第九十六話 待機時間
リーラは闇の中に居た。
闇と自分を同化させる。
何も感じない。何も考えない。
やがて自己を喪失させ、無が訪れる。
無の世界で、リーラは世界と繋がった。
いや、もしかしたら、リーラ自身が世界その物なのかもしれない。
無の世界では時間は流れない。
どれぐらいそうして居ただろう。
一瞬の出来事かもしれないし、もしかしたら、永遠と呼べるのかもしれない。
自己を喪失し、時間を失った世界。
その世界に、侵入する不純物が一つ。
「これを読むです」
その不純物たる声は、少女の高い声であった。
「えー、なになに」
軽く咳払いしたのち、声がまた聞こえる。
「森の賢者のお話。あるところに、森がありました。森は、生命を育む揺り籠。揺り籠の中で、動物たちは不自由なく暮らしていました」
少女の声が響き、無の世界が歪む。
「ですが、森に住む賢者は気付いていました。森に異変が起きようとしていることを。賢者は悩みます。その悩みは、異変の原因が分からないことでも、異変に対しての対抗策が思いつかないことでもありませんでした」
少女の高い声が続き、リーラは無の世界から切り離された。
そして、自己を取り戻し始める。
「実のところ、賢者には分かっていたのです。異変の原因も、それに対する対抗策も。ですが、賢者は悩んでいたのです。その悩みは―――」
「……あの」
完全に自己を取り戻したリーラは、思わず声を掛けてしまった。
「おや? どうしたのです?」
「何故、ここで本を読んでいるのですか?」
「リーラさんが退屈かと思いまして。あ、内容が気に入らなかったのです? 別の物語にした方がいいですか?」
リーラは言葉に詰まる。
障壁を隔てて、桃色の髪の小柄な少女が、首を傾げてこちらを見ている。
退屈……。
リーラには、退屈という概念は存在しない。
あるのは、任務、待機、その他生命活動に必要な最低限の行動のみ。
今は、待機に当たる時間だ。
少々長すぎる気がするが、生命活動に支障はない。
この期間に該当するのは、待機しかない。
待機時間には、瞑想して自分をクリアにする。
余計なものが自分を侵食することを防ぐために。
自分には、余計なものは不要だから。
「そう……ですか……」
リーラは思考を巡らすが、適切な言葉が思いつかなかった。
当たり障りのない返事が口から出てしまった。
「はい! では、続けるのです! えっと、賢者は―――」
桃色の髪の少女は、楽しそうに続きを読み始めた。
リーラは、もう何も言わなかった。
目の前の少女の思考が読めなさすぎる。
こういった相手の対処法をリーラは知らない。
今まで対処してこなかった。その必要がなかったから。
「―――でした、終わり。どうです? 楽しかったですか?」
朗読を終えた少女は、嬉しそうにリーラに問い掛けた。
何がそんなに嬉しいのだろう。
リーラは、また言葉に詰まる。
何と返せば良いか分からなかったし、そもそも、話の内容を聞いていなかったから。
ただ耳に音を入れていただけ。聞いていたとは言えないだろう。
「……私には何とも」
「あれ? そうですか? じゃあ、別の本を持ってくるです!」
そう言って、腰を上げて飛び出そうとする少女。
これには、流石のリーラも待ったを掛けた。
「待ってください。必要ありません。……私に構う必要は」
「え? でも退屈じゃないですか? あたしなら、気が狂うかもしれないです。こんな所に閉じ込めて申し訳ないのです。でも、出す訳にはいかないのです。ですから、これはせめてものお詫びなのです」
そう言って、屈託なく笑う少女。
リーラの黒曜の瞳に映るその少女は、とても眩しく見えた。
「……私には分かりません。私は、貴方達にとっては敵である筈です。それなのに、何故……」
「うーん、それは確かにそうなのかもしれないですが、あたしには、今のリーラさんが他人事だと思えなくて」
「……どうしてですか?」
「あたしも同じだったからです」
「同じ……とは?」
「はい。あたしも以前は一人でした。言葉にするのは少し難しいですが、世界に漂い、世界を見下ろす感覚でしょうか? 長い間そうしていたような気がします。自己認識も時間の感覚も曖昧で、それはもしかしたら、気のせいだったのかもしれません。ですが、何者でもないあたしは、確かに欲していたのです。今になって、その気持ちは確信に変わりました。それは―――」
少女は、一呼吸して続ける。
虹色の瞳を輝かせながら。
「それはマスターのお陰なんです。マスターが私を見つけてくれました。私を救ってくれたんです。だから、今度はあたしが誰かを救う番なのです」
「誰かを……救う……」
「はい! そうなのです! それでは、別の本を探してくるのです!」
そう言って、少女は飛び出して行ってしまった。
一人残されたリーラの口から言葉が漏れた。
「救う……ですか……」
そこで思い出した。
リーラには、救いは必要なかった。
強がりではない。
何故なら、リーラは既に救われていたから。
ずっと前に。
ある男に。
リーラは、その者の名を口にした。
「パルテノ……」




