁に貼られた利用案内を指で軽く叩く。
「ここから先が書庫区画。もはや一般の利用者さんは入れないエリア。今日の純平くんは『同行者』っていう扱いにもなっているから、一応決まり事を共有するわね」
純平がまじめに頷く。
「勝手に触らない。勝手に棚を動かさない。写真は撮らない。必要なら職員が記録のうえで行う。持ち出しはもちろん無し。閲覧は指定場所で。……まぁ純平くんは司書見習いでもあるから、触ったりしても全然問題無いけれどね」
「了解です」
「ただし、何より大事なのは」
はるかは、笑うのをやめて言った。
「ここにあるのは『資料』じゃなくて『蔵書』だって意識。守るのが最優先。急がない。焦らない」
その言葉が終わるか終わらないかのところで。
《そうだ。何事も焦らない》
麻衣の耳の奥に低い声が届き、自然と麻衣の背筋がすっと伸びた。これは、弥生さんの本を探していたときに聞こえてきた物と同じくらいの声質。
純平のほうを見るがどうやら彼には聞こえていないようだった。けれど、純平も同じタイミングで小さく頷いた。まるで、声が届いたみたいに。
はるかが鍵束を取り出し、書庫扉の鍵穴に差し込む。
静かな金属音とともに、さらなる世界が開かれる。
その扉の向こうは、さらに冷えていた。




