第六十五話 異常海域
「揺れて……いる」
ライサンが突然呟いた。
優斗は自分の左下から聞こえるライサンの声に、ハッと驚いた。その声によって、思考が現実に戻される。
「揺れている? そりゃあ、船なんだから揺れてるさ。というか大丈夫?」
ライサンは自分の膝の間に顔を埋め、座り込んでいる。
かなり体調が悪そうだ。
そんなライサンが、か細い声で優斗に言う。
「ち、ちがう……そうじゃ……ない」
ライサンの犬耳が激しく動いている。
獣人の鋭い感覚で、何かを感じ取ったのかもしれない。
優斗は、船員たちに注意を促そうとした。
だが、それは、一足遅かった。
船首の前方の海から、突然、水しぶきが上がる。
途轍もない量の水が弾け、優斗は一瞬、嵐がやってきたのかと錯覚した。
嵐を巻き起こした正体、それは、タコの脚だ。
びっしりと吸盤が付いたその脚は、紛れもなくタコの脚。
だが、そのサイズは、優斗が元の世界で目にしていた物とは規格外。
宙まで届きそうな足を鞭のようにしならせ、先行する幸福に叩きつける。
叩きつけられた幸福は、マストと甲板が破壊され、盛大に木片を飛び散らす。
幸福の船員たちは、パニックに陥り、次々に海へ飛び込んだ。
そして、その怪物は、沈み行く幸福に脚を絡め、甲板に身を乗り出した。
ぬめっとした白茶の巨大な頭が甲板の上に現れる。
船とほぼ同じサイズの頭部には、黄色く濁った目が二つ。
大海の怪物の不気味な目が、残りの船を捕捉した。
「なんだ……あの大きさは……」
イグサが目を見開き呟いた。
和也が、固まるイグサの肩を大きく揺する。
「イグサさん! 指示を!」
この船で最も階級が高いのはイグサだ。
皆、イグサの号令を待っている。
イグサは我に返り、キッと口を結ぶ。
その後、右手を前にかざし、命令を叫ぶ。
「総員、戦闘開始! 船を旋回し、奴を狙い打て!」
船員たちは、その命令で我に返り、一斉に動き出した。
一気に船上が慌ただしくなる。怒声が行き交い、バタバタと走り回る足音が船上に響く。
船が舵を切り、左へ旋回開始。ゆっくりだが、確実に船が動き出す。
クラーケンは、幸福の上でじっと動かずに、船の動きを観察している。
船首がクラーケンの方を向いた。
そして、船首から鉄製の大砲が現れる。
前に突き出された大砲は、轟音を轟かせ、砲弾を吐き出した。
膨大な運動量を受けて、砲弾が風を切り突き進む。
天が裂けるような爆音が鳴り、大量の炎と煙が発生。
凄まじい威力のエネルギーが、クラーケンを襲う。
気付けば、他の船も船首をクラーケンに向けている。
四隻の軍艦からの集中砲火。鳴りやまない轟音。炎の嵐。海上に発生する大量の黒煙。
砲撃の衝撃で船が揺れる。ここからでも炎の熱を感じる。
これを受けて無事な訳がない。
船の上から歓声が上がる。こんなにも早く怪物と遭遇するとは想定外だったが、これで任務完了。
早々に帰還できるのだから、嬉しい誤算だ。
だが、勝利の余韻は、束の間のひと時だった。
クラーケンの脚が煙を裂いた。
その脚で慈悲を攻撃。慈悲は派手に木片を飛ばし、一瞬の内に大破。
煙が晴れ、クラーケンの頭部が再び姿を現した。
船上の全ての者が言葉を失う。
クラーケンは、全ての脚を自身の体に巻き付け、砲弾から身を守っていたのだ。
砲弾により脚を半分以上失っているが、怪物の驚異的な再生力は、それを問題にしない。
脚はいずれ回復し再生する。それが、大海の怪物の真髄。
海の悪魔として恐れられる、怪物の真骨頂。
イグサが叫んだ。
「馬鹿な! あの巨大な図体に加え、知恵もあるというのか!?」
このようなクラーケンは知らない。見たことも聞いたこともない。
これほど巨大で、これほど頭が回る怪物が居るなど、悪夢としか思えない。
これはまずい。これは完全に異常事態。
今の戦力では全滅は必至。
だが今更、逃げられるとは思えない。
どうする!? どうすれば!?
自分に言い聞かせる。冷静になれと。
だが、それでも、この場を切り抜ける策が浮かぶわけではない。
焦るイグサの背に、声が掛けられる。
「大丈夫だ」
ガシッと右肩を掴まれ、イグサは後ろを振り向く。
右肩を掴んだのはライサンだ。
青い顔で気分が悪そうだが、幾らか回復している様子。
「ライサンさん。大丈夫……とは?」
この絶体絶命の状況で、どうしてそのような言葉が口から出る。
状況が見えていないのか?
イグサは少しだけ苛立ちを覚えた。その苛立ちには、己の無能さへの怒りも含まれているだろう。
そんなイグサの胸中を他所に、ライサンはニヤッと笑う。
「大丈夫だ。俺達の出る幕は、もうない。あいつらならやってくれる」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「アハハッ! すごい! すごいわ!」
希望の甲板の上に、鬼人族の姫は立っていた。
船の縁から上半身を乗り出し、しきりに興奮している。
カヤは思った。やっぱりだ。やっぱり、あの人間の後をつけてきて良かった。
あの人間、確か名は、和也と言ったか。
一目見た時から感じたのだ。この者は、私の渇きを潤してくれるかもしれないと。
その勘を信じ、彼の素性を調べ、密かに監視していたのだ。
そうしたら、直ぐに面白いことが起こった。
この国では誰も逆らえない、偉大なる大王ゴギョウ・ガオエンに、あの者は楯突いたのだ。
カヤはその現場を見ていた。
興奮した。身体中の血が騒いだ。退屈が一遍に吹き飛んだ。
気が付けば、もう夢中になっていた。
けれども、すぐに近づくことはしなかった。
それをしてしまえば、一つ楽しみが減ってしまうからだ。
カヤは楽しみ方を知っている。何故なら、カヤはその道のプロだ。
楽しみ方には一家言ある。
どうせなら、最高のタイミングが良い。
わざと彼を事件に巻き込み、彼が困っている所に颯爽と現れるのも良いし、逆に、彼に助けられるのも良いかもしれない。
何事か困っている風を装い、彼の目に留まったところで、彼に無理難題を押し付けるのはどうだろう。
彼の困る顔を眺めるのも、一興というもの。
色々悩んだが、まだ結論は出ていない。
そうこうしている内に、彼が海に出ると言うので、ついついこの希望に忍び込んでしまった。
しばらく荷物に紛れてじっとしていたが、退屈で飛び出してしまった。
出来れば船員には迷惑を掛けたくなかったので、できるだけ隠密行動を心がけようとしたが無理だった。
船はあっと言う間に騒ぎとなってしまった。
これには流石に反省した。船員たちに余計な気を使わせてしまった。
私に構わず任務を続けよと命じたが、それは拒否された。
護衛をはりつけられ、船内で一番豪華な部屋に押し込まれた。
定期的に部屋の扉が叩かれ、お加減は如何ですか? とか、お飲み物やお食事は如何ですか? と聞かれるので、落ち着かないったらない。
もっとも、全て自分が悪いのだが。それは分かっている。
だけど幸いなことに、その退屈な時間はすぐに終わりを告げた。
大海の怪物が現れたのだ。
カヤは混乱に乗じて部屋を飛び出した。
目に飛び込んできたのは、巨大な軟体の怪物。
とんでもない迫力だった。知識として知っていることと、経験で識ることはまるで違う。
この世界の未知を一つ己に取り込んだ。
心が満たされる感覚。カヤはその感覚に酔った。
酩酊にも近いソレは、脳内物質によって引き起こされるものか。
脳内が荒れ狂い、極度に興奮している。
けれど、その興奮が更にもう一段、上のステージへ跳ねた。
カヤは見た。黄金に輝く、巨大な槍を。
帆船の全長よりも長い黄金の槍が、突然、空に現れた。
この海域は、黄金の輝きに満たされた。眩い光が、この空間を照らす
ここに居る全ての者達は、空を見上げ祈った。
この世の神秘に触れ、理屈を通り越し、自然に湧き上がる畏怖の感情。
神と呼ばれる者の力を前に、畏怖し祈りを捧げた。そうしなければならない気がしたから。
黄金の槍がクラーケンに標準を合わせた。
クラーケンは迷った。脚で防御するか、海へ逃走するか。
結果、防御を選択。
その方が、この場にいる小さな者達に絶望を与えられると考えたからだ。
クラーケンには自信があった。あの槍を受け止められる自信が。
それは、この怪物がこれまで築き上げた、経験と実績に裏打ちされたもの。
自分が負けるわけがない。これ迄、他の生物を力で圧倒して来た。その傲慢とも言える、怪物の自信。
その怪物の自信は、今日初めて、破壊される。
黄金の神槍によって。
神槍はクラーケンの防御を難なく突破。
何重にも巻かれた脚を貫通し、頭部に突き刺さった。
神槍はクラーケンの頭部を串刺しにしたまま、空へ上昇。
ぐんぐんと高度を増し、やがて成層圏手前まで到達。
そして、突如として神槍は姿を消した。黄金の粒子のみが宙を漂う。
自身を運ぶ動力を失い、怪物は重力に囚われた。
重力が怪物を誘う。
超高高度からの海への落下。
膨大な量の海水が弾け飛ぶ。海水の雨が、船上に降り注ぐ。
神槍が貫いた怪物の頭部の穴から、大量の海水と、強大な圧力が流れ込む。
怪物の頭部が弾け、辺りに体液や臓器やらを巻き散らした。
ぐちゃぐちゃになった臓器の破片が、カヤの頭に降りかかる。
ぐしゃと嫌な音を立てて、カヤの頭部に着弾。
気持ちの悪い体液が、カヤの顔面に垂れる。
それでも、カヤは笑っていた。
愉快そうに。目を爛々と輝かせて。僅かばかりの狂気をはらんで。
「アハハッ! アハハハハハハハハッ!! ハハハハハハハハッ!!!」




