なかったことにする方法
虚空に伸ばした手を、誰かが掴んでくれる。気の所為なんかじゃない。強く、しっかりと、離さないように。
それが誰かは分からないまま、ぼーっとした私は、あろうことかそれを薙ぎ払ったのだ。
そこに火をつけて。
「────……ズ、リズ!」
「─────っ!!」
強い何かに引き戻されるように現実が視界に広がった。酷く身体が強ばって、筋肉も骨も軋んでいるのが分かる。
寝ていただけなのに息は上がり、寝汗にしては多すぎる汗をびっしょりとかいていた。手の甲で拭おうと思うくらい意識が覚醒してくれば、眉を顰めたルーナが、こちらを見ていることに気が付いた。
「ルーナ、おはようございます」
「ああ、おはよう」
ひとまずの挨拶を済ませば、ルーナは顎と首の境界線、頸動脈辺りにそっと触れてくる。脈の確認だろうか。喋っているのだから生きているんだが。それより汗をかいているから触らないで欲しい。
「ルーナ?」
「酷く魘されてたぞ。大丈夫か」
「え?あ……はい。よく覚えてませんけど、多分大丈夫です」
覚えていないということはその程度の夢だったということだ。身体を起こせば僅かに頭が重かったが、寝起きだからだろう。他に特に問題は無い。
そういえば私は昨日ロジーナのところで寝こけたまま今までずっと寝ていたのか。外が明るくないのは雨が降っているからであるだけで、時間はしっかり昼である。………昼?
「え?昼!?」
「何だ。低血圧野郎が急に動くと倒れるぞ」
「いや、もう昼!?私ずっと寝てました!?」
「起きないから死んだのかと思った」
それで脈の確認なんてしていたのか。死んだのかと思ったんならもっと焦ってほしい。冷静に死亡確認してる場合じゃないわ。
「起こして下さいよ!今日は薬草を摘みにいくつもりだったのに」
朝一で摘んだ薬草の方が効果が強いものだってある。大抵朝に摘み、午後からは調合に勤しむのが薬の製作日の私のルーティーンなのだ。今日でなければならないということはないが、予定していただけに一日の流れが狂ってしまったのは悔やまれる。ああ、と抱える頭は鈍痛が引かない。寝すぎだろう。
「起こしても起きなかっただろうが。どちらにしろ朝から雨降ってるから、行こうにも行けないだろ」
「そ……、それはそうですけど……」
大雨というほどではないが、屋根に雨が当たる音が聞こえてくるくらいには降っている。窓から見える広がった黒い雲は、暫くこの音を止ませないだろう。頭が痛いのはこの天気の所為でもあるのかと納得した。
「魔法の練習と昨日の一件もあって疲れてたんだろ。今日はゆっくり休んでろよ」
「…………は、い……」
「?何だ?はっきりしない返事だな」
「あ、いえ……。なんか……、ルーナが変」
「何が」
「妙に優しい」
「俺優しいと変なの?」
いやだって、どんなに疲れてても鬼の猛特訓は続けていたし、魂が出てきそうだと訴えても甘えるなと言われてきたのに。今日は何故か仏心があるように見えるのだが。いつもより外からの光が入ってこないから、視界が悪いのだろうか。
目を擦ってみたり顰めてみたりしていると、ふと視界が暗くなり、額に冷たい感触が当たった。
「……?」
「顔色が悪い。少し熱もある。病人に鞭打つほど俺も鬼じゃねぇよ」
「……え」
言われてもう一度自分の身体と会話する。頭は痛い。筋肉も痛い。単に凝り固まっているだけなのだと思ったが、自覚すれば怠さからくるものだと分かった。それから、一番辛いと訴えているのは空腹状態のお腹だ。ぐう、と躊躇いのない音を響かせると、ルーナが思わず吹き出す。
「はっ…、何か食うか?作ってやるから」
「あっ、はい……」
その片眉を下げて笑う顔が堪らなく好みで、一瞬空腹を忘れてしまうところだった。もっとも、程なくして漂ってくるいい香りに、腹の虫はどんちゃん騒ぎを余儀なくされたのだが。
仕方なく今日は、前もって摘んで乾燥させていた薬草で薬の調合をすることにした。頭痛は残るが動けないほどではないし、ルーナの作ったご飯が美味しすぎて身体の怠さは吹き飛んだ。
片付けまで綺麗に終わらせてくれたルーナは、ゴリゴリと薬草を煎じる私の後ろで本を読んでいる。薬草の事が詳しく書いてある私の本だ。
「なあ」
「何ですか」
「お前それいつまでやんの?」
「この薬草を全部擦りおろすまで」
「その山のような量、夜中までやるつもり?」
戸棚をひっくり返してみれば、先日摘んだ薬草が大量に入っていた。そういえばその時豊作で、林の中と家を三往復もしたのだった。程よく乾燥して、煎じるにはいい時期になっている。
「あまりに日が経ってしまうと薬草の効果が半減します。早めに調合して処理しておかないと」
「そりゃそうだろうけど、今日は大人しくしてた方がいいんじゃねぇの?」
「別に走り回っているわけではありませんし、このくらい平気です。熱も高くないですし」
「そういうのはこれから上がるんだよ。……程々にしておけよ」
ルーナは本に目線を戻したのに、私が背中に感じる視線は止まなかった。強く止めろとは言われなかったけれど、大人の注意喚起を感じる。
でも、私はずっとこうしてきたのだ。身体が不調を訴えれば、動けるうちは他のことで気を紛らわせる。どうしようもなくなれば寝てしまうのだが、身体がきつい時に見る夢は決まって怖い。出来ればこういう時に寝なくていい逃げ方を模索している。
風邪なんかを引いた時は、人恋しくなると一般的に言うが、私はその逆だ。誰にも構って欲しくない。誰にも気付かれたくない。一人でじっと闘っていたい。ドMなのだろうか。
天井から落ちてくる雨水が桶に溜まる音を聴きながら、私はひたすらに薬草をすり潰した。自分の、ひっかかってどうしようもない夢の続きと共に。