第七十三話 指針
天空の宮殿、左翼棟二階バルコニー。
「ここにいたか」
バルコニーから景色を眺めていた優斗の背中に声が掛けられた。
優斗は振り返った。
「和也」
和也は入り口の扉からツカツカと歩き出し、優斗の横に並んだ。
その後、和也は何を言うでもなく、バルコニーから景色を眺める。
優斗も何も言わず、また外の景色に目を向ける。
今日も今日とて穏やかな陽気だ。
風は随分と穏やかで、ここが天空だという事を忘れそうになる。
無言の時間が続くが、気まずさはない。むしろ心地が良い。
和也も優斗も、お互いのことを良く理解している。
今更、余計な言葉は要らない。
だから、優斗は余計を省いて伝えることにした。
「僕は、和也に付いて行くよ。どこにも行かない」
和也は何も言わない。その代わり、長く息を吸い、深く吐いた。
優斗には分かっている。和也の気持ちも、和也がこれから言おうとしていることも。
和也には分かっている。優斗の気持ちも、優斗が先程告げた言葉の真意も。
クラーケン討伐の際に放った神の槍。
それは、二人の神意の合わせ技、究極の奥義。
そして、その時、二人はお互いの意識を共有した。
神意を通じて、相手の心が自分の心に流れ込んでくる。
洪水のように激しい流れであったため、正確に読み取れた訳ではない。
読み取れたものは断片的。それでも、理解するには十分であった。
和也は目線を外に向けたまま、隣に居る優斗に言う。
「心配―――なんだろ? エイナのことが。俺達なら大丈夫だ。行ってこい、優斗」
優斗は目をつぶり、肩を竦めた。
予想していた和也の言葉。
和也の言う通りだ。僕はエイナの事が心配でたまらない。
それでも、こんな状況で和也達から離れるような薄情者ではない。
「心配だよ。そりゃあね。だけど、さっきも言ったけど付いて行くよ、僕は」
その答えを予想していた和也は、何も反応を示さない。
空をぼんやりと眺めて間をおいた後、しゃべり始めた。
「優斗、俺はさ、元の世界では結構無理してたよ」
意外な言葉が和也の口から飛び出した。
その内容に驚いた訳ではない。今この場で、元の世界の話をすること自体に驚いた。
「どうしたのさ、急に」
「兎に角さ、周りから良く見られようと必死だった。皆に迷惑を掛けた分、それを取り戻そうとしてさ。毎日必死で、自分を擦り減らして、這いつくばって生きてたな。今思えば、なんと言うか、多分俺は、生きることが下手クソだったんだ……と思う」
優斗からすれば、和也の告白の内容は意外ではなかった。
和也はすごい男だ。それは間違いない。
どんなに高い壁を前にしても諦めない心。
他者を思いやることが出来る優しさ。
常に試行錯誤し、最良の結果を模索する姿勢。
そのどれもこれもが、優斗には眩しく見える。
だが、この世というものは、自分の思い通りには行かないものだ。
思い通りにいくことの方が少ないのかもしれない。
和也の愚直さは、時に世界との摩擦を生む。
その摩擦を顧みずに突き進んだのならば、やがて自らを破滅させるだろう。
だから適当に手を抜いて、適当に折り合いを付けなければならないのだ。
「だから俺は、正直言うとこの世界が楽しい。たくさん痛い思いしたし、死に掛けたのにな……。可笑しいよな、今だって難問にぶつかって困り果てているって言うのに」
空を見上げ、和也は尚も続ける。
「でもさ、それでも俺は帰らなきゃいけない。こんな形で、元の世界から目を背けちゃいけないんだ。元の世界できっちりケジメを付ける。そうじゃなきゃ前に進めない。だから、帰れる手段があるのなら、やるだけのことはやってみようと思う」
「和也……」
優斗は何も言う事が出来なかった。
自分は和也とは違う。そういう風に考えることは出来ない。
黙り込む優斗に和也は語る。
「それに……会いたいんだ。父さん、母さん、先生、皆に。もう一度だけでいい。もう一度会って、ちゃんと感謝を伝えたい。ちゃんと別れを告げたい。全てのケジメをつけて、またここに帰ってくるために。この世界にはもう、大切な人が多すぎる。だから、俺はここに帰ってくる」
「ハハッ」
黙って聞いていた優斗が笑う。
目線を外に向けたまま、和也に言う。
「和也ったら、欲張りすぎ」
「そうか?」
「うん。そうだよ。でも―――、それでこそ和也、かな」
元の世界への帰還。そして、再度この世界への渡航。
正直、可能だとは思えない。それをするには、奇跡を何度も繰り返さなければならないだろう。
それでも、この男なら出来るかもしれない。和也はそう思わせてくれる男だ。
「ありがとう優斗。俺の気持ちはそんなところだ。どっちも選べない優柔不断な男だと思ってくれてもいい。だけど優斗、お前は違うだろ?」
「……」
「お前はこの世界を選んだ。だから、命を懸けて俺に付きあう必要はないんだ」
和也に核心を突かれた。
その通りだ。自分はもう、元の世界への帰還を望んでいない。
そもそも、初めからそうだった。
ただ、自分の勘を信じて和也について行っただけ。
自分の勘と言う、人生の羅針盤に。
そして今は、その羅針盤は機能していない。
それよりも重要なことを見つけたから。
だけど、それでも……。
優斗は、隣にいる和也の方を向いて言う。
「最初に言ったけど、それでもやっぱり、僕は和也について行く。今更、君達を放っておけないよ。そんな薄情な真似はできない。これは意地。僕の中に残された、最後の意地だ」
「ありがとう。多分、俺が優斗の立場だったとしても優斗と同じことを言うと思う。それでも俺はあえて言うよ。こっちは大丈夫だ、行ってこい、と。今、行かないと後悔するかもしれない。俺はお前に後悔して欲しくないんだ」
「ふぅ……。しつこいなー、和也も。僕自身が大丈夫だって言ってるじゃないか。それとも……僕が邪魔なのかい?」
「そんな訳ない。そんな訳ないじゃないか。優斗が居てくれれば、かなり心強いよ。でも、知ってしまったんだ。お前の心を。知ってしまったからには見過ごせない。このことでお前と言い争いになることも分かっていた。それでも、俺はあえて言うんだ。お前に後悔して欲しくないから。お前のことが大切だから。心から、お前に幸せになって欲しいと思うから」
「……プハッ」
優斗は吹き出してしまった。
「……って、笑うか? この場面で」
「ハハッ、ごめんごめん。だって、和也、それじゃあ……愛の告白みたいじゃないか」
「お、俺は真面目に!」
「分かってるって。だからごめんて」
「ったく、お前は……」
和也は呆れたように笑った。
優斗も笑う。晴れやかな心持で。
「まいったな。そう熱い告白をされたんじゃ、断れないじゃないか」
「優斗……それじゃあ……」
「うん。お言葉に甘えさせてもらおうかな。でも―――」
「ん?」
「この離脱は一時的なものだ。落ち着いたら、また戻ってくる。それが妥協点かな」
「分かった。正直、助かる」
優斗は大きく息を吐いた。すごく疲れた。
疲れたけど、心が軽い。
うん。これでよかったのかもしれない。
心の隅にモヤモヤを巣くわせていたのでは、いつか足をすくわれたかもしれない。
和也のお陰だ。言いにくいことをあえて言ってくれた。
やっぱり、すごいや、和也は。
優斗は和也に感謝した。そして、和也に言う。
「それじゃあ、最後に―――やろうか」




