仄暗い場所で
目を覚ますと、そこは鬱蒼とした森の中だった。
そこかしこから虫の大合唱が聞こえてきたが、生い茂る木々のせいなのか、それとも時間的な理由なのか。辺りは驚くほど薄暗く、数メートル先でさえ見通せないほどだ。
のろのろと体を起こすと、『彼』は何とは無しに自分の体のあちこちを触り始める。腕、胸、腰、脚、そして頭―――――どこにも異常や欠損が無いことを確認し終えた時点で、深く息を吐き出した。
「・・・・・俺、車に轢かれたんじゃなかったっけ」
思い返すのは、つい先ほどの出来事。
奏は、遅ればせながら開かれることになった姪の中学進級祝いのための食事会に向かっている最中だった。自身の身に降りかかったショッキングな事件のせいで約束の時間を大幅に超過してしまい、慌てて待ち合わせのレストランに移動をしたのだった。
そもそも奏がいつまで経っても来ないことを心配した瑞希からのメールがなければ、食事会のこと自体を忘れていたかもしれない。偶然と言うか、姪からの催促で思い出し、目的地の直前にある交差点で道路を挟んで彼女と無事に会うことができた。
身内の贔屓目になってしまうが、瑞希は結構な美少女だろうと奏は思っている。しかし性格的にはやや勝気というか、お転婆というか。このまま成長していけば、さぞ女の子にモテるだろう、といった印象だ。
その姪が速度超過と信号無視の暴走車に轢かれそうになり、それを助けるために彼女を突き飛ばし、彼だけが犠牲となった―――――はずだった。少なくとも、奏の記憶ではそうなっているはずだったのだが。
しかし気が付けば、そこは見知らぬ森の中。都会のビル群を『コンクリートジャングル』などと喩えることはあるものの、だからといって自分自身が森の中にいる説明になるはずが無い。
「何処なんだよ、ここ。いやいや、それよりも何がどうなってるんだ?」
流石に人を襲う野生の動物などがいるわけではないだろうが、視界が確保できない暗闇の中にいるというのは正直薄気味悪かった。第一『野生の動物がいない』というのも奏の思い込みに過ぎず、真実であるかどうかは定かでない。
しかし、と奏は足を止めて考える。
自分がこんな場所にいる理由はもちろんのこと、先程の出来事、そして今の状況がさっぱり理解出来ない。もしかして自分は夢の中にいるのだろうか、という埒の無いことさえ考えてしまう。
だが今現在が夢の中ではないとすると、果たして何処からが夢であるのか。会社に行くまでの記憶ははっきりしているものの、あの貼り紙を目にした後がどうにも曖昧だった。その直後に公園ではなくこの森に来ていたというのであれば今のこの状況の説明にはなるだろうが、いくら二十三区の端だからといってこんな森が都内に在ろうはずがない。
では少し飛躍した話になってしまうが、自分を撥ねた車の運転手が此処へ置き去りにしていったという可能性はどうだろうか。事件になるのを恐れて、証拠隠滅のために―――――と、そこまで考えてすぐに否定する。
そもそもあの場には瑞希もいたのだから、奏を森に置き去りにするだけでは事故を完全に隠蔽することは出来ない。その瑞希をも連れ去れば目撃者はいなくなるかもしれないが、そうなれば姉夫婦が黙っているはずが無いし、さすがに二つも三つも軽々に罪を重ねるとは考えにくかった。
第一、奏自身が見る限りでは怪我らしい怪我が何処にも見当たらないのだから、普通に考えればその場から逃げだしてそれで終わり、といったところだろう。
しかしそうなると、果たしてどこまでが現実で、どこからが夢であるのか。考えれば考えるほど混迷の度合いは強まり、さらに思考が混乱していく。
「・・・・・とにかく、この森を抜けようか。考えるのはそれからでもいいだろうし」
自らの困惑と不安をかき消すように独り言を口にしながら、奏はゆっくりと立ち上がり、何処とも分からぬ出口を求めて歩き始める。
しばらくすると暗闇に目が慣れてきたのか、ある程度周囲の状況は確認できるようになってきていた。しかし辺りの景色にはほとんど変化が無く、とりわけ光が強くなる―――――出口かどうかはともかくとして、木々の切れ間のような場所を見つけることは出来なかった。
不思議なことに常日頃の運動不足や睡眠不足による疲れはほとんど無かったため、それから一時間近く歩き続けてみたが、状況には何の変化も無い。どこかで左右に進路を変更することも無く真っ直ぐ進んでいたはずなのだが、それにも拘らず森が続いているというのはあまりにもおかしい。それほどに大きな森だというのであればまだ話は分かるが、先程も考えたように奏がいたのは外れの方とはいえ二十三区内。少なくとも、彼の記憶の中にそんな場所は存在していなかった。
実は左右のどちらかに道が微妙にくねっていて、意識しないうちに同じ場所を歩いているのではないか、とさえ考え始めた頃。ずいぶんと先の方に、奏の待ち望んでいた変化が現れ始めていた。
「あれ、あっちの方・・・・・少し明るくないか?ひょっとして、出口か!?」
その視線の先は、明らかに周囲と様子が違っていた。闇に慣れ切ってしまった目では少し眩しい、と感じる光量。開けている場所であるのは間違いないし、たとえその先に進むためにまた森の中を歩くことになるのだとしても、一旦落ち着くことはできるだろう。
知らず知らずのうちに歩調は速くなり、大した時間もかからずに目的の場所へと辿り着く。予想していたものよりも遙かに広いその空間には、池と呼ぶにはやや大きく、湖と呼ぶには小さすぎる水場があった。
流石にその水で喉を潤すことは出来ないだろうが、これだけ開けているのであれば腰を落ち着けて一休みが出来るだろう。そう考えた奏は更に一歩踏み出そうとして、すぐにあることに気が付き慌てて近くの木に身を隠した。
「え・・・・・あれ、女の子?」
パシャ、パシャ、という断続的に聞こえてくる水音と、少し遠目ではあったが、そこに人影を見つけたのだ。その音と腰のやや下までしか見えない人影から察するに水浴びをしているのではないかという想像は出来たが、それが少女であると分かったのは、その黄金色の髪が肩を越えた辺りまで伸ばされていたからに他ならない。決して、正面からの目視で性別を確認したわけではなかった。
「―――――!?」
しかし運の悪いことに、身を隠そうとした瞬間に枯れ枝を踏んでしまったらしく、その音に反応した少女は此方に向かって何事かを叫んでいた。
意味不明のことを、というのではなく、奏には理解出来ない言語で、だ。
「参ったな、何言ってるか分からないぞ・・・・・えっと、俺は別に怪しい者じゃ無くて―――――」
こんな状況で『怪しくない』という言い分が通るはずも無いと考えつつも、少なくとも害意がある訳ではないことをアピールしようと、木の陰から姿を現しつつ数歩分、奏は歩み寄る。言葉で説得出来れば一番なのだが、それが通じないというのであれば、まず丸腰であることを伝えなければならない。
するとそれが功を奏したのか、少女は警戒しつつもどこかほっとした様子を見せた。それに安堵した奏が、さらに言葉を掛けようとして前に踏み出した、その瞬間。
「がっ・・・・・」
後頭部に、鈍い衝撃が走る。正面に意識が集中し過ぎていたせいで、背後に何者かが近付いていることに気付けなかった。もしかすると少女の安堵した様子は奏を安全だと思ったわけでは無く、その後ろに見知った者がいたからなのかもしれない。
しかし、奏の意識が暗闇に飲み込まれる前に思ったことは。
「(え・・・・・俺、また気を失うのか?)」
そんな、多分に的を外したことだけだった。
そして再び目を覚ますと、今度は薄暗い牢屋の中だった、というわけだ。どれくらいの間意識を失っていたのかは分からないが、少なくとも奏が目を覚ましてから半日は経過していた。
なぜそれが分かったかと言うと、この牢屋はどうやら外に面しているようで、採光のために設けられていると思われる、天井にほど近い高さにある鉄格子のはめられた窓から差し込む光が、目を覚ました時とは反対側に移っていたからだ。結構な高さに窓があるので牢屋全体が明るくなることは無いが、それのお陰である程度は時間を掴むことが出来る。
「・・・・・ったく、一日のうちに何回意識が飛ぶんだよ」
考えてみれば、気を失って目を覚ます度に周囲の景色が劇的に変化していた。もう一度くらい気絶すれば、今度は自分のベッドの上で目を覚ますのではないか。そう考えてしまうほどに、現状に対して奏は混乱していた。
まだ少し痛む後頭部を抑えながら立ち上がると、おもむろに格子に手を伸ばしてみる。
ひんやりとしたその感触が手の平に伝わってくることから考えれば、鉄か、それに近い金属であることは間違いない。ということは自分が囚われているこの場所にいるのは、文明的な、少なくとも金属を加工する技術を持った何者か、ということになる。何のためにこうして奏を捕えているのかという目的までは分からないが、牢屋に放り込まれている以外の実害が無いことからすると問答無用で命を奪うような野蛮な思考をする相手では無いようだ。もっとも、それは奏の願望が多分に含まれた推測ではあるが。
軽く力を込めて格子を揺すってみるが、当然のようにびくともしなかった。誰かを勾留することを目的に作られているので至極当然だが、仮にこの場から抜け出すことが出来たとしても、その先どうするべきか見当もつかない。
どうやら今の自分がいる場所は、自分が知っている場所では無い。奏がそう判断したのは、目を覚ましたばかりの時に二、三言葉を交わした男の言動が根拠であり、その理由だった。
「・・・・・起きろ、三七二一番」
と、ちょうどその時。石造りの床にコツン、コツンと靴音を響かせつつ、一人の男が現れて奏に『番号』で呼びかけてくる。
この牢屋の看守であると名乗っていたこの男こそ、つい先ほどの推測に至る会話をした人物であった。顔立ちこそまだ若く、奏と同年代かやや年下くらいに見えるが、黒を基調とした服装のせいか年上に見えなくも無い。さらにはその左腰のあたりに一メートルはあろうかという棒状のもの―――――剣を吊り下げていた。
「いや、起きてますけど」
別段格子をどうにかしようとしていたわけではないが、寝ながら格子をしっかりと掴んでガシャガシャと揺するほど、奏の寝相は悪くない。というよりも、その体勢でいる相手に『起きろ』と声を掛ける方がよほど奇妙なのではないだろうか。
しかし、彼が自身が口にしたような身分の者ならば、反抗的な態度を取るのは賢明ではない。かといって、呼びかけに応えないのも得策とは言えない。そう考えて最も当たり障りのない返答、つまりはそのままの状況を伝えたのだが。
「ふん、減らず口ばかり叩きやがる」
「普通に受け答えしてるだけですよね!?」
奏の意図が汲み取ってもらえることはなかった。しかし『やれやれ』といった感じのボディアクションをしていることから見ると、気分を害したというわけでもなさそうだった。牢屋に捕えられた人間の反応に慣れているのか、それとも最初からまともな受け答えをするつもりがないのか。こういった場所に『お世話になった』経験の無い奏には、看守の反応はいまいち掴みづらいものだ。
「まあ、いい・・・・・しかし閣下、本当に宜しいのですか?」
ふと気が付くと、看守と名乗った男から少し離れた場所に甲冑が佇んでいた。よく見れば僅かに動きがあり、耳をすませば微かに金属音がする。置物ではなく、人間がそれを着てそこに立っていたのだ。
「構わん。いや、私個人としては当面釈放するつもりは無かったのだが・・・・・殿下がこの者を連れてくるように仰せなのでな」
閣下、などという敬称で呼ばれているからには、それなりに身分のある人間なのだろう。しかしそれにしても、奏の生活の中においてそのような敬称が使われることはまず有り得ない。継承権を持った王族に用いられる殿下というものであれば、尚更だ。
渋々、という体で牢屋の鍵を開けた看守に引っ張り出されながらも、この非現実的な状況に奏は混乱のし通しだった。だが背後に立つ看守だけでなく、目の前の甲冑姿の人物もよく見れば帯剣をしている。ここが慣れ親しんだ日本ではないというのであれば、下手に抵抗したり相手の機嫌を損ねたりすれば、その剣が自分に向けられるであろうことは容易に想像ができる。であれば大人しく従っておくのが最も無難な選択か、と奏は観念したように大きく息を吐いた。
「ついて来い・・・・・だが、妙な気を起こすなよ。少しでも怪しい素振りを見せれば、その場で斬って捨てる」
そう言うと、甲冑姿の人物は先に立って歩き出す。
このまま牢屋に閉じ込められているよりは、まだ脱出の機会がある。無理やり思考を前方向へ向けた奏は、意を決したように拳を握り、足を踏み出した。
「おい、三七二一番!」
その時、絶妙なタイミングで看守が奏に声を掛けてくる。
「・・・・・何ですか」
よもや彼の上役であろう人間が連れ出そうとしている自分に難癖を付けることは無いだろうが、と思いつつも、やや警戒して奏は振り返る。
しかしそこには懸念したような物騒な光景はなく、その代わりに何故か微妙に目を潤ませた看守の不気味な姿があった。
「二度と、こんな場所に戻って来るんじゃねぇぞ!!」
そう言うと、握り締めた手から親指だけを天に向けてサムズアップ。ニヤリと笑いながら下手くそなウィンクをしてみせた。
どうやらこの男は囚人に慣れているのではなく、自分の中で『看守』というキャラを作っているだけのようだ。何となくそう感じた奏は、最後まで彼に付き合うかどうかを思案して―――――
「はぁ・・・・・どうも、お世話になりました」
中途半端に対応するに留めた。