暗闇を照らす感情
日を跨いで数時間経ち、空が明るくなり始める直前の一番闇が深くなる頃。私はふと目を覚ました。特に眠りが浅かったわけでも、誰かに起こされたわけでもない。時計を確認してまだまだ寝れると再び目を瞑ろうとした時、床がギシリと軋む音がした。何かなくても日常茶飯事の物音なのだが、どうやらそれは人が歩く音のようにも聞こえる。徐々に暗闇に慣れてくる目を眇めると、いつもルーナが寝ている位置にはブランケットが乱雑に捨てられたようにそこにあるだけだった。
「……ルーナ?」
少し視線をずらせば、食卓に座る影を見る。まだぎこちない動きの脚を必死に動かして、その影の元へ歩いて行った。視界が悪いということも重なって、途中、何かに躓きながら。
「リズ?悪い、起こしたか」
「あ、いや、大丈夫ですけど、ルーナこそこんな時間にどうしました?」
私の動きに気が付いて、ルーナが近付いて身体を支えてくれる。肌に触れた彼の手が、少し冷たくも感じた。
「ちょっと目が覚めてな。水を飲んでいただけだ」
「そう、ですか…」
「…?なんだ?」
煮え切らないような私の返事に、ルーナは首を傾げた。私は感じた違和感を信じて、そっと手をルーナの頬に這わせた。
「……顔色、悪くないですか」
「!」
薄暗くてそんなの分かりはしないはずなのだが、そんな気がするのだ。それに、声の調子も、体温も、やはり普段とは違う気がするのだ。
ルーナの返事を待っている間、私は彼の頬に触れた手をそのままにするか引っ込めようか迷っていた。衝動的な行動というものは、気が付いてから困る。
やがて行き場の困った手の上から、冷たい体温が被さった。握りしめて、そっと下ろされる。
「…本当、敵わねぇな、お前には」
「?」
雲の隙間から覗いた月光が窓から射しこんできて、ルーナの顔を照らす。淡い光は彼の額に薄く滲む冷や汗を明らかにした。唇の色もなく、肌の色は真っ白だ。いつもは気怠げながらも芯のある瞳が、今は崩れてしまいそうに脆い。
私を座らせ、自分も横に座ると、ルーナは額と顎の汗を拭う。
「具合、悪いんですか?」
「…いや、大丈夫だ」
とてもそんな風には見えなくて、私は続きの言葉を待つ。
「……たまにな。疲れていると夢見が悪くて」
「怖い夢を見たんですか?」
「だらしないだろ。いい大人が夢くらいで怯えてるなんて」
自嘲気味にルーナは笑った。その声にとても力がなくて、昼間の覇気を纏った夜叉のような姿とは別人である。どちらもルーナであるから、私はどちらかが別人だと言われても構わない。
「そんなことないです」
「…、」
珍しく俯いた顔に、私は今度は両手で触れた。頬を挟むようにして、優しく上を向かせる。もっと、もっとあなたの顔が見たい。怖い顔も、優しい顔も、悩んでいる顔も、本当は見たくないけど辛そうな顔も。
どのルーナも拝めることが出来たら、私はきっとルーナマイスターとなる。それほど、私は彼をもっと知りたいと思っている。
「どんな夢だったんですか?話してください」
「どんな…、って、話すようなことでは…」
「私はルーナと話すと精神統一が図れます。それが喧嘩だとしても、怒られているとしても、こういう風に話せる人が目の前にいるんだって実感するんです。……ルーナにとって、それが私では、役不足でしょう…か」
「リ、ズ、」
徐々に尻すぼみになっていく私の声に、ルーナは目を瞬かせた後、ふっと吹き出した。最初は喉の奥で声を殺すようにしていたのに、そのうち耐えきらなくなってクククと憎たらしい笑い声に変わっていく。
私は何か変な事でも言っただろうか。確かに、言っていくうちに自分で理由の分からない恥ずかしさに駆られたが、悪かった顔色を戻すくらい笑うようなことでもなかったと思っているのだが。
「…ちょっと、ルーナ。何か私変な事言いました?」
「くっ、ははっ…、いや悪い。何でもないんだ」
「何でもないなら笑わないでくださいよ。もしくはさっさと寝て下さい」
ルーナが笑うから余計恥ずかしくなってきて、もう目が見れそうにないと、私は席を立とうとした。身体を支えようと机についた手をパシリと掴まれる。
「!」
「…話、聞いてくれるか?」
夜だからか、彼の顔がいつもより艶っぽく見える。穏やかな瞳は、まだ疲労と怯えたような色を残していた。
「……はい」
ほんの少しだけ外が明るさを宿してきた。やんわりと限りなく薄いヴェールを下ろすように、ゆっくりとゆっくりと、時間をかけて。
タイミングを逃して明かりをつけずに私は再びルーナの前に腰を下ろした。ルーナは自分が肩に掛けていた上着を私の肩へと移した。こんなに冷えている体温なのに、彼の温かさは残っている。
「…留守にしていた理由な、……仕事だったんだ」
「仕事…」
ルーナの仕事。
無意識に肩に力が入った。多分、私がこんな反応をするからルーナも詳細を語らなかったのだろう。一言で言えば暗殺業であるそれは、人に話すようなことでもない。
「遠出だったし、予想外に手間取ったから二、三日で帰るつもりが遅くなってしまった」
「手間取った、って、大丈夫だったんですか?怪我とか」
「いや、無傷だ。かすり傷さえないから安心していい」
それはそれで、いやまじかよと思った。ルーナが優秀な人材であることは何となく予想していたが、危険な仕事をして正真正銘の無傷とイケメンで帰ってくるなんて、とんだハイスペック男子である。本当に私はそんな人に魔法を習っていていいのだろうか。
「そういう手間じゃなくてな…。俺の気持ちの問題っていうか、今回は子どもが多くて、な」
「……そうですか」
「命の重さに年齢は関係ないと思っているんだが、幼い眼に見られるとやはりちょっとな。生きることに必死だった昔は感覚が麻痺していたのか、何とも思わなかったんだけど、自分が何をしているか理解し出すとやりにくくて仕方ない」
仕事を遂行するには、返って昔の方が良かったとルーナは苦しそうに言った。昔に戻りたいと言ったわけではない。戻ってほしくもない。
「余計な感情を一度抱くと、この仕事は出来ない。それを消すのに手間取ったってこと」
「────……じゃない」
「え?」
掠れて音にならなかった私の声に、ルーナは耳を傾ける。
「余計な感情なんかじゃないです」
何を指して余計だと言っているかは明確にはしなかったけれど、ルーナが抱く感情だ。余計なんかであるはずがない。知らず知らずのうちに魔法のことだけでなく、日常生活でもルーナが絶対となってしまっていた私は、変な自信が芽生えてきてしまっていた。
「それは、余計な感情なんかじゃない。人の命を愛おしいと思う心、慈しみ、それを汚してしまう呵責の念。何も余計なんかじゃないです」
それを抱くことも、当たり前にその心があるルーナも、何も間違っていない。もし間違っている何かがあるというのなら、それを余計なものとして捉えさせようとする世界だ。
「…私は、ルーナのお仕事に口出しは出来ません。干渉してしまえば、多分ルーナは困ってしまう。余計悩んでしまうかもしれない。だけど、その気持ちを余計なものだと捉えるのだけはやめて下さい」
でなければ、ルーナがルーナではなくなってしまう。そんな気がする。
下がりそうな眉を必死に固定して、逸らしそうな目を何とかルーナに縫い付けて、私は今さぞ表現しづらい複雑な顔をしているのだろう。それが物珍しいのか、ルーナもまた私から目を逸らさない。
そして、彼は片眉を下げて口元を緩めた。
「…ああ、分かった」
もしかしたら、困ってしまったのかもしれない。悩んでしまわせるかもしれない。それでも、ルーナがルーナではなくなってしまうのは嫌だ。紫閻の魔法士になってしまうのは嫌なのだ。