はなきん
登場人物
尾丸産業
羽田中 さくら 26歳:経理以外の内勤兼営業兼営業補佐
高良 のぞみ 26歳:経理
西方 安重 26歳:営業
新東 充 50歳:営業
海老谷 健一 58歳:社長
越前物産株式会社
蟹谷 敬三 64歳:部長
蟹谷 敬二 68歳:社長
蟹谷 敬一 70歳:会長
カタカタカタカタ……
オフィスに聞こえるキーボードの音。
今日は金曜日。
お昼ご飯を食べ終わった午後のひととき。
予定表が書かれたホワイトボードには《直帰》のプレートが並んでいる。
お昼は、行きつけの隣の総合病院の地下にある食堂でジャンボ鯖味噌定食を食べた。500円。
いつもならこの時間は内勤の天国。
……なのに
『羽田中さん! 見積書、作るの忘れてたんだ! 15分で、お願い!』
新東さんのせいで優雅に過ごす時間が台無しに。……スマホはメッセ打つのが早いくせに、パソコンは一応使えるけど入力が遅いのよねぇ。だから、あの人が書類を作れば1時間以上はかかるから……。
「仕方ない仕方ない。お仕事お仕事」
そう、年功序列の会社じゃよくあることだ。多分。
「えっと……見積書……と、仕様書? にゃろぅ、見積書だけ、つっただろうが……」
ぶつぶつと独り言を言いながら、クリップで束ねられた十数枚の書類を眺める羽田中さん。
まぁ、この仕様書だったら……この前のを流用して……あった。……うん、品名を変えれば大丈夫そう。
カタカタカタカタ……
リズムよく入力する羽田中さんの手が止まる。
「えっと、新東さん……」
モニタの左側から覗き込み声をかける羽田中さん。
……いない。
席にいない新東。
今度はモニタの右側から部屋の隅を眺めると、ガラス張りの喫煙スペースの中で、ほかの社員と談笑する新東が目に入った。
……ふぅ。
大きく溜息をついてから、画面と書類を交互に見ながらキーボードを叩き始める羽田中さん。
――5分経過
……そろそろ話も終わってるでしょ。
そう思いながらモニタから視線を外したが、
……おい。
まだ、喫煙スペースの中で缶コーヒーを片手に談笑する新東。
考える素ぶりを見せる羽田中さん。
……うん、見なかった、気づかなかったことにして、さっさと書類、終わらせよーっと。
――更に10分経過
「おっ、羽田中さん、書類できた?」
缶コーヒーを片手に声をかける新東。
……見積書じゃなくて書類って言った。
「……はい、今、終わったので……印刷かけます」
そう言って、机の上に両手を乗せゆっくりと席を立った羽田中さん。
「さすがだねぇ……あぁ、いいよ。そのままそのまま」
そう言いながら、羽田中さんを制止して素早くコピー機の前に立つ新東。
「えっと……」
羽田中さんより先に、
「あれー? 新東さん直帰じゃなかったんすか?」
外回りから戻って来た西方が声をかけた。
「おー、西方。書類、忘れちゃってさぁ。これ、羽田中さんに作ってもらったのよ」
印刷が終わった紙を手に持って見せる新東。
「あー……」
そう言いながら羽田中さんを横目で見ると、
「俺も書類、忘れちゃって……あぁ、すぐ出ますから、途中まで乗っけて行きましょうか?」
自分の席に戻って封筒を手にする西方。
「おっ、助かるよー。……じゃぁ、行ってきまーす」
「行ってきまーす」
新東はすぐに書類を鞄の中に入れて、嬉しそうに出て行った。
「あっ……」
手を上げたまま固まる羽田中さんは、
……見直し、してないけど……ま、いっか。
ゆっくりと手を下し、椅子に座るとマグカップを掴んだ。
……あー、紅茶が美味し。
再び2階フロアの一角に天国が訪れる。
カタ……カタ……カタ……タンッ
ゆっくりとしたキーボードの音が響く。
……書類を作る時と違う音。……つまりネットサーフィン、ですね。
うんうんと頷いてから、窓の外を見る羽田中さん。
……今日は電話も鳴らないし、あと2時間、乗り切るかー。
――40分くらい経過
「んーっ。今週の仕事は……終わったかな」
背もたれを使って大きく伸びをした羽田中さんは、給湯室に行き、鼻歌を歌いながら温かい紅茶を入れて自分の席に戻ると、机の引き出しからチップクッキーチョコを取り出した。
「羽田中ー、1番に新東さんから電話ー」
少し離れた席の経理部から大きな声が聞こえた。
……高良ぁ……今からコレ、食べるんだけど?
受話器を持った高良にチップクッキーチョコを見せる羽田中さん。
「私にもちょうだいよー。保留にするねー」
そう言って受話器を置く高良。
「タイミング悪い。性格がにじみ出てる様だな……」
羽田中さんは食べようとしていたチップクッキーチョコをゆっくりと袋の上に置いて、受話器を取った。
「……はい、代わりました。お疲れ様です……」
「あぁ、羽田中さん! 書類の字、間違ってるんだよ!」
ゆっくりと近づいてきた高良が、畑中さんの机の上に置いてあったチップクッキーチョコを掴んで笑顔を向ける。
……いい?
……いいよ。
頷く羽田中さんを見て、
「ありがとー」
そう言って食べながら自分の席に戻る高良。
「えっと……何でしたっけ?」
「規格と仕様が違うんだよぉぉ」
泣きそうな新東の声を聞きながら思い出す羽田中さんは、
……あぁ、あれか。
書類を見つめながら溜息をつくと、
「ひかる光学がたかい高額になってるのですよね? 一応、原本もそうなってたのでそのまま打ちましたけど、確認する前に持って行っちゃいましたので……」
面倒そうに答える羽田中さん。
「えっ……そう……だとしてもさ……。あぁ……声、かけてよ~」
しばしの無言の時間。
「……で、その書類はお急ぎだったのでは?」
机の中から取り出したもう一つのチップクッキーチョコを触りながら話しかける羽田中さん。
「そ、そうなんだけど……それを直してもらうのはお願いしたいけど……俺、これからサイタマ行って直帰でしょ? 取りに帰る時間が……」
新東が申し訳なさそうに話す。
「そうですか……」
そう言いながら時計を見る羽田中さんは、
……今、3時過ぎ。会社から越前物産まで電車で30分くらい。で、駅から徒歩10分。……微妙な時間だから……。
受話器の向こうからの騒がしい音を聞いている。
しばし無言の時間。
「……だから……越前物産に書類を持って行ってほしいんだけど……」
たまらず新東が口を開いた。
「……そうですねぇ……でも……私も書類、溜まってて……」
肩に乗せた受話器を頬で挟み、
……えっと……ここと、ここか。
先ほどの書類を訂正し印刷にかけた。
「……いや、ほら……でも、俺たち営業が、稼がないと……さぁ……」
甘えた声を出す新東。
……月曜日に食べるか。
机の上に合ったチップクッキーチョコを引き出しの中に入れてから、
……営業は直帰だから、仕事を振られることはないな。……外から連絡あったら……知らん。
予定表が書かれたホワイトボードを再び確認すると、書類をクリアファイルに入れ、机の上をキレイに片づける羽田中さん。
「…………」
羽田中さんの呼吸の音を聞いている新東。
――電話がかかって5分が経過
「分かった! じゃぁ、今回はエネドリ2本で、どう?」
……エナドリ、だけどね。
「そうですねぇ……。ちょっと残ってる書類を見るんで保留にしますね」
そう言ってぬるくなった紅茶を飲み干してから、給湯室に行き、コップを洗うと、出力したコピー機の書類を手にしてクリアファイルに入れる。
「あぁ、すみません。オフィスに人もいませんし……微妙かも……」
そう言いながらパソコンの電源を落とす羽田中さん。
「……じゃぁ、今回だけエネドリ3本で! 俺も小遣い少ないんだよ~」
受話器の向こうで手を合わす新東の顔を思い浮かべ、ほくそ笑む羽田中さん。
「……分かりました。私の一存で決めれませんので、社長に許可をお願いします」
「あぁ、分かった。社長室に転送して」
「はーい」
返事をしてから《社長室》のボタンを押してから受話器を置くと、ゆっくり席を立ち更衣室に向かう羽田中さんが、
「……尻拭い?」
「そうなの。……高良はまた……器用なことしてるわね……」
声をかけられ立ち止まる。
「んー、誰もいないとねー。数字だけ打ってると退屈だし、飽きるよねぇ……」
デスクトップパソコンで、経理用ソフトの伝票を打ち込みつつ、ノートパソコンでニュースを読んでいる高良。
「あぁ……そう、ね……」
苦笑いをしながら通り過ぎる羽田中さん。
「おーい、羽田中さーん」
社長の声が響いた。
「今さっき、更衣室に行きましたけど?」
真面目に経理用のソフトを使う高良。
「……はい、すみません」
制服から着替えた羽田中さんが、社長の前に駆け寄った。
「あぁ、話は聞いたから新東の書類、よろしく頼むよ」
「はい。今から行ってきます。あと、次の契約分の打ち合わせと改善点を聞いてきます」
「新藤はガサツなところもあるからな。羽田中さんが気づいたところがあれば、話を聞いてきてくれ。越前さんとは長い付き合いだからな」
「はい。行ってきます」
社長が見送る中、
「……」
羽田中さんは微笑みながら右手をチョキにして左手のパーを切る仕草をすると、
「うまく行くといいねー。行ってらっしゃい~」
小さく手を振りながら声をかけた高良が微笑んだ。
電車に揺られ、スマホを眺める羽田中さんは越前物産へ行くためか、地図を確認している。
……なるほど。
頷きながら、近くにあるお店のホームページや口コミも見始めた。
……思ったより早く着いちゃった。……まだ3時40分……
越前物産に着いた羽田中さんは、受付のインターホンに話しかける。
「……尾丸産業の羽田中と申します。蟹谷部長に書類をお届けに来たのですが……」
「はい、しばらくお待ちください……」
インターホンから女性の声が聞こえた。
「あぁ、すまんね。わざわざ来てもらって、さぁ、こちらへどうぞ」
「こちらこそ申し訳ございません。新東の不手際がありまして……」
会釈しながら奥の部屋から出てきた男の後について行く羽田中さん。
すぐに女性社員が入ってくると、
「どうぞ……」
応接室に通された羽田中さんが座るテーブルの上にコーヒーが4つ並んだ。
「ありがとうございます……」
……4つ。
会釈をしながら苦笑いする羽田中さん。
「いやぁ、久しぶりだったけど、元気にしてるの?」
「はい……蟹谷部長もお元気そうで……」
話の途中でドアを叩く音に振り向くと、男二人が入って来た。
「やぁ、羽田中さんが来るって聞いて……来ちゃったよ」
「……会長、こんにちは。ごぶさたしてます」
「うん、何か話、あるんだろ?」
「社長、特にないかもしれないんですが……」
……来たな一二三。手間が省けた。
羽田中さんの対面に座った三人が笑う。
越前物産は蟹谷一族が経営してる会社だ。会長が敬一、社長が敬二、部長が敬三。名前も似てるけど性格も似ている。尾丸産業の社長とは長い付き合いらしい。……契約の時以外で三人そろうのは珍しいけど。
……まぁ、久々だから、かな。
愛想笑いをしてコーヒーを飲む羽田中さん。
「……うん。書類はOKだね。これで契約に回すけど……」
部長が確認し終わった書類を社長に渡し、それを覗く会長。
「何かあるんでしょ?」
笑いながら羽田中さんを見る社長。
「はい。では……今のご契約分の越前物産の保証の説明と、次の尾丸産業の契約分の補填で……」
そう言いながら、鞄の中から取り出したクリアファイルに入った書類を並べる羽田中さん。
「うん、じゃぁ、次の契約はそれで頼むよ。海老谷社長にもそう言っといてね」
「はい、ありがとうございます会長。海老谷に申し伝えておきます」
微笑みながら机の上のクリアファイルを鞄に入れる羽田中さんが、応接室に飾られている時計をちらりと確認する。
……4時20分か……
「羽田中さん、次は社長と来る?」
「そうですね……再来週あたりにお伺いできればと思っています。社長のご都合もあると思いますので、総務の方から連絡を入れさせていただきます」
「あぁ、構わないよ。ワシらはいつも暇だからな」
そう言って笑う会長。
「では、本日はありがとうございました。これで失礼します」
頭を下げて会社を後にした羽田中さんがスマホを取り出すと、
……4時25分……もうちょっと、かな。
地図を開き、チェックしていたお店に向かう。
意外と遠い……。
……4時35分。そろそろ電話するか。
地図アプリを閉じて電話をかける羽田中さん。
『はい。尾丸産業です』
「……かわいい声だねぇ、高良ちゃん」
『……羽田中?』
「うん。お疲れさまー」
『どした?』
「お使いが今、終わったから直帰の許可もらおうと思ってさ。電話、社長に回してくれるー?」
『チョキチョキ直帰、成功だねぇ。でも、本当に今、終わったのぉ~? 随分と賑やかな音が聞こえてるけど?』
「ふふーん……」
『まぁ、しょうがない。こっちは恐怖の定時20分前だから、このまま電話を引き延ばしたいけどね。……待ってなー』
そう言って社長室のボタンを押す高良。
『あー、お疲れ様―。羽田中さん。話はどう? まとまった?』
「あっ、お疲れ様です。はい。お三方と話してきました。次の契約の時は、尾丸産業に少し利益がありそうです」
『そうか、ご苦労様。今日は直帰して、報告書は月曜でいいから』
「はい、ありがとうございます。お疲れさまでした」
『お疲れー、気をつけてな―』
……社長が機嫌いい日でよかった。
お店の看板を眺め、
《江戸前ぱすた 関ケ原》
スマホを鞄に入れた羽田中さんがドアに貼られた紙を見つめる。
《プレミアムフライデーサービス ①食前酒1杯無料 ②女性のお客様はデザート付 ③午後4~5時までに入店された方に限り、次回使えるドリンク無料券とミニワインボトルプレゼント》
……華金、だもんね。
微笑みながらお店に入って行く羽田中さんでした。
「まだプレミアムフライデーってあるんだねぇ……」