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1-1: 夏休みにうってつけの『ご相談』


 本の声が、聞こえる。



 静かなその声は、ただの言葉だけではなく、時間の匂い、思い出の温度。



 国立H大学付属中央図書館にある、古びた広い書庫のその片隅。



 今日もまた、ひとつの記憶と本のページがそっと寄り添いあっていく??。






     ○






 日本でも有数の広さを誇るキャンパス内にある国立H大学付属図書館は、本館・分館などを含めて基本的にはその全てで開館時間が午前9時に統一されている。


 北国の夏――と言えども最近はかなり暑くなってきている。暦の上ではまだまだ夏は本気を出していないくらいの時期のはずなのだが、空の青さは日に日に濃くなっていて綺麗ではあるのだがかなり身体には(こた)える。すぐ脇の木々からは蝉の声も聞こえてきていてもはや『夏』だった。


 そんなことを今日も朝から元気な太陽に思い知らされながら、()()()()()はいつもより10分ほど早く本館事務室に着いて、荷物を置くとすぐに作業着代わりのカーディガンを羽織った。


 冷房の効いている閲覧室に出れば、ひんやりとした空気が肌を撫でた。日傘を使っているとはいえ少しだけ汗ばんでいた首筋が冷えていく。これを放置するのは良くないので、栗色の髪を上げながらボディケアシートで拭き取っておく。


 全館空調の調節はもちろんだが、体温調節は自分の仕事だ。動き始めればもちろんそれなりに身体も熱くなってくるが、今はまだ早い。


「あら。おはよう、マイちゃん」


「おはようございます、(はま)(さき)さん」


 閲覧カウンターの奥の方、ロングヘアーをふんわりとまとめた浜崎はるかの姿がある。


 いつものように穏やかな笑みを麻衣に返しながらも、その笑顔とは裏腹なほど涼やかに本の返却処理をしている。彼女はこの大学付属図書館本館の本職の司書であり、本学文学部2年である麻衣の()()にあたる人でもあった。


「今日はちょっと早いのね」


「ええ。何だか早く家を出られたので」


「あらエラい」


 少しの驚きを持ったような笑みを向けられ、麻衣も小さく笑った。


 そういえば――と麻衣ははるかの学生時代について、朝方に関してはわりと時間にルーズなタイプだったというタレコミを、受付担当の(ふく)(やま)(あい)からもらっていたことを思い出していた。


 もちろんそんなことはおくびにも出さないようにして、麻衣は今日の準備を始めていく。


「あ、そうだ。浜崎さん」


「どうしたの?」


「閉架書庫の資料、昨日の内に戻しておきました」


「あぁ、ありがとう。助かるわぁ」


 結構な冊数があったもののひとりで消化可能な範疇ではあったので、できるだけ早い方が良いだろうという判断だった。


「大変だったでしょ?」


「いえいえ。そんなこともなくて」


「そう? なら良いんだけど」


 はるかは少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。


「……あ、そういえば」


「どうしました?」


「あそこって古いでしょ? 結構湿度スゴくなってなかったかしら。大丈夫そうだった?」


「そうですねー、一応少しの間空気の入れ換えはしておきましたけど……。外もあんまりカラっとはしてなかったのであんまり意味なかったかもしれないですけど、さすがにちょっとだけ()()()()()()()()()()んですけど。……余計じゃなかったですか?」


 少し探るように麻衣は訊いた。


「ううん。それ、ナイス判断よ麻衣ちゃん。何なら資料返却よりも重要度高め。夏はもちろんだけど、季節の変わり目はそういうところに敏感になっていないとだから。本も風邪をひいちゃうからね」


 今年も北国にはあるまじき湿度だ。


 閉架書庫は少しずつ新館書庫への移動作業が続けられているが、まだまだ大部分は旧館エリアに存在している。かなり古い建物のためむしろそれなりの隙間風が入ってきてほしいところなのだが、冬の寒さ対策のためまだまだ気密性は高かった。


 もちろん冬場はそれで構わないのだが、当時には考えられないほどの暑さと湿度が襲ってくる夏場には有り難みがない。本も悲鳴を上げたり泣き言を言ったりするものだ。


 図書館には季節を感じる瞬間というのが、存外存在している。


 湿度でページがふんわりと膨らむときであったり。


 旧館近くのガス灯を模した街路灯に虫が飛び始めるときであったり。


 そういうふとした変化に気付くということは、司書としてはとても大事だ。


「さて、と……」


 細かな作業を終えて、はるかはふと背後を見遣る。大型本をいくつか優しく抱えながらも、1冊1冊を所定の位置へと帰していく麻衣の姿があった。いつその背表紙を確認しているのかと疑問に思うくらいに、すいすいとその在るべき場所へと本を戻していく様は既にベテランの司書にも勝るように見える。


「手早いわね」


「そんなこと……」


「ううん、謙遜する必要なんて無いわよ」


 実際、はるかの目にはそう映っていた。


 これは決して若手司書への気を遣った表現などではない。まだ司書見習いの大学生とは思えないほどの身のこなしを見せる麻衣に、事実はるかは少し舌を巻いていた。


「とくに本の整理は最初から早かった気がするわよ?」


「それは~……、本屋さんとかでも勝手ながらちょっと慣れてるというか」


「あら? バイトはコンビニしかやったことないって話じゃなかったかしら」


「えーっと、その。本屋の棚で書籍番号順じゃないところに一度気付くと気になっちゃって、その辺りを勝手に直しちゃったりするので……」


 不届きな立ち読み客のせいか、あるいは無関心な店員のせいか。そのどちらが原因であったとしても出過ぎた真似だという自覚はあるのだが、それにしても気になってしまうのが本に対する麻衣の性質(タチ)だった。


「なるほどねぇ。何かマイちゃんらしい」


 はるかは小さく笑った。


「じゃあ『お悩み相談室』の室長さんとしてもだいぶ慣れては来てるでしょ?」


「もー、その言い回しはさすがに畏れ多いんですってば」


 からかい半分本音半分のような褒め言葉に麻衣は恐縮する。


「それでも何とかって感じですけど」


 はるかは、麻衣の微笑みに幾分かの余裕を感じていた。


 面接を受けに来たときからガチガチで、挨拶を交わそうにも噛んでしまうくらいに緊張していたころとは比べものにならない余裕がそこにはある。尤も、これを麻衣に言えばまた赤面してしまうので、わざわざ言わないのだが。


「日誌にも記載してますけど、昨日も『推薦図書の場所がわからない』っていう学生さんが来て」


「あー、書かれている棚にないとか?」


「それです。返却棚の方に()()かなと思ってたら案の定って感じだったので、それはすぐに対応出来ました」


 イイ読みね、とはるかは頷いた。


「あとは、『生きたくないけど死にたくない』みたいなタイトルの本はどこか――とか」


「出たわね、タイトル覚え違い選手権タイプ。『100万回死んだねこ』とか、あの辺の」


「まさにそれでした」


 機械で検索をかけようにも、先頭の文字から読み違えているとウマく検索出来ず、そのまま司書へと持ち込まれることが多い。そこを的確に見つけてあげる必要があるのだがコレには本のタイトル以外のところに情報が潜んでいるものだった。


「ちなみにそれってたしか……」


「『生きたくないけど死にたくない』じゃなくて『死にたくないが、生きたくもない』で」


「あー、それそれ、逆……! 定番! 似た言葉の構成って、逆に覚えちゃいがちよねー」


「ホントにそれで」


 あるあるトークが思わず盛り上がり、ふたりで小さく笑い合った。


 ――ちょうどそのときだった。


《お客さん、来てるんじゃないかい?》


 不意にふたりの耳に()が聞こえてきた。


 ハッと気付いてカウンターの方へと目を向ける。


 少しだけ予算を割いてもらって部材を仕入れ、他の司書見習いの学生に作業を手伝ってもらって作った小さな看板が置かれたカウンター。


 その前には、大学図書館ではあまり見かけない感じの人影があった。


 ――中学生くらいと思しき女の子。


 大学の図書館に行くということで、少し余所行きの雰囲気がある装いにしたのだろうか。麻衣にはそれが何だかかわいらしく思えた。


 だが、所在無さげに立つその姿は、仄かに自分はこんなところに来て良かったのかという迷いが感じられ、麻衣とはるかは同時に互いの顔を見合わせ、直ぐさまカウンターへと向かう。


「『ご相談』ですか?」


 まだまだ意を決している感は抜けきらないものの、麻衣は努めて優しい声をかけた。


「…………あの」


 少し大きな深呼吸の後に発された声はやや小さく、けれど確かにまっすぐだった。


「えっと……、その、赤い表紙の本を、探してるんです」



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