大人になるということ
何だか今日は濃い一日だった。買い物に行ってペンキと木の実と罵倒を投げつけられ、お気に入りの服を台無しにして帰ってくる。これはよくあることだ。帰ったら見目麗しいイケメンが腹を空かせて倒れていていて、餌を与えたらお礼に奢り返してくれ、さらに魔法を教えてもらうということになってしまった。これはよくあることではない。有り難いのか迷惑なのか余計なお世話なのか押しつけがましいのか分からないが、結果的に頷いてしまった私が悪い。
大丈夫。魔法を教われば自分の魔力をコントロールできて、ルーナの呪いを解いて、それでおしまいだ。何も悪いことになる予定はない。
「うん、美味し」
「俺にもくれ」
「!?」
風呂から上がり、アイスキャンディーを舐めていると、後ろからぬっと声がした。思わず仰け反ればアイスキャンディーが半分以上盗まれる。
「あー!私のアイス!食べたけりゃまだ冷蔵庫に入ってますから取ればいいでしょう?!」
「俺が泊まらせてもらっておいてアイスまで集ろうとする厚かましい人間だとでも?」
「風呂まで入っておいて少女のアイスを横取りする大人げない人間だとは思ってます歯に染みればいい」
ルーナはシャクシャクとアイスを噛み砕きながら心外な、と呟く。知覚過敏ではなかったみたいなので残念である。風呂から上がりたてのルーナは、ホカホカと湯気とともに無駄な色気を上げていた。着替えはないから着ていた服を再び着ているのだが、できるだけ服を取り払ったズボン一枚。上半身は裸にタオルを首に掛けている。細いと思われた身体の線は程よく筋肉で引き締められていたからであって、だからといってごつごつしていそうでもない。顔とのバランスがとれた、しなやかな肉体であった。しかも髪から滴ってくる水滴が鎖骨や胸に落ちて、艶めかしさを倍増させていた。
「……おい」
「はい?」
「何故くっつく?」
「あ」
酔ってしまいそうな色気に惹きつけられたのか、私は無意識にルーナにぺとりと身を寄せていた。湯で温められた肌が手に温かい。彼自身の甘い匂いと石鹸の匂いが混ざって絶妙な香りを追っていったらここに辿り着いただけなのだ。決して変態ではない。
ルーナはピクリと片眉を動かして、力いっぱい私の肩を持って引き剥がした。
「お前なぁ!もう十四だろ!あと一年で成人だろ!もう少し危機感を持て!」
「はて?危機感とは?」
それは出逢ったばかりの素性の知れぬ男に命を奪われるかもしれないという危機感だろうか。ルーナがそんな人間であればもっと早い段階で手を出しているだろう。殺すつもりがあるならそのタイミングは腐るほどあったはずだ。
どうやら私の返答は彼の琴線に触れてしまったようで、ルーナは髪を掻き上げて全開にしている額にピキリと青筋を浮かべた。
「大体な!服を着ろ服を!」
「着てますよ失礼な。人を変態みたいに言わないで下さい。着てないのはルーナの方でしょう!」
「俺だって着てるわ!お前はもっと布の多い服を着ろっつってんだ!」
「暑いから嫌ですよ。涼しくなったら布の面積増やします」
「今すぐ増やせ!ポンポン冷やしても知らねぇからな!」
「子ども扱いすんな!」
大人扱いしたり子ども扱いしたり、すぐ怒る人である。私が何をしたというのか。暑いからタンクトップと短パンで何が悪い。布面積で言えばズボンは長いが上半身裸のルーナと同じじゃないか。
納得がいかなかったルーナは、椅子の背に掛けてあった私のカーディガンを引っ掴んで頭から被せてくる。自分はフン、と鼻を鳴らして椅子に座って長い脚を組んだ。
カーディガンを手繰り寄せてやっと顔を出した私は、ボサボサになってしまった髪を整えながらルーナの向かい側に腰かけた。
「…ルーナは何歳なんですか」
「あん?」
「年上ぶってるけど、どうせ一歳くらいの差なんでしょ?一年早く生まれたくらいで偉ぶられても…」
「十八」
「え?」
「十八。もうすぐ十九」
雷が落ちてきたような衝撃を受けた。ガァンという顔をこれほどまでに表現できた瞬間を私は知らない。表情のバリエーションが増えた。
「何をそんなに驚いてんだよ」
「だ、だって…!四つ、もうすぐ五つも離れてるとは思わなかった!童顔イケメン!」
「貶してんのか?褒めてんのか?」
私にとって関わり合いが深い二つ以上の年の差の人間というのは、親だとか預かってくれていた教会のシスターくらいのものだった。教会にいた孤児たちは皆同じくらいの年齢であったし、二つ以上離れていたとしても年下だった。兄弟もいなかった故に、今私は二つ以上の年の差とたくさん話しているという記録を更新していっているのだ。
「おお…、感動です…」
「…?変な奴だな、お前」
「ズボンのチャック全開の人に言われたくないですね」
「!?」
ルーナは慌てて自分の股間を確認してチャックを引き上げる。さっき引っ付いたときに気が付いたのだが、すっかり教えるのを忘れていた。外に出る前に通達してあげただけ感謝してもらいたい。
私は早く大人になりたかった。大人になれば息苦しい世の中から逃げる術を得られると思っていたからだ。大人は窮屈な人間関係を築くのだろうが、子どものようにあからさまな感情を表に出したりしない。そう思って見なければ仮面を被っているなんて分かりっこないのだ。向けられる悪意、恐怖、軽蔑、嘲笑。それらを隠して接することができる。表面だけでいい。それで充分だと思っている私には、そんな世界に早く行きたかったのだ。
いつの間にかそんな気持ちを吐露していた私は、黙って聞いていたルーナがふぅん、と相槌を打つタイミングではっとして緩んでいた心の箍を引き締めた。
「それで、お前は早く大きくなりたいと?」
「まあ、はい…。でも、大きくなればなるほど魔力は強まっているみたいなので、そこは考えものではありますが。…そうですね、二十歳くらいが丁度いいかもしれません」
その頃には今より魔力も強くなってしまっているだろうか。それは怖い。
大した反応を見せないルーナは、特別興味を示さず、飾ってあった花を一輪手元に取って、一つ一つ花弁を外していく。散らかるからやめてほしいのだが。
「そんないいものじゃねぇぞ、大人なんて」
何の感情も含まれず、平坦に言われた言葉にはどんな意味が乗っかっているのか分からなかった。欠伸をかましながら言ったことだ。深い意味はないのかもしれない。
「でも、大人になれば成長できることもあるでしょう?」
「何のことを指して言っている胸を揉むな胸を」
「ここから札束を出すのが夢です」
「ゲスい夢だな!」
町で見かける同じくらいの年齢の女の子より、私は少々成長が遅いようである。両親を亡くしてからは教会で預かってくれてはいたものの、必須栄養量に達した食事はとれていなかった。貧乏な暮らししか出来なかったが、十二歳まで育ててくれた教会には感謝しているし、あの時それ以上のことは望まなかった。ただ、身体は正直に応えていただけだ。それだけが原因ではなく、体質によるものもあるとは思う。初潮だってまだ迎えていないし、大人への憧れはそこから来ているのかもしれないと、他人事のように感じていた。
「まああれだな。大人になったらなったで、子どもの方が良かったと思うことも出てくると思うぞ?」
「そうでしょうか。私にはまだ分かりませんし、過去に戻りたいと思ったことはありません」
「それは、戻りたいような過去じゃなかったからだろ」
「……」
ルーナはまるで今までの私を知っているかのような口ぶりで、穏やかな目で、頬杖をついた気のない表情で、核心を突いてくる。いや、そんなことはないのだ。もし仮に過去に戻れると言われても、拒否はしないと思う。進んで行きたいとも思わないが。
もし過去に戻りたいと思う理由があるのなら、それは、両親がいるから。まだこの魔力の存在が表に出てきていないから。何も知らない幸せな子どもだから。
ああ、そうか。ルーナが言っているのはこういうことか。今を知らない自分が、羨ましいと思うのか。
「どちらにしろ、時の流れに逆らうことはできない。人には今を生きることしか選択肢はないから、淡い期待は捨てた方がいい」
「夢のないこと言いますね」
「現実を知った大人だからな」
「そうですね。チャックを締めていなかったあの時には戻れませんもんね」
「……そういうことだ」
ルーナは頭を抱えてしまった。少々弄り過ぎただろうか。パンツの柄まで見えていないから安心してほしい。