第七十九話 碧の奔流
双頭の黒犬は殺意を放つ。
左頭の顎が開かれた。
口腔から熱が発生し、熱が炎と成り、炎が球状の形を取る。
球状の炎が放たれた。
巨大な炎弾は、猛スピードでカヤに接近。
カヤは飛び退いて、炎弾を躱す。
直後、炎弾が地に着地し、爆ぜた。
熱と衝撃が荒れ狂う。
衝撃により跳ねた土がカヤの体に飛び散るが、カヤはそれを無視し、黒犬に向かって飛び出した。
一瞬で黒犬と距離を詰め、金棒を振るう。
黒犬の左前脚を金棒で思いっきり振り抜く。
「グガッ!!」
手ごたえあり。黒犬は堪らず唸り声を上げる。
黒犬は怒りを爆発させた。
黒犬の右前脚がカヤに迫る。
カヤは体を一回転させ、金棒を黒犬の右前脚にぶつける。
凄まじい衝撃音が響く。
カヤの剛力が、黒犬の右前脚の爪と骨を砕く。
「グガガガガガガッ!!」
黒犬は大きな唸り声を上げる。
あまりの痛みに、巨体が硬直。
カヤはその隙に金棒の連打を叩き込む。
黒犬の左前脚に一点集中。
黒犬の左前脚を完全に破壊する。
黒犬は左前脚を崩し、バランスを失う。
カヤは黒犬の背後に回る。
左前脚の自由を失った黒犬は、カヤを捕捉することが出来ない。
そこからカヤは、好き放題に金棒を叩き込む。
「アハハッ! アハハハハハッ!!」
狂気をはらんだ笑い声を上げ、敵を粉砕する。
黒犬は全ての四肢の骨を砕かれた。
最後に、左右の頭部にも金棒が叩き込まれ、意識が断然。
「な~んだ、見掛け倒しね」
カヤは「フウッ」と息を吐き、手の甲で額の汗を拭った。
「まあ、結構楽しかったけど」
黒犬の強度はコボルトとは段違い。
ありったけの力で、金棒を何度も叩き込んだ。
それでもまだ息がある。
実戦で思う存分金棒を振るえたカヤは、十分満足した。
満足しつつ、どうやって黒犬の息の根を止めようかと思案するカヤの背後から、声が聞こえた。
「カヤ」
後ろを振り向くと和也がそこに居た。
「カズヤ! ねえ、見て見て! この怪物を私が一人でやっつけたのよ。すごいでしょ?」
「……」
天真爛漫に言い放つカヤに、和也は無反応。
和也は眦を吊り上げ、口を固く閉ざす。
カヤは首を捻り、和也に問う。
「あれ? 何か怒ってる?」
「……たりまえだ」
「え? なに?」
「当たり前だって言ってんだ!!」
「―――!?」
鬼気迫る和也の表情。腹の底から放たれる怒声。
今まで怒鳴られたことが殆ど無いカヤは、その迫力に怯んでしまった。
「なっ、なによ。何をそんなに怒っているのよ」
「何をだと? 本当に分からないのか?」
カヤは本当に分からなかった。
カヤの中では、何よりも自分の快楽が優先される。
わざとコボルトに攫われ、和也達に心配と迷惑を掛けたという罪悪感は、すでに快楽に塗りつぶされている。
「わざとコボルトに攫われたな?」
その和也の言葉でようやく気付く。
「ああ、そのことね。確かに、ちょっと心配かけちゃったかしら? でも問題ないわ。だって、ほら、見てよあれ」
カヤは地に沈む黒犬を指さした。
悪びれる事なく、自慢げに。
「ふざけるな!!」
響き渡る和也の怒声。
「だ、だから、何をそんなに怒ってるのよ。こうして無事だったから良いじゃないの」
「……もうお前は連れていけない。時間の大幅ロスだが、一度ジェノに戻る。お前をジェノまで送り届けたのち、お前抜きで再出発する」
「なっ!」
カヤは焦った。
あり得ない。それだけはあり得ない。
こんなに楽しいことが奪われてたまるか。
それだけは看過できない。絶対に。
カヤから黒い衝動が湧き上がる。
その衝動に支配され、身体が勝手に動いた。
カヤの右拳が和也の顔面へと突き出された。
カヤの拳に、和也の鼻の骨が折れる感触が伝わる。
拳が直撃した。これで相手の心も折れる筈だ。
「―――なっ!?」
カヤは動揺した。
和也は、拳を顔面に受けて尚、微動だにせずカヤを睨む。
その眼には、確かな怒りの炎が宿っていた。
「このっ!」
カヤはその怒りの炎を吹き飛ばそうと、再度拳を振り上げた。
カヤは自分を見失っていた。
自身の大切なものを守ろうと、必死に暴力を振りかざす。
パシッ。
と音を立て、カヤの右手首が何者かに掴まれた。
「そこまでだ、カヤ」
振り向くとライサンが居た。
ライサンはカヤの右手首を掴み、拳を止めた。
「……ライサン」
ライサンの接近に全く気付かなかった。それ程、周りが見えていなかった。
カヤの右手首を掴んだまま、ライサンは言う。
「カヤ、自分を抑えろ。それからカズヤ、すまない。カヤの責任は取ると言ったが、こんな結果になってしまった。自分の未熟さを痛感する」
和也は少しだけ表情を和らげ、ライサンに答えた。
「いや、ライサンのせいじゃないさ。この娘は俺達の手に余る。ただ、それだけさ」
「ちょ、ちょっと、待ってよ! わたしは―――」
カヤの叫びを和也は左手で制した。
「カヤ、言いたいことは山ほどあるが、取り敢えずは―――」
和也が言葉を途中で切り、黒犬の方を向く。
「覚えておけ。あの手の怪物は、最後まで油断できない」
和也の脳裏に浮かぶのは、天空で戦った雷の獣。
そして、和也の予想通り、黒犬は立ち上がった。
この短時間で立ち上がるまでに回復。
怪物の驚異的な回復力はそれを可能とする。
黒犬は怒りを爆発させ、朱色の眼でカヤを睨みつける。
そして、右頭の顎を大きく開き、黒い瘴気を吐き出した。
大量の瘴気が吐き出され、瞬く間にこの一帯は闇に包まれた。
「なっ、なによこれ!?」
カヤは焦った。
闇に包まれ、何も見えない。
なによこれ!? なんなのよ!?
そして、極度の不安に襲われる。
世界から置いて行かれる感覚。
自分だけが世界と隔絶され、森羅万象から切り離され、永遠の孤独を彷徨う感覚。
これこそが、黒犬の切り札。
広範囲に広がる黒い瘴気は、相手の視界を奪うだけではない。
瘴気の呪いに触れた者は、精神障害を引き起こす。
相手の心を蝕む、凶悪な瘴気。
呪いを振りまく闇の獣。忌むべき呪いの番犬。
双頭の黒犬は、怒りを殺意に変え、敵を呪う。
「なによ! 何も見えないじゃない! 嫌だ! こんなの嫌! いや! いやあああああああっ!!」
カヤはすでに錯乱状態。その場に蹲り、頭を抱える。
精神が呪いに浸食され、自分を見失いそうになる。
「落ち着け」
カヤの手に、誰かの手が優しく触れた。
その瞬間、目の前に光が溢れた。
カヤは魅入ってしまった。その碧の輝きに。
淡く優しい輝きは、カヤを包み込む。
優しい輝きに包まれて、カヤは次第に落ち着きを取り戻す。
そんなカヤに、また声が掛けられた。
「俺のことを良く見ておけ。決して目を離すな」
和也はカヤにそう告げて、前を歩き始める。
闇の中に光る、希望の輝き。
和也に言われずとも、カヤはその輝きから目を離すつもりはない。
あれこそが、あの光こそが、自分の道しるべ、最後の希望なのだから。
黒犬は苛立ちを覚えた。
自身が巻き散らした、災厄の呪い。
その呪いに触れて尚、立ち上がる者が居る。
あの輝きはなんだ? 煩わしい、非力な人間如きが。
黒犬は怒りに突き動かされ、その輝きの方へ飛び出した。
闇の中で黒犬の朱色の眼が軌跡を描く。
輝きを放つ小癪な人間を嚙み砕くため、顎を大きく開いた。
鋭い牙が闇の中で光る。
ガチッと音を立て、顎が閉じられた。
だが、人間を噛み砕いた感触がない。
人間が消えた。どこだ? 矮小な人間はどこへ行った?
黒犬は周囲を見回した。闇の中で輝きを探す。
そして気付いた。世界が裏返っていることを。
地が天に、天が地に裏返る。
否。
やがて真実に気付いた。
世界が裏返っているのではない。首が斬り落とされたのだ。
首が宙を舞い、視界が逆さまになる。
和也は一太刀で黒犬の右頭を斬り落とし、即座に黒犬の背に飛び乗った。
そして、右の掌でそっと背中に触れ、意識を集中。
アスクレピオスの膨大なエネルギーを右の掌に凝縮。
右の掌に碧の輝きが荒れ狂う。
極限まで凝縮し、それを一気に解き放った。
「超新星の奔流」
莫大なエネルギーが、一気に黒犬へと流れ込む。
超高濃度のエネルギーが黒犬の体を駆け巡る。
そのエネルギーは、黒犬の器を即座に満たした。
それでも尚、激しく流れ続ける力の奔流。
やがて、器は限界を迎える。
「ウガガガガガアアアアアアアッ!!!」
黒犬は体の異変に気付き、残された左頭で雄たけびを上げる。
そして、それが最後の断末魔となった。
黒犬の体が輝き始める。
輝きは強さを増し、碧の輝きが闇を祓う。
黒犬の体に亀裂が入った。
体のあちこちに亀裂が入り、その亀裂から強い輝きが漏れる。
亀裂から漏れ出る、幾つもの光の線。
その光の線が太くなり、輝きは最大に。
次の瞬間、乾いた音を立て、黒犬の体が弾けた。
一瞬にして、黒犬は消失。
黒犬は光の粒子と化し、この辺り一帯に降り注ぐ。
キラキラと輝く碧の粒子が、この場を碧の世界に変える。
幻想的な光景に、カヤは目を奪われた。
地に腰を落とし、その光景を目に焼き付ける。
輝く光の粒子は、全てを浄化する。
カヤの黒い衝動でさえ。
カヤは微動だにしない。顔に笑顔はない。
只々、金色の眼を見開き、いつまでもその光景を見ていた。




