月下美人
先だっての地下遺跡での一件から数時間後のこと。奏は、ぼんやりとした表情で格子の外に見える月を眺めていた。遺跡に入ったのは夕暮れの少し手前であったはずだから、まだ日付は変わっていないだろう。別にそれ自体には大した意味は無いのだが、一日のうちにこうもコロコロと立場を変えてしまう自分の存在に思わず溜め息を吐いてしまう。余計なことに首を突っ込まず当初の予定通りにフィアルとのティータイムが終わった後、自室に戻っておくべきだった。そうすれば今頃はこんな固い、申し訳程度の粗末なベッドではなく、あてがわれた自分のベッドで安眠を享受できたというのに、と。
奏は数日前に『お世話』になっていた牢屋へと、再び収監されていた。とはいえその時には意識を失っており、気が付いたら放り込まれていたという表現の方が奏の感覚に近いのだが、『この地下牢獄の絶対者』を自称する男の話によると、その理由はどうやらとてつもなく不名誉な罪状によるものだった。場所が場所であれば、黙秘権を行使して弁護士にしか話をしたくなくなるほどに。
「・・・・・おい起きろ、三七二一番」
噂をすれば影が差す、という言葉は意外と的を射ているのかもしれない。ちょうど奏が男のことを考えた途端に、その相手は数日前と同じ台詞を口にしながら姿を現わしたのだ。再会できたところで別段何の感慨も湧いてこないが、少なくともまったく知らない人間よりは幾分か気が楽だった。
「ですから、声を掛けられる前から起きてますって」
牢屋の隅でうずくまるようにしていたりベッドで横になっているならまだしも、奏は鉄格子に寄りかかるようにして座りながら月を見ていた。月の明かりに照らされていたし、それ以前に通路には松明も焚かれているのだから、眠っていないことくらいは一目で分かりそうなものである。
「この馬鹿野郎が・・・・・『二度と戻って来るな』と言ったじゃねぇか」
「別に戻りたくて戻って来たわけじゃありません」
「まったく、こんな短期間のうちに出戻った奴なんて・・・・・俺の看守人生の中でも初めてだぜ。このアウトロー野郎が」
この看守の男の頭の中には、何やら独自に設定された世界があるらしい。わざとらしく溜め息を吐きながら軽く頭を左右に振っている様子を半眼になって見やりつつ、直後に奏も大きく息を吐く。
「・・・・・この間はともかく、今回は牢屋に入れられたのが納得できないんですけど」
そうは言ったものの、前回の件でも奏にさしたる非があったわけではない。気が付いた時には既にあの場にいたのであって『立ち入った』という表現自体が適切ではなかったし、そもそも余所者の奏はそこが立ち入り禁止区画だということを知らなかった。しかしそれでも牢に入れられたことに対して一応の納得をしているのは、そのような理由で放免していては法の厳格さが保てないということが分かっていたからだ。
だが、今回は話が違う。謂れのない誹謗にも近い言いがかりでこのような状況に身を置かなければいけないのは、到底我慢できる範疇を超えていた。
「侵入が禁じられている地下遺跡で、女性を裸にして監禁してた野郎がよく言ったもんだな!?」
「いや、それって結果だけで判断された濡れ衣ですから」
最初に理由を尋ねた時と同じように看守の男は目を血走らせて怒鳴りつけるが、臆することなく奏は冷静に言葉を返す。
つまるところ、気を失っていた奏とカティアを発見した最初の者がそう誤解して彼を牢屋送りにした、ということなのだ。
二人が発見されたのは奏が姿を消した場所から少し離れた、しかも数階下層だったらしい。激しい音や揺れがあった中で城へと引き返さずに駆けつけてくれた同行者たちには感謝しきれないところだが、同時にそれによって現状がもたらされたことを考えると複雑な心情を抱かざるを得ない。全裸のカティアと、それに覆い被さるような格好で気を失っていた奏。かくして状況証拠のみによって犯罪者扱いとなり、今に至るのである。
「しかも超美人らしいじゃねぇか!羨ま・・・・・じゃなくて、なんて外道だ!!」
「もう本音がだだ漏れじゃ・・・・・あれ?」
唾を飛ばしてなおも怒鳴り続ける看守に正義感よりも嫉妬を強く感じた奏が辟易としていると、微かに石造りの階段を下りてくるような規則正しい足音が聞こえてきた。
「ずいぶんと賑やかなことですね」
次いで聞こえたのは、地下牢に似つかわしくない涼しげな声。さして大きくはないが良く通るそれは看守の耳にも入ったらしく、喚き続けて荒くなった呼吸のまま振り返った。
「こ、これは・・・・・ソフトクレス侍女長」
ブルメリアにおける城内のヒエラルキーは当然奏の知るところではなかったが、その態度の豹変振りを見る限りでは看守よりも侍女長の方が立場的には格上であるらしかった。先程までの態度とは打って変わって拳を胸に当てて敬礼する看守に片手を上げるだけで済ませた彼女は、そのまま脇をするりと抜けて牢の中で立ちつくす奏の正面へと立った。
「カーネリアさん・・・・・」
「災難でしたね、八代様。どうにもエメラルダ・・・・・ハーディアン卿は、頭に血が上り易い性格なので」
奏とて彼女の性情は何となく分かってはいたものの、さすがにそれはどうなんだ、と思ってしまう。誤認逮捕だけならまだしも、冤罪で牢屋に放り込んでしまうなど元々いた世界であれば大問題に発展しかねない。確かにどう好意的に解釈したところで褒められるような状況でなかったことは間違いないが―――――ただの一般兵士や中間管理職ではない、最高幹部の判断としては少々御粗末に過ぎるのではないだろうか。
「・・・・・ということは、俺の言い分を信じてもらえるんですか?」
とはいえ、それを指摘する意味も必要性も感じなかった奏は、思ったことを口に出さずに問い掛ける。それよりも重要なのは自分が城に戻ってきているということは、おそらく『彼女』も一緒に連れて来られているのではないか、ということだ。
あの時のカティアは、奏と離れることを極端に恐れているように見えた。今この場に彼女の姿がないということは、城のどこかに独りで、少なくとも奏が傍にいない状態でいるということになる。流石にそれによってカティアがどうにかなってしまうと考えるのは杞憂にすぎないと思うが、一刻も早くこの場から出て、顔を合わせて安心させてやらなければならない。そこに明確な理由など存在しなかったが、それほどまでに迷子になった時の姪の姿と彼女とが重ね合わさってしまっていた。
「それはともかくとして。八代様、貴方と一緒にいた女性なのですが」
「はい」
「彼女は貴方のお知り合い・・・・・というか、そもそも何者なのですか?」
彼自身の発言が微妙に流された感があるが、それに関しても奏は余計な口を挟まなかった。この場で身の潔白を示すのであればもう少し食い下がる必要があったが、今の彼にそれは必ずしも重要なことではない。信じてもらえるかどうかは別として、カティアの口から証言をしてもらえれば自分の不名誉な疑いは晴れるだろうし、そうなればこのじめじめとした地下牢から出ることが容易に叶うからだ。
「よく、分からないんです。どうにも向こうは俺を知っているようなんですけど」
「髪や瞳、肌の色などの外見的な特徴から見るに、この近辺の者ではありません」
まだ僅か数日しかブルメリアに滞在していない奏には分からないことだったが、国の要職にあるカーネリアがそう言うのだから、それは間違いのないことなのだろう。
しかし、それならば彼女は一体何者なのか、という至極まっとうな疑問へと行き着く。それに気になるのは奏がカティアと出会うきっかけになった、あの壁に記されていた文言だ。暗がりの中だったので読み違えた可能性も捨てきれないが、あそこには確かに『封じる』という意図的に彼女を閉じ込めていることを示唆する内容が書かれていた。また彼女自身が『閉ざされた』と言っていた謎の球体の中にいたことからも、何らかの理由であの場に捕えられていたのではないか、という奏の推測はあながち的外れではないように思われた。
「詳しく話を聞こうとしたのですが、貴方は無事なのか、今は何処に居るのか・・・・・それ以外のことを口にしようとしないのです」
その情景を思い出したのか、カーネリアは小さく息を吐き出す。
確かにあの場で主従の契約というものを交わした記憶はあったが、よくよく考えてみれば腑に落ちない点がいくつもあった。雰囲気というかその場の勢いでカティアの主となることを承諾してしまったものの―――――そもそも、なぜ相手が奏でなければいけなかったのか。その理由に関して触れられていた記憶はない。
「ついには『この城にいる全員を手にかけても、貴方の下へ行く』と言い出す始末でして」
「いや、まさか。そんなことできるわけ・・・・・」
「ええ、不可能です。しかし貴方を連れて行かないと、落ち着いて話が出来ない様子であることは間違いありません。それで、こうしてお迎えに」
そう言うとカーネリアはエプロンドレスのポケットから鍵束を取り出して、その中の一つを鍵穴へと差し込む。抵抗も無くカチャリ、という音と共に錠が外れた牢屋の扉を無言で開けた彼女は仕草だけで外に出るように奏を促してくるが、それを見て面食らったのは看守の男である。
「じ、侍女長!こいつはか弱い女性を裸にひん剥いて監禁していた、変態野郎ですよ!?」
「もはや、発言に個人的な恨みが入ってないか・・・・・?」
その主張に反論するだけの確たる材料を持っていない奏はげんなりとした表情で呟くしかなかったが、カーネリアは意にも解していない様子で踵を返すと、先に立って歩き出す。
「仮にそうだとしたら、女性の側が彼の身を案じる理由がありません」
「いや、しかしですね。彼女がこの男に脅迫されている可能性だって・・・・・」
「職務に忠実たろうとする姿勢はご立派ですが、私もフィアル殿下の御命令で動いているのです。これ以上私の方の職務を妨害しようとするのであれば、こちらも然るべき場所、差し当たって貴方のお母様にお話をしますよ―――――ロックス兄様?」
彼女がそう冷たく言い放つと、途端に看守の男は怯えたように黙り込んでしまう。そのまま階段を上りはじめたカーネリアの後を追うのに必死になってしまった奏は、突っ込みどころ満載の会話の内容を一旦保留するしかなかった。
そんなやり取りが行われていたのと同時刻の、別の場所。
城の応接間と呼ばれている部屋にいた一国の為政者と軍事における最高責任者は、目の前にいるたった一人の女性に困惑した様子を隠せずにいた。月が空の最も高い位置に昇る頃合であり、国家を支える柱である前者の二人ほどの身分の者であれば本来はもう就寝していてもおかしくない。しかし新たに国の柱として加わるであろう機工士の絡んだ問題であれば話は別とばかりに、こうして事情を聴取するに至ったのだが。
「ですから、何度も申し上げているようにですね」
「奏様は、御無事でいらっしゃるのですか」
これが何度目の繰り返しになるのか。それは国の財政状況を反映しているかのように質素な椅子に座ったフィアルが頭を抱え、その背後に立つエメラルダが手を後ろに組んだ状態で眉間に皺を寄せて不機嫌そうにしていることから、おおよその見当がつくというものである。
二人の正面に位置する長椅子に腰掛けた彼女は、どんな言葉を掛けようともまったく同じ返答しかしてこなかった。その様子から見る限りでは、最初に報告があった『機工士という立場を与えられた奏が、それを利用して女性に非人道的な行為を強要していた』というのは誤りである、とすぐに判断がつけられることだった。加えてエメラルダ自身が『あまりの衝撃的な光景に頭が真っ白になり、つい』と申し開きをしていることもあり、奏に何の罪もないことは既に分かっていたのだ。
しかしブルメリアどころか、隣国のどこにも合致しない容貌を持つ彼女の身元を確認しないわけにはいかなかった。自国を探ろうとしていた間者かどうかを疑っていたという面もあるが、秘匿しているはずの奏の存在を知っているということが無闇やたらと彼女を放逐できない理由でもある。機工士が宣戦布告の理由にもなりかねない今の時世であるが故の警戒だったが、それがこうも不毛な時間を費やすことになるとは、さすがのフィアルにも予想外の出来事だった。
「彼は無事です。それよりもですね、貴女の身元を―――――」
「では奏様は、何処にいらっしゃるのですか」
若干の譲歩をしたところで、結局は第二の問い掛けになるだけなのだ。痺れを切らしたエメラルダが『質問に素直に答えてくれれば、すぐにでも会わせる』と言ったところ、返ってきたのは『邪魔をするつもりなら、この城にいる全員を手にかけてでも奏様の下へ行きます』という先程カーネリアが言っていた物騒極まりない発言だった。
「・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
もはや何かの我慢大会のような様相を呈してきたこの会話を終わらせるべく、フィアルの側が折れて地下牢へとカーネリアを向かわせたというのが事の経緯だ。このまま意味のない問答を続けるよりは、取り敢えず彼女の要求に応えてやり、その上で自分たちに協力的な姿勢を見せる奏と一緒に話を聞いた方がよほど素直に答えてくれるのではないか、という目算もあった。彼がこの部屋に来るまでの間の時間を使って再度話をしようした試みの結果は、変わらず仕舞いであったが。
「いい加減にしないか!彼の安否よりも、今の君は殿下の質問に答える義務が―――――!」
「『いい加減にする』のは、貴女たちの方です」
あまり我慢と縁がなく直情的なエメラルダが、再び痺れを切らせて声を荒げたのはそんな時だった。しかしそれに対するカティアの反応は正反対で、すっと目を細めると冷たさを含んだ声色で呟く。
だが地下の探索から戻ってそのままのために甲冑を着こんだエメラルダと、申し訳程度に一枚のシーツのような薄布しか身に纏っていないカティア。普通に考えれば口論の末に掴み合いにでもなればどちらが有利であり、最終的に勝つ側なのかは子供でも分かりそうなものだ。しかしカティアには臆した様子など微塵も無く、仮にそうなっても勝つのは自分だとさえ言い放ちそうな雰囲気でエメラルダに対峙する。
「私の義務や責任は、奏様に対してのみ生まれるものです。貴女たちに負うものなど、一切存在しません」
「くっ・・・・・貴様!!」
「止めなさい、エメラルダ!口で負かされたからといって、非武装の女性に剣を向けるのが貴女の騎士としての在り方ですか!」
冷静な態度や正論というものは、時に人を逆上させるものである。その例に漏れずにすっかり頭に血を昇らせたエメラルダは反射に近い行動で腰に佩いた剣の柄に手をかけるが、即座に飛んだフィアルにしては珍しく厳しい叱責ですぐに我に返る。
もう、これ以上は何も喋らない方が良いだろう。一瞬でそう判断したフィアルは、ゆっくりと目を閉じた。眠ってしまわないように気を付けなければならないが、救いの主が現れるまでの間に無駄だと分かっている努力をした結果、状況をより悪くしたのでは元も子もない。そのすぐ傍でエメラルダが苛立ったような気配を醸し出しているのが分かりながらも、言葉を掛けることもなく静かに、大きく息を吐いた。
「殿下、失礼致します。『彼』をお連れしました」
そんなまさに一触即発の緊迫した空気を和らげたのは、フィアルが頼みとするもう一方の片腕の一声だった。というよりも扉を開けて一歩退いたその後ろから姿を現した、奏の存在に他ならない。
「奏様!!」
当の奏以外には予想外の行動だったが、その姿を視界に収めるや否や、カティアは弾かれるように一直線に奏に向けて走り出し、勢いもそのままに抱きつく。途中で薄布をずり落として再び全裸の状態となった彼女を受け止めようとした奏だったが、そのあまりの衝撃にバランスを崩して数歩分後ろへたたらを踏み、堪え切れずに背中から床へと倒れ込んてしまう。
「痛てて・・・・・カティア、大丈夫だったかい?」
「私のことなど、どうでもよいのです。お怪我はされていませんか?何も、されませんでしたか?・・・・・ああ、申し訳御座いません。私が、私が『力』の使い方を誤って、休眠状態に陥ってしまったせいで」
初めは胸元に顔を埋めて安堵の表情を浮かべていたカティアだったが、はたと何かに気付いたように少しだけ体を起こし、奏の顔や肩、腕や胸、腹の辺りを順番にぺたぺたと触り始める。そしてそのどこにも異常がないことを確認すると、今度は大粒の涙をぼろぼろと流しながら謝罪を始めた。
忙しないくらいの感情の起伏に驚いたのは、それを向けられている奏よりも横で見ていたフィアルとエメラルダだった。つい先ほどまで、それこそエメラルダに食ってかからんばかりの勢いだった彼女の面影はどこにもなく、まるで年端もいかない少女のようにただただ泣き続けるカティアの姿にすっかり毒気を抜かれてしまう。
「ちょっ、俺は大丈夫。大丈夫だから、落ち着いてくれよ。な?」
もちろん彼女は奏の身を案じていただけなのだろうが、全裸の女性に馬乗りをされた体勢のままというのはまったくもって格好がつかない。まして人目がある場所であれば、尚更のことだった。
奏はまずその豊か過ぎる胸が視界に入らないようにそっとカティアを抱き寄せると、安心させるようにゆっくりと髪を撫でる。その行為も先程までの体勢と大差がないようにも思えるが、自分がどう見られるかよりも軽いパニックを起こしているかのようなカティアをなだめることを優先させた結果である。
幸いにもそれを理解してくれたフィアルは、カーネリアに命じて落ちた薄布を拾わせると、受け取って静かにカティアの裸身を隠してくれた。
「八代様、申し訳ありません。エメラルダが無礼をはたらいてしまったようで」
さらにはそう言って頭を下げる姿を見た奏は、どれだけこの少年は紳士なのだろうか、と驚きを隠せなかった。自分が彼くらいの年の頃に女性の裸を目にしていたら、おそらくは何もせずにただその姿に見入っているくらいしかできなかっただろうに、と。
「いえ、別に何も。それよりも・・・・・済みません、何か騒ぎばかり起こしてしまって」
「ふふふ・・・・・八代様はブルメリアに来てから、大変なことばかりですね」
空の最も高い位置から徐々に降りてきた月に照らされながら、カティアは尚も声を殺して泣き続けていた。しばらくの後に少しだけ顔を上げた彼女は、髪を撫でていた奏の手を取り、その温もりを確かめるようにそっと自分の頬に添え―――――涙を零しながら微笑んだ。