褒めて伸びるタイプだとは言わないが
結局眠れなかったのは私の方だった。動悸が激しく、眠気なんて数秒前まで感じていたことが夢だったのではないかと思う程に目が冴えた。手だって髪だって顔だって触れたことも触れられたこともあるのに、それが唇だというだけで、何をこんなにも動揺しているのか。さらにそれを悪化させるのを分かっていて、私はもう一度鏡でその場所を見た。消えかかっていたものが、花を咲かせたように濃く色付いている。それを見止めた瞬間に、鏡を見れなくなってしまう。見なかった振りをしようとして強く頭を振って立ち上がった。
時間の経過の所為か血行が良くなったからかは分からないが、もうちゃんと脚に力が入る。スムーズと言うわけにはいかないけれど、一人でも日常生活には支障ない。よし、とりあえず風呂に入ろう。
気分でも入れ替えなければ朝食の準備ができそうにない。
それからルーナは本当に疲れていたのか、昼過ぎまで寝入ってしまっていた。無心で作った朝食も昼食になる。作ったと言ってもパンと林檎だ。一応卵料理も作っていたのだが、いつも以上に失敗して、とても食べられる状態ではなかった。ルーナの好きなパンと林檎だから問題ないだろう。
「美味しいですか」
「んまい」
「好物ですもんね」
「嫌いではないが、好物ってほどでもない──…え、何、どうした?」
今朝のことなんて覚えていないのか、キョトンとしているルーナに腹が立って力いっぱい睨みつけてやった。ちなみに痕が見えない服に着替えているのでもう突っ込まれることもない。いっそのこと見せつけてやった方が良かったのか。
「早く魔法の練習しましょう、ルーナ」
「あん?でもお前脚は」
「もう治りました。さあ早く」
「…何怒ってるんだ?」
怒ってない。怒ってはいないのだが、言葉では表現しづらい感情が苛立ちを掻き立てる。早く何か夢中になれることを始めたかった。
さっさと皿を片付けると、出掛ける前のはしゃぐ子どものようにルーナを外に連れ出した。そういえばあの時から外に出ていなかったから忘れていたが、扉を開けた瞬間にその風景が目に飛び込んでくる。
「……」
思わず足を止めた私にルーナは振り返ってきたが、特に声を掛けることもなく、温かいような冷たいような視線を残して定位置に座った。
「リズ」
平坦な声に顔を上げると、真っ直ぐな紫紺の色がこちらを見ている。私は、この瞳から逃げることは出来ない。
「目を逸らすなよ。逸らすくらい見たくないのなら、自分で元に戻せるようになれ」
私が与えたこの荒地に再び新緑を芽吹かせることができるのは私だけだ。
強く頷き、足を踏み出した。
***
結果から言うと、魔法は簡単に成功した。それも何度も。十発中九発くらいの勢いで。
「……お前、一人でどんな練習してたんだよ」
「いや…特に変わったことは何も」
ヴィンのアドバイスを受けるまでは、ルーナから教わったことを忠実になぞっていただけだ。むしろ成功などしていなかったというのに、これはどうしたことか。嬉しいよりも先に驚きの方が大きくて、成功してしまった理由を探し始める。
「魔力が暴走したのがきっかけでしょうか」
「ありえんことはないが、論理的な理由にはならんな」
ルーナも顎に手を当て考えるが、特に思い当たるようなことはないようだ。それどころか、そちらはとりあえず置いておくとばかりに思考を止めて、伏せた目を上げたその表情は柔らかにこちらに向けられていた。そこら辺の女が十匹も二十匹も釣れそうな悩殺ものだ。
「なんにせよ、よく頑張ったと思うぞ」
「!」
今朝とは違った動きで心臓が大きく跳ねる。確かに今までもこの綺麗な顔には血圧を上げるような思いをさせられてはいたが、それとはまた違うのだ。今までがイケメンを見て騒ぐ心情とするならば、イケメンでなくても知っている人の知らない部分を見たような、そんな感覚。多分、今朝つけられたこの胸元の痕の所為だ。きっとこれは呪いの刻印か何かだったに違いない。
黙ってしまった私に、ルーナは覗き込むように顔を傾けた。
「リズ?」
「あ、いえ…。珍しくルーナが褒めてくれた」
「珍しくねぇだろ。割と褒めてるだろ、俺」
「じゃあ今度から褒めている時は褒めていると申告してください。ルーナの褒め言葉は、黒色と紺色を暗い場所で見分けろ言われているくらい分かりにくい」
まじかよ、と意外そうであるが、そりゃ本人は最初からどちらが何色か分かっているのだから当たって当然である。まさか先程パンと林檎を美味いと言ったのも私のことを褒めたうちに入っているのだろうか。それこそまじかよ、である。