4-1: 思い出を辿る検索
食堂を出た瞬間、夏は容赦なく彼らの肌を撫でていく。
さっきまでの冷えたお茶と落ち着いた会話が嘘みたいに空気は重い。食堂から中央図書館へ戻る短い道ですら、陽射しはきっちり仕事をしてくるから大変だ。
麻衣はお気に入りの日傘の影の中に自分を押し込めながら歩くが、その隣を歩く浜崎はるかは涼しげだった。
涼しげというのは外見の話でもあるが、それもそのはずではるかは的確に日陰寄りの場所を選んで歩いている。はるかのことは日陰を好みそうな性格ではないと考えていた麻衣だったが、その実彼女は図書館司書である。もしかすると焼けないようにするために日向よりは日陰が好ましい本のような部分は持ち合わせているのかもしれなかった。
「……夏って、図書館のありがたみが増しますよね」
麻衣がぽつりと言うと、はるかは「わかるぅ」と返した。
「涼しい、静か、座れる。最高。――それにね、夏は“本の匂い”が濃くなるのよ」
「匂いですか?」
訊いたのは純平だった。麻衣はこっそりと頷いている。
「うん。紙は湿気と仲がいいから。もちろん嫌な意味じゃなくてね。古い紙の匂いが少しだけ強くなる感じがして。まぁ、好きな人は好きっていう話だから、本の前で深呼吸する人はそういうモノも含めて味わっているところはあると思うわ」
その言葉に、麻衣の胸の奥が小さく揺れた。
先ほどのランチタイムに純平が言っていた――「読む前に息をする」という祖父の言葉。匂いを吸う前提みたいな言い方だった。
「なるほどー」
純平は麻衣の数歩後ろを歩きながらわずかに空を見上げた。ある程度その回答で納得感を得たらしかった。
弥生とは図書館へ戻る途中で「ゼミの準備があるので」と一礼して別れた。最後まで礼儀正しく、最後まで静かな人だった。麻衣は、あの人が本をめくるときの紙の擦れる音を、妙に美しいと思ってしまったことを思い出す。
――届くことは、ある。
声が聞こえるのは自分だけなのに、ああやって誰かの動きが『本の声の通り』になる瞬間がある。
それが嬉しくて、同時に少し怖かった。
「宇津木さん」
背後からの控えめな声に振り向くと、純平が視線をどこに置けばいいのか迷っているみたいな顔をしていた。普段の飄々とした顔ではないように見えて、麻衣は少しだけ怪訝そうに眉を動かす。
「どうしたの、駿河屋くん」
「いや、その……今、少しだけ時間いい?」
「うん。戻ってからでも大丈夫?」
「できれば、戻ってすぐがいいかなとは思ってて。……いや、もちろん仕事の邪魔はしない。むしろ仕事の話というか」
仕事の話という言い回しが、どことなく純平っぽさが希薄でぎこちない。
それだけで麻衣は察した。
――これは、軽口の相談じゃない。
はるかも足を止めて、純平を見る。
その顔はいつものふんわり感に覆われている。けれど、その目はきちんと『司書の眼差し』をしていた。
「よし。じゃ、戻ったらちょっと調べてみましょうか。さすがに純平くんのそんな顔は放っておけないかなー」
「あはは、ありがとうございます。……俺、そんな顔してます?」
「まぁまぁしてるわよ」
「宇津木さんもそう見える?」
「まぁまぁ、かな」
純平が小さく頭を下げる。
それは友達への礼というより、職員への礼に近かった。
図書館に戻ると冷房の空気が身体の表面を撫でた。外の熱が一枚剥がれ落ちるみたいな感覚。それと同時にアタマもスッキリするような静寂が訪れる。やはり図書館とは『静かに回る場所』だと麻衣は思った。
「おかえりー」
受付から福山愛が手を振ってくる。
「ただいまー。ちょっと確認作業してくるね」
はるかが答えると、愛は「了解ですー」と軽く敬礼してみせた。その仕草の軽さに、麻衣は少しだけ肩の力が抜ける。
職員区画へ続く扉の前で、麻衣はいつものように深呼吸をした。
今日の自分は、緊張しやすい。弥生のような落ち着いた人と話したあとだからか、それとも『扉の向こう』という言葉がまだ胸の奥で引っかかっているからか。
扉が開き、その奥にある端末室へと入る。コンピュータの温度管理のため空気はさらに冷えている。機械の匂いもしている。
ファンの音に溶け込むように作業が始まればキーボードのわずかな響きが加わるアンサンブル。ここは図書館の『裏の呼吸』が聞こえる場所と言えよう。
「で、純平くん。何を調べたい?」
はるかが椅子に腰掛けながら訊いた。
純平は一瞬だけ口を開き、閉じて――それから言った。
「え、良いんですか?」
「何がかしら?」
「その……職権濫用的な感じがするんですけど」
純平の遠慮がちな物言いに、はるかは首を傾げた。
「そうかしら? その本のことを知りたいと思っている人が居て、お悩みを公表してくれたのだから、相談室は開かれるべきだと私は思っている……んですけど、相談室室長の宇津木麻衣さんはどう思われますか?」
「……え、私ですかっ」
「まぁ、室長だし」
たしかにそうである。全権とまでは言わないが、そこそこの権利を麻衣は与えられている。それはひとえに『宇津木麻衣は他の司書よりも強く本の声を聞くことができるから』という理由に集約される。司書見習いとかそういう事柄は実に些末だ。本の前には年功序列など存在しない。
「ということで、いかがですか室長」
「それは私も、何も問題無いと思います。少なくとも職権濫用とは思いません。本に関わることはやはり放ってはおけないですし。それは相談者のためでもあり、本のためでもあると思うので」
これは偽りない麻衣の想いでもあった。
「なので、駿河屋くん」
「はい」
「正式に、『中央図書館お悩み相談室』にご相談ください」
○
いつもの応接室がいつも通りに『お悩み相談室』へと、空気を少しだけふんわりと柔らかく変えた。麻衣、はるか、純平のそれぞれが定位置に座り、はるかお手製のお茶を片手に話を始める。さながら雑談のような雰囲気ではあったが、今日は正しく相談事の受付だった。
「ウチのじいちゃん、昔この大学の旧分館でよく理学書とかを読んでたらしいんですよ」
「どんな本……とかはなかなか難しかったりする?」とはるかは訊く。
「赤い背表紙で、紙が硬くて……匂いがするって。読む前に本も息をする、って」
「……なるほど?」
はるかの目がほんの少しだけ細くなったのを麻衣は見逃さなかった。
笑うためじゃない。情報を組み立てるときの目だ。
「旧分館、赤い背、理学書。……いつ頃の話?」
「じいちゃん今は70ちょいだから、まぁ少なくとも40年以上前ですね」
「なるほどね。そういう本、普通にある。寄贈本で赤いクロス装のシリーズとか、理学系の叢書とか」
はるかが淡々と言う。淡々としているのにどこか安心する声で、純平の肩からも緊張が少しだけ減る。
「それで、俺が今図書館で司書見習いをやってるって話をしたときに、ぽつっと言ったんですよ」
純平は少しだけ声のトーンを落とした。
「『あの本は、まだそこにいるかな?』って」
麻衣の背筋が、ほんの少し伸びた。
――『まだそこにいる』
人が本に対して言うとき、たまに出てくる言い回しだ。
麻衣の耳の奥で、何かが擦れるような音がした気がした。
紙が動く音。ページがめくられる音。
もちろんここには本はない。それでも、感覚だけが先に来たような。
《……そうだ。息をしてからだ》
誰かが、遠くで囁いた気がする。麻衣は瞬きをして、今の自分が向こう側へと引っ張られかけたのを自覚して、慌てて戻る。
「駿河屋くんはその本を探したいんだよね」
「探したいっていうよりは確認したい感じかな。じいちゃんに『まだあるよ』って言えたらいいし、もし無かったとしてもちゃんと理由を説明したい」
それを聞いたはるかはふっと笑う。
「純平くん、優しいね」
「いや……そういうわけじゃ」
「いや、そういうわけだよ。はい、じゃあ確認に入りましょう」
はるかが端末のキーボードを叩くより先に、麻衣へ視線を向けた。
「マイちゃん、今日の主役は純平くんだけど、作業はマイちゃんがやってみる?」
「……はい。やります」
麻衣は椅子に座り、背筋を整えた。
検索は慣れてきた。けれど今日は少しだけ違う。
これは誰かの思い出を探す検索だ。




