トラウマの影
「いいいぃぃぃいやぁぁぁぉあああ!!!」
囀りが響く朝の爽やかな時間。折角雰囲気を作ってくれていた鳥を一斉に羽ばたかせたのは、私の家から叫ばれた女の声。もちろん、私の家に女は私しかいないのだから声の主は私なのだが。
「んああ?……うっせぇな……、なんだ…?」
今日の魔法の練習は昨日ほど早い時間から始めるわけではなかったので、ルーナはまだ寝ていたらしい。元々眠りは浅い方なのだそうだが、すぐ近くで聞こえてきた叫び声は、ルーナでなくとも起こしただろう。
不機嫌に眉を顰めながら、寝癖のついた髪の毛をそのままに起き上がってきた。それを見付けた私は、すぐさまルーナの後ろに避難した。脇の下から警戒心を煮えたぎらせる私に、ルーナは腕を上げて覗くように困惑の目を向ける。
「あ?は?な、なに?どうした?」
「ルルルルルルーナ!殺して!殺してください!」
「殺したら俺の呪い誰が解いてくれるんだよ。嫌だよ」
「自殺願望が沸き起こったわけじゃないですよ!殺すのはあいつですあいつ!」
私は行方が分からなくならないように、一瞬たりとも目を離さなかったそいつをビシリと指さした。どこからともなく突然舞い込んでくるヤツ。ここは平屋だから尚更登場回数が多い。妙な動きと共に、油断するとお友達まで誘い込んでくる。私はヤツが嫌いだ。大っ嫌いだ。教会にいた時は周りから何で?と不思議がられたが、あんなもん普通に相手出来る方あんた達の方が何で?だ。そもそもこの世にあいつが平気な人間がいること自体私は未だに信じられない。
私の指の先を寝ぼけ眼で追ったルーナは、盛大に首を傾げて、そいつを怪訝な表情で確認した。
「………………蝶々?」
「殺して!」
名前を聞くだけでぞわりと背筋が凍り、私は殺害依頼を重ねる。
「何、お前虫苦手なの?」
「嫌い!蝶々嫌い!羽をヒラヒラさせるな!」
「俺に言うなよ」
どうでもいいから早くヤツをどうにかしてほしい。抹殺してほしい。私の尋常ではない殺意に同情してくれたのか、ルーナはキッチンでヒラヒラと舞う蝶々を窓の外へ逃がしてやった。
「甘っちょろいことをする。息の根を止めてやればいいものを……このようにね!」
私はちょうど足下でカサカサ動いていたイニシャルGを、スリッパでスパーン!とぶち叩いてやった。逃げる間もなく瞬殺である。
「……蝶々は駄目なのにそれはいいのか……?とりあえず目が据わってて怖ぇよ。もういないから安心しろ」
ルーナはそのまま水道で顔を洗うと、意味分かんねぇ奴だなと呟きながら食卓に座る。私だって意味が分からない。何故皆Gは駄目なのにB(この場合、バタフライを意味する)はいいのか。あの予想もつかぬ動きで飛び回って鱗粉を撒き散らす昆虫のどこがいいのか。目にも止まらぬ神業で捕獲し、並べて標本にすることの何処に生きる価値を見出しているのか。全然分からない。
「偏見に塗れた考えを巡らせるのを止めろ。各方面に角が立つぞ」
「だって!わ、私、昔アイツが大量に襲ってきたことあって、手で追っ払ったら翌日信じられないくらい肘から指先まで腫れて……!」
「あん?そりゃ蝶じゃなくて毒蛾だったんじゃねぇか?毒でアレルギー起こしたんだろ」
「知りませんよそんなの!」
「何故キレる」
ふしゅーっとルーナに猫のように牙を剥くが、彼に当たってもどうにもならないことは分かっている。私の八つ当たりなど取り合わず、モクモクと煙を上げだしたフライパンを見て、冷静に火を止める大人なルーナを見ていると、徐々に私の尖った警戒心も和らいでいく。そういえば朝食の準備をしている途中だった。卵を二つ無駄にした。
「……なんて言うか……。お前にもあるんだな。苦手なもの」
焦がしたフライパンを一旦洗う私の背に、食卓前に戻ったルーナは意外だというような声を掛けてくる。
「そりゃありますよ。私まだ十四歳ですよ?子どもですよ?」
「子ども扱いすんなとか言うくせに」
「子どもとは常に都合のいい生き物なんです」
「威張るな」
子どもに朝食の準備を任せて優雅にコーヒーを飲んでいる大人も威張らないで欲しいところだが、私の宿敵を追い払ってくれたから今日の所は不問に付す。
「でもまあ……、そうかそうか。蝶が苦手なのか。そうか、蝶がねぇ…」
「……ル、ルーナ?」
ただ、ふむふむと何かを考え出し、やがて悪戯を思いついたような、いやもっと悪どい悪巧みを思いついたような顔でニヤついている彼を見た時には、茶に辛味調味料を一瓶ひっくり返してやろうと決意した。