第85話 お互いにとっての鍵はお互いなのでしょうね
押し入った部屋の中。真っ先に目に入ったのは小さな録音ブースだった。
人一人分の縦長の木箱。僅かに空いた隙間から、壁に貼り付けられたスポンジのような吸音材や吊り下げられたマイクが見える。
そのどれもが、ホコリを被っているのも。
「マスターキーで不法侵入とか、管理人が一番やっちゃダメなことじゃねえのか」
睨む音居くん。その先は俺じゃなくて……管理人?
「警備員さんじゃあ……?」
「ああこの格好? これはただのコスプレだよ」
えぇ〜…………。
「そしてダメか否かで言えば間違いなくダメだね」
ええぇ〜……………………。
「それがお茶目な悪ふざけで済むかどうかは、彼次第かな。ついでにまた綴ちゃんと二人で新しい曲を聴かせにきてくれるようになれば、おじさん万々歳なんだけどね」
「なんであんたまで、そこまでする」
「なんでと言うほどのこともないけどね……管理人になってからの人生で、僕はあの時間が一番幸せだったのさ」
警備員に扮した管理人さんはニヒルに口角を吊り上げて、全てを俺に丸投げしたまま捨て台詞を吐いていった。
部屋に残される家主と不法侵入者(俺)。
……この空気、どうしてくれようか。
「なんなんだ……どいつもこいつも……」
ああ……ついに力なくうなだれてしまった。そりゃそうもなるよ。すごい他人事みたいで申し訳ないけど。もうここまで来たら手ぶらで帰れもしないけど。
「音居くん……」
言いたいことはいくつもあった。
でもまず、最初に聞きたいことは一つだけだった。
「譜久盛さんが書いた詞の曲、ちゃんと出来た?」
「……出来ねえよ……出来ねえんだ……あの日から、何回パソコン開いても、どれだけ打ち込んでも……何の曲も出来ねえんだよ……」
思わず目がパソコンに吸われた。机の上。勉強なんか知るかというくらい、ど真ん中に鎮座して存在を主張するモニターや周辺機器。机の下の本体。
使い込まれた使用感も、ついさっきまで使われていたような感覚すらも感じさせる。
けれど、その中には……。失われていたのは、譜久盛さんの声だけではなかった。
「あのイカレ女はなんだかんだ言ってたけど、俺なんて所詮そんなもんなんだ……オファーだって、本当はいくつか来てたんだ、あいつにだけは」
イカレ女とかいう高火力ワードに師匠の顔がチラついて情報が飲み込みづらかったけど、オファー……? 譜久盛さんに?
「俺が、俺たちはsizuriだからって断らなきゃ、あいつに釣り合うようになって二人でデビューするんだなんて思い上がらなきゃ……あいつの声だって、今頃は……」
「そんなこと――」
「あるんだよ! ……あるんだよ……俺が下らないプライドであいつを縛りつけなけりゃ、今頃あいつは!」
「そんなこと、どっちでもいい」
跳ね上がる音居くんの顔を真っ直ぐ見据える。
――よかった。
俺の胸に満ちるのは、そんな安堵だけだった。
よかった。やっぱり彼が嫌なのは譜久盛さんじゃあなかった。それだけで十分だ。
「俺にもわかるよ、音居くんの気持ち」
「――っ! お前に! なにがわかるって!?」
「わかるよ……全部一緒じゃあないだろうけど。足手まといになるのが苦しい気持ちも、自分といるより相応しい場所があるからって身を引いてしまう気持ちも、よくわかる」
だから、俺にはなにも言えない。
仕方がない。そういうこともある。
どうしようもないんだ。
今でもそう思っていたかもしれない――ディナに出会っていなければ。
「君の言う通りかもね。譜久盛さん、仲直りしたんだって。金森さん――昔ケンカしてしまった友達とも。それで今日、その子の前でステージに立って、きっと一人でも成功させて」
足が竦んでしまうかもしれない。
声が震えてしまうかもしれない。
それでも彼女は歌ってみせる。そのための勇気は、俺達が灯す。
「そしていつか、一人でも立派になって、君ではない誰かの曲を歌うのかもしれないね。テレビとか、ラジオとかでも流れたりして、君の耳にも届くんだ」
目を閉じる。瞼の裏に浮かぶ。なんでだろう……彼女が歌っているところ、見たことなんてないのに。
「――君のことが好きだって」
その未来だけは、はっきりと信じて描き出せるんだ。
「離れたら忘れられるなんて思い上がりだ。どこまでいっても、なにを歌っても。その向く先はきっと君だよ。だからあとは時間だけの問題なんだ――君が、いつまで目を反らし続けられるかの。でも!」
だから正直、放っておいたっていい。
どうせいつかたどり着くべき場所にたどり着く。それでも今こうしているのは、ただの俺のわがままなのだろう。
「その未来が君にも見えるなら! 応えたいのが君の本音なら! 今行こう!」
俺が、今見たいんだ。
ハッピーエンドにたどり着く君たちを!
「でも……曲が……」
「そんなもの、好き勝手鳴らせばいい! だって君は一度だって、sizuriの曲から目を背けなかった!」
手を取る。閉じ籠った殻の中から引っ張り出す。
あれほど重かった彼の腰は、ふわりと浮かぶように持ち上がった。
「音は君の中にある。あとは見つけるだけだ――二人で!」
靴の踵を踏んで、きちんと履かないままに玄関を飛び出す。
転ばないよう気をつけながら、エレベーターを待つのすら我慢しきれず階段を駆け下りた。
視界の端に一瞬、管理人さんが手を振るのが見えた気がする。構わずそのままエントランスから外へ。
「おい、多々良これ……」
「瀬場さん! 学校まで大急ぎで!」
着いた途端勝手に開いた後部座席のドアから音居くんを押し込んで、運転席に指示を飛ばす。
瀬場さんからの「かしこまりました」が返って来る頃には、もう既に走り出す寸前だった。
「おいって! これ大丈夫なんだろうな!?」
「大丈夫! バーネロンド家御用達のタクシーだから!」
「余計怪しいんだよ! 連れ込まれた先で売られたりあの女に食われたりしないだろうな!?」
「俺たちも出番あるから大丈夫! 終わったら逃げて!」
「てめっ……!」
謀ったなーーーーーー!!
社内に響くその断末魔は、どこか少し嬉しそうに、リスタートの舞台へ吸い込まれていった。




