第四十一話 濁流の中に
爽やかで、心地よい風が吹く。下界の喧騒など我関せずと、そよ風が吹き抜ける。
天空の宮殿、左翼棟二階。左翼棟の一室、バルコニーのある部屋に優斗は居た。
優斗はこのバルコニーが気に入っていた。
何か事あるごとにここに赴いて、ボーッと空を見上げる。
全くもって意味のない行動だが、その意味のなさこそが、何よりも価値があるように感じて。
この日も同じように空を見上げる。
暖かな陽光が降り注ぎ、吹き抜ける風から自然の息吹を感じる。
そのような穏やかで、晴れやかな昼下がりであったが、優斗の心が晴れることはない。
優斗は湧き上がってくる感情に頭と心を支配されていた。
次から次へと溢れる感情の濁流。
その濁流を押しとどめておくことは、もう出来ない。
そのような状況にありながら、濁流の中で時折、光を見る。
その光が何なのか必死に手を伸ばすが、激しい濁流に流され、それは叶わない。
その時、不意に背後から声が聞こえた。
「ユウト」
後ろを振り向く。
声を掛けてきたのはエイナだ。
優斗はエイナに返事をする。それぐらいのことは出来る。上っ面で、形だけ取り繕うのは得意だ。
「……やあ、エイナ」
エイナは何やら不安げにこちらを見ていたが、そのまま言葉を続けた。
「ユウト……私、貴方にお礼を言わなきゃ」
「お礼?」
「ええ。あの時、私を止めてくれてありがとう。あの時はユウトのことを憎いと思ったけど、私が飛び出してたら父さんの覚悟が無駄になっていた。それは父さんの本望じゃない。だから…………ありがとう」
天空への脱出劇の際、セブナが影に囚われてしまった。
あの時は無我夢中でエイナを止めたが、今となってはそれすらも、正しい行いだとは思えなくなっていた。たった今、エイナにその行動を肯定されたにも関わらず。
心の中で誰かが言う。
お前は正しいことをしたんだ。たった今、肯定されたじゃないか。
ある者は言う。
本当に正しかったか? あのまま行かせてやることも優しさだったんじゃないのか?
お前の勝手な判断で一生、心に傷を負うことになったら責任とれるのか?
一生モノのトラウマは、心を殺す。
それはある意味、生きることより辛いのでは?
相反する自分の意見に心を乱される。もう何が正解か分からない。
「ユウト!」
また声が掛けられた。今度は力強く。
「貴方も知っての通り、私は貴方を避けてた。だから、貴方のことは何も知らない。…………でも、今の貴方が普通じゃないことは分かる。ねえ、それって私のせいなの?」
「…………何を言ってるんだい? 誰のせいでもないさ、ましてやエイナのせいでもね。さあ、もう僕の事は放っておいて、皆のところへ行ってくれ」
「どうして? どうしてそんなことを言うの? 確かに私は貴方のことを知らない。だけど、今までの貴方なら、そんなこと言うはずない。一体どうして…………」
またそれか。会議の間でも言ったじゃないか。僕ですら僕のことが分からないんだ。
だから、他人に僕のことが分かってたまるか。
ああ、そうか。あの時エイナは居なかったか。
「エイナ、すまないが僕にも分からないんだ。もう自分が自分じゃないみたいだ。自分が自分じゃないのなら、もうどうだっていい。どうだっていいんだ」
「な、なによ…………どうだって良いって。皆、必死で戦っているのよ!? どうだって良いとは何よ!!」
煩いな。本当に煩い、この娘は。何故、早くどこかへ行ってくれない。
こっちは自分の相手をするので精一杯なんだ。
「煩いな。どこかへ行ってくれ」
心で考えていることが、そのまま口に出てしまった。
普段の優斗なら絶対にあり得ないことだ。
「ねえ、本当にどうしちゃったの! 正気に戻ってよ! ユウト!」
エイナが優斗の肩を揺すって、必死に叫ぶ。
煩いな。頭に響くんだよ、その声は。
「煩いって言ってんだろ! 早く立ち去ってくれ!!」
―――パチン。
エイナの右の掌が、優斗の左頬を叩いた。
乾いた音を響かせた後、一瞬、この場から音が消え去る。
「ユウト、貴方が何か悩みを抱えているのは分かる、辛いのは分かる。だったら、誰かを頼りなさい。私を頼りなさい。一人で闇の中に蹲っているだけじゃ、何も始まらないわ。私もそうだった……。だから分かる。ねえ、ユウト…………貴方はそれで終わりなの?」
「くっ」
ああ、もう駄目だ。感情の渦が襲ってくる。もう限界を迎えようとしている。
このままでは、完全に自分を見失う。
エイナが立ち去ってくれないのなら、自分が立ち去るしかない。
優斗はバルコニーの手すりに足を掛け、二階から飛び降りた。
そしてそのまま、全力で駆けだす。目的地は特にはない。とにかくここを離れなくては。
「ユウト! 待って!!」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
エイナは必死で追いかけた。そして後悔する。
優斗に立ち直って欲しかった。その一心で精一杯、励ましたつもりだ。
だけど、あまりに考えなしだったもしれない。
誰しも放っておいて欲しい時ぐらいある。
それでも、どうしても放っておけなかった。
あの優斗という人間を見ていると、心がざわつくのだ。
一目見た時から分かった、この人間は何かを隠している。
裏に隠された何かがある。エイナの獣の勘は、それをはっきりと感じ取っていた。
だから、慎重に観察したのだ。いずれ尻尾を現す可能性があったから。
注意深く、少し距離を取って。
だけど、観察している内に分かった。
何かを隠しているというより、隠れた物を見ないようにしていることを。
言葉で表現するのは難しいが、そのような感覚。
だから、余計に気になった。その隠された物を見つけようと、時間を見つけては監視を続けた。
気が付けば自然と、優斗のことを目で追うようになっていた。
ある時、不意に気付いてしまったのだ。
これは、優斗のことをただ、見たいだけなのではないのかと。
その時は、そんなことある筈ない、と自分の感情に蓋をした。
でも今は、蓋の隙間から、感情が漏れようとしている。
だからこそ、どうしても、どうしても放っておけなかったのだ。
エイナは未熟な自分に活を入れる。
「ええいッ! 考えるのはあと! 今、ユウトを一人で行かせるのは不味いわ」
優斗は大森林へ向かって全力疾走。速すぎて引き離されそうになるが、なんとか食らいつく。
だんだんと優斗の背中が小さくなっていく。
やがて優斗は大森林の中へ。優斗の姿を完全に見失ってしまった。
エイナは暗い森の土をゆっくりと踏みしめる。
この森は危険な怪物が出ると聞いた。せめて兄さんを呼んでくるべきだったかもしれない。
今からでも呼んでこようか。
いや、そんな時間はない。
すぐにでも優斗を見つけなければ、取り返しのつかないことが起こる予感がある。
これは、幼少時から研ぎ澄まされてきた直観。
その直観が言っている。今の優斗は何をしでかすか分からない。
自暴自棄になり、最悪、自分を傷つけかねない。
エイナは精神を集中し、聴覚を研ぎ澄ませた。音が様々なことを伝えてくる。
獣人の聴覚は人より優れている。それは、人よりも小さな音を拾えるというだけではない。
音を聞き分け、情報を拾うことができるのだ。
土を踏みしめる音から、その者の凡その体重、体格が分かる。
空気の流れる音で、周囲で動く生物との距離、数が読み取れる。
一見静かな森だが、耳を澄ませば、様々な音が聞こえてくる。
小動物が駆け回る音。遠くの川で魚が跳ね、捕食者がそれを捕らえる音。
虫が鳴き、仲間に情報を発している。
風が木の実を揺らす。
やがてその実が地に落ち、動物がそれを食んだ。
そして、聞こえた。直立する二足歩行の生物の足音が。それが指し示すところは一つしかない。
エイナはその足音の方へ駆けだした。




