彼の指は蜜ノ味
日が昇って間もない時間だというのに、私は一体何をしているのか。本来ならまだ寝ている時間であって、低血圧の私には身を起こしておくのはしんどい時間でもある。重力に勝てない瞼を自由にさせていると、額に突然の衝撃が走る。
「目を開けろ。立ったまま寝るな」
「……いったぁ……。ん……よいしょ、と」
「横になったからといって寝ていいってわけじゃないからな!?」
「んもう……わがままですね……」
朝露に濡れた地面はひんやりとして気持ちが良かった。立ったまま寝るなと言われたからそれに従っただけなのに、何をしても怒られてしまうのだが。
朝からガミガミと叱ってくるルーナから叩き起されたのが約一時間前。顔を洗って歯を磨いて朝食と着替えを済まして、外にいる。外にいる理由はよく分からない。こんなに朝早くに起こされた理由もよく分からない。せめて昼前くらいでも良くなかったか。
「何なんですか、こんな時間から……。私まだ眠たい……」
「俺だって眠たい」
「はあ?じゃああと二時間は遅い時間でも良かったじゃないですか……」
「いや、この時間じゃないと都合が悪くてな。我慢しろ」
「?」
ルーナは言いながら何やら地面に視線を這わせた。何かを探しているようで、止まった視線の先には白い花が三つ、忽然と姿を現したように咲いている。ルーナが昨日、家の中で花弁をバラバラに剥いだ花と同じ種類だ。
ルーナはその傍らに膝を折ると、長い指で掬うように花弁の表面を撫でた。干からびた土壌でも健気に花を咲かす植物とイケメン。絵画のようなワンシーンに私は眠気も忘れて思わず見惚れてしまった。
花弁から掬った何かを指に留め置いたまま立ち上がると、ルーナは私の前まで歩いてくる。柔らかな朝日に注がれた綺麗な顔は優雅さをさらに増していて、多分このまま日が沈むまで見ていられそうだった。
何でもない動きまで画になるのは狡くもあり、イケメンの強みだと思う。ゆっくりと上げた手が私の顔の前までやってきても、私は目の前にある紫紺の瞳に視線を奪われて気付きなどしない。酔ってしまいそうな妖艶な空気を頬を掠め、唇を撫で、その中にまで────……、
「むぐ」
突然に、口の中に何かを突っ込まれる。冷たいけれど、人の体温。ルーナの指だった。
「飲め」
「はにほ?(何を?)」
「この花の蜜。日が昇った後に一時間程しか採取できない貴重な蜜だ。心して味わイテテテテ!噛むな馬鹿!」
「あ、ふみまへん」
なに分口はあまり大きい方ではない。指だけだとはいえ、成人男性の手を突っ込まれては顎が外れそうになるのである。
私はルーナの指から落ちてきた僅かな蜜を舌の先で捉えると、その甘さを口の中に広げ、唾液と一緒に飲み下した。スポイトで落としたくらいの、本当にほんの少量だったのに強烈な甘さが喉の奥まで滲み、徐々に焼け爛れそうな感覚を覚えて盛大に噎せた。私の口の中から指を抜いたルーナは、身体を丸めて咳き込む私の背を軽く摩った。
「大丈夫か?」
「げほっ……、な、何ですか、こ、れ……っ、あっま……」
「この花の蜜は、日昇後約一時間、大量の魔力を溜めた蜜を生成する。その蜜は摂取した者の魔力量によって甘さを変え、また、その者の魔力の波を一定期間安定させてくれる」
「そ、んなっ、花だった、の、これ……っげほっ……」
「ああ、いいから暫く喋んな。水持ってきてやるから」
尚も甘さが喉を焼き続けて咳き込む私をその場で座らせ、ルーナは一旦家の中に戻っていく。その間、私に穿たれた蜜の甘さは喉だけでなく胸、腹、手足、頭にまで侵食するように広がっていく。そのうちグルグルと視界が回ってきて、身体の平衡感覚がなくなっていった。あの時の感覚に似ている。教会にいた時、水と間違えて、神父様の夜の晩酌用のアルコール度数七十五パーセントと書いてある酒を一気に煽ってしまった時のあれ。あの時は本当に大変だったと、あとでシスターから聞かされたが、詳細は語られていない。
水を片手に戻ってきたルーナは、地面に転がっている私を目にして僅かに瞠目する。力の入らない身体は抱き起こされ、だらりとだらしなく垂れた腕をお腹の前に乗せられた。
「おい、リズ」
「……んん……ルーナ……、」
「…これほどとはな……。ほら、水、飲め」
口元に当てられたコップを何とか両手で支えると、一口ずつ冷たい水を喉に流し込んだ。火傷を冷やされたような感覚。身体を支配している甘味が、じんわりと薄まっていくようだった。
コップの中が空に頃には、平衡感覚も戻ってきて、自分で身体を支えられる程度にはなった。まだ少しフラフラするので座ったままだけれど、喋っても咳き込むことも、喉を焼く感覚もない。大した時間ではなかったが、ルーナはそれまで私の身体をしっかり支えてくれていた。
「落ち着いたか?」
「はい。ありがとうございます」
「悪かったな。事前にちゃんと教えておけばよかった。まさかここまでとは思わなくて」
「ここまでとは?」
いつの間にか汗で滲んだ額を拭って、家の壁に背を預けるルーナを見上げた。
「言っただろ。花の蜜は摂取した者の魔力量によって甘さの感じ方が違う。身体に害はないが、あまりに魔力が大きいとお前みたいになる」
「魔力……、大きい……。……では、私は魔力が大きいと?」
「予想以上だ。第一、あの花は魔力のない土地には咲かないし、摘んでしまったらその途端に枯れるのが普通だ。だが、家の中に飾ってあった花は当たり前のように咲いていた。リズの魔力が干渉してしまってたんだろう」
ついでに、そこに咲いている方も私の魔力が垂れ流されて芽吹いているのだという。何だか肥料扱いをされているみたいだ。
私の魔力量を確認するためにこの時間に起きてきたらしいのだが、どうやら予想を遥かに超えることを私はしでかしてしまったらしい。ルーナはどうするか、と考えこんでしまった。
「あの、ルーナ?魔力量が多いと何か不都合が?」
「ああいや、不都合ってわけじゃないんだが……。とりあえずお前は自分の魔力を自分で管理しなければならない。管理するものが多ければ多いほど難易度は上がる、とそれだけだ」
「不都合じゃないですか」
それだけだ、じゃない。かっこいい顔で言ったって騙されないぞ。
ルーナによれば私が今自分で管理出来ている自分の魔力は全体の大体四十パーセント。残りの六十パーセントが野放しになっている状態だから図書館の時のような、教会で過ごしていた時のような事態が起こってしまっていたようだ。本当は思い当たる事例はその二つだけではないのだが、話し始めたらキリがないし、自分が病んでしまいそうなので止めておく。
私の魔力の四十パーセントといえば、量で比べれば普通の人の百二十パーセント、つまり自分自身どころか人のものにまで干渉しちゃうお節介野郎の管理力らしい。管理力は鍛えない限り上がるものではないから、私は魔力が大きくなってしまった分、管理出来ない魔力が半分以上にまで増えてしまったらしいのだ。
「一時しのぎではあるが、蜜を飲んだことで魔力の波が凪いで、力は抑えられているだろう。ほら、花が枯れてしまった。お前の魔力が安定してあそこまで行き届かなくなった証拠だ」
「あ、本当だ」
ついさっきまで元気に白い顔を見せていた花は、しなっと背筋を曲げて地面に身を横たわらせてしまっていた。何だか私が枯らしたみたいで申し訳ない。触れたら、また息を吹き返すのだろうか。
よいしょ、と子どもらしからぬ声を出して立ち上がると、花の前で膝をついてそっと手を添えた。けれど、花は動きはしない。
「何やってんだ?」
「いえ……触ったらまた咲いてくれるのかと」
「今は蜜の効力で魔力がお前の身体の内に抑えられてるから無理だよ。咲かせたかったら自力で魔力を自由に扱えるようになることだな」
「そうですか。……あ、そういえばすみません、ルーナ」
ふと思い出したことがあって、ルーナに振り返った。謝られるようなことに身に覚えがないという顔をされても仕方ないだろう。だってその時彼は意識がなかった。
「ルーナが家で倒れていた時、私不用意にあなたを触りました。魔力が暴走して命を奪っていた可能性もあると気が付いて寒気がしました」
「そういうことは寒気がした顔で言ってくれる?」
ルーナの方が余程寒気がした顔で苦笑いを浮かべていた。