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ささやかな願いすら、罪と化す。

――――その熱は、誰が奪い、誰が温めるのだろうか。止まない雨を遮ってくれる者は、果たして現れるのだろうか。


彼女の通り名は《葬祭のマリア》。本名は誰も知らない。

だから彼は『マリア』と呼び、拾ってきた犬っころみたいに飯と布団を与えていた。

今年の夏で二十六歳になった水神龍二は、《狩人》を生業として生計を立てている。無辜の民をアンデッドから守る仕事だ。

さまざまな歴史を刻んだ二十世紀も終焉を迎え、ほんの数年が経った頃のこと。世界は唐突にそして確実に、混沌の闇へと染められた。

ヒトのなかに突如として発症した屍症候群は、健常な体がある日突然に屍となって死に至る病だ。遺伝子異常だとか伝染病とか、研究者の間でさまざまな憶測が飛び交う間に、恐ろしいくらい世界中に拡散され、猛威を振るった。

しかしそのわずか数ヶ月後、その屍症候群に免疫を持つヒトがぽつぽつと現れ始め、彼らの抗体細胞からワクチンが作られる。

事態は呆気なく、しかし急速に終息へと向かった。……かのように思われた。


『屍人加速細胞性免疫』。


一般人のなかでもっとも浸透している通称は【アンデッド化】。それが抗体細胞の恐るべき正体だ。

アンデッド化すると屍の身体になっても死に至ることはないが、屍のまま生き続けることを余儀なくされる。しかもその身体が求める栄養は、普通の食事ではなく。

――――『ヒトの死』である。


屍とは身体に栄養が回っていない状態で、脳にのみ活発な活動が見られる状態を指している。脳にさえ栄養が渡れば、彼らは幾らでも生き永らえることが可能だ。

身体に栄養が回っていなければ外的活動ができないはずだが、彼らアンデッドにその理屈は通用しない。

つまり視覚的、聴覚的にでも栄養となるものを摂取すれば、それで腹は満たされて活動可能だという道理。

もちろん身体的な成長は止まってしまい、ある意味合いでは不老となる。

が、じゃあなんでも観たり聴いたりして生きればいいじゃん、というわけにもいかない。

ヒトが新鮮な食糧を求めるのとまったくの同義で、彼らは眼前に新鮮で生々しい【死】を求めるのだ。

この屍人加速細胞性免疫に対して政府が行った対策は、すぐにワクチンの供給を止めることだった。

既にワクチンを接種した者は隔離され、アンデッド化の経過を観察する『保護施設』と言う名の檻に放り込まれた。我が子可愛さに保護施設への入所を拒否した親も多くいたが、大概がその可愛い我が子に殺される結末を迎える。


かといって、ワクチンなくして屍症候群が蔓延した世界に生きることは、不可能でしかない。

屍症候群で人類を滅亡させるか、屍人加速細胞性免疫でアンデッドを増やすか。人類の歴史を更新する、その選択肢。

決断したのは当時の政治的トップ勢ではなく、日本の研究者だった。

屍症候群の患者にワクチンを接種させ、アンデッド化を遅行もしくは免疫を停止させる新たなワクチンを開発するための、時間を稼ぐ。

それが一連の研究者トップを独走するひとりの男の、確固とした決断だった。

彼の英断にもちろん、意を唱えるものは大勢いた。

結局のところ多くのヒトをアンデッド化させるわけだから、危険が増大するのではという不安が常にある。


結果として世界が崩壊し、アンデッド化したヒトが退廃した街に跋扈しているこの有様を見ている龍二も、男の英断は愚鈍だったと評価せざるを得ない。

世間の批判に追い詰められた男が自殺したのは、ある意味では自明の理かもしれない。

母がワクチンを受けてアンデッド化し、父と妹を殺した様を見せられたのだ。成人してからもその地獄は龍二の心を苛んで、時折嗚咽に変わることがある。

思い返して苦渋を飲んだように奥歯を噛み、龍二はふと隣を歩いているはずのマリアへ目を向けた。彼女はどことなく、あの頃の母に似ている。


季節は秋へと移りつつあり、風の冷たさも少し痛いくらいに身体へ響く。

路面のここそこには落ち葉が転がっている。古びたコンクリートを覆う樹木も、冬へ向けての準備を始めているようだ。

今朝の天気予報では雨が降ると言っていたが、本当になりそうな重い曇り空だと思いながら、龍二は空を見上げる。

折りたたみの傘を一本、持ってきてよかった。マリアは余計な物を持って歩き回ることを嫌うので、龍二のバックパックに忍ばせてある。ほかにも、鞄のなかはマリアの化粧ポーチや暇つぶしの文庫、ゲーム機でいっぱいで、龍二の持ち物は携帯食糧や応急キットくらいしかない。

それからすぐに、前へと視線を戻した。

すっかり憔悴しきってとぼとぼ歩くマリアの姿は、輝く美しさをすっかり台無しにしている。


「…………」

龍二は伸ばしかけた手を、しかし寸前で止めた。

一端の男であれば、ここは肩でも抱いて慰めるべきであろう。

しかし龍二と彼女は恋人でなければ兄弟姉妹でもなく、一滴も血の繋がりはないどころか……お互いの素性さえ知らない。まさしく【赤の他人】だ。

その受け入れ難い現実を突きつけられ、龍二は虚しく空を切った手を引っ込めて黙々と前に向かって足を運んだ。


いつかこの地獄を終わらせたい。

龍二はその一心で研究職に就いた時期もあったが、半年ともたなかった。アンデッドの数が健常者の数を上回り、もはや研究どころではなくなったのだ。

政府は研究機関の規模縮小を宣言し、代わりにアンデッドから物理的にヒトを守る対策を講じた。

それが現在の《狩人制度》であり、実際に健常者の死は微量ながら減ったという報告がある。

狩人に特別な能力があるわけではない。自衛官などの、国に身分を保証された存在でもない。その身で戦う術を政府公認の自衛機関に叩き込まれ、ライセンスを得た暫定的民間警備員という位置付けだ。

武器も旧時代に製造された物を、危険蔓延る居住区外から発掘してメンテナンスしたもので、特別にレーザービームが出るとか炎が吹き出すといった仕掛けは一切ない。

現在の日本に新しい武器を製造するだけの生産力はなく、弾薬などの消耗品はもちろん、壊れた武器の代替品が尽きる日は近いとさえ囁かれている。

狩人の役目はその身を賭して、一般人民からアンデッドを守ること。

研究者として三流だった龍二は新たな食い扶持を求めて、狩人のライセンスを得た。

幸いにして運動神経に自信があった龍二は、これまで戦ってきてどうにか生き延びることができている。狩人は研究職よりも天職だったのかもしれない。

親戚筋も件の病気によってとうに途絶えており、本当の意味で天涯孤独となった龍二だが、むしろ生活は豊かだと感じている。自分で稼いで、衣食住も整っていて、煩わしい人間関係も一切ない。

恋人のいない侘しさを痛感するその気持ちも、もはや麻痺してしまった。


なのにどうしてか。年齢や本名すら知らない彼女と出会い、いまでは共に一つ屋根の下で暮らしている。

血の雨に濡れそぼったマリアと出会ったのは、龍二が狩人になって二年が経った日のことだった。

以前から《葬祭のマリア》の噂はよく耳にしていた。

とりわけて可憐な容姿なだけに、やっていることは他のアンデッドと変わらないはずなのに、悪目立ちしているように思える。

よくあるシスター服みたいな黒装束も特徴的で、見かけた瞬間にすぐ彼女とわかった。

しかしこれまで排除してきたアンデッドと彼女が違うことも、ほんの一瞬でわかった。

彼女が落とした涙は、決して自己中心的でヒロイックな陶酔や憐憫ではない。

他の誰かの命を守るために、わたしを殺してほしい……偶然その場に居合わせただけの、初対面の龍二に向かって彼女は縋った。

アンデッドを殺す術は単純明快だ。彼らの『急所』を探り当て、どんなにひ弱なナイフを使ってもいいから傷つければいい。

しかし彼らの『急所』には個体差がある。心臓がそれの奴もいれば、極端な例を挙げれば指の先や髪が急所の奴もいる。

アンデッドの本能なのか。大抵は戦っている最中にその場所を庇う癖があるから、狩人は戦いながら観察するのが常だ。動きながらの観察はひと苦労ではあるが、慣れてしまえばどうにでもなる。

しかし《葬祭のマリア》には、そういった特徴が見受けられない。

急所がわからなければ、アンデッドは殺せない。それは彼女も例外ではない。


彼女が龍二のアパートに転がり込むようになったのは、それからすぐのことだ。

少女を『マリア』と呼び、常人のそれと同じように食事を与え、数少ない共通の話題を絞り出して口にし、同じ部屋で眠る。――――まるでひとつの家族のように。

龍二のなかでマリアの存在が、日々を追うごとに大きくなっていったのは自然なことかもしれない。

いつしかマリアに『死なないでほしい』と、『共に生きてほしい』とさえ……密かに願うようになっていた。

その感情は罪なのか、或いは罰か。

龍二の首を優しい真綿のように、少しずつ締め上げていくことになる。

ようやく二十一世紀を迎えたばかりの日本は、しかし発展とはほど遠く、すっかりうらぶれてしまった。


「龍二」


まだ食事をした現場から、そう離れていない距離にある小道。舗装のコンクリートはひび割れて、その隙間から雑草が生えている。その雑草がわずかに揺れた。あれは風の力ではない。

不意にマリアの声で引き留められて気づけたのは、運がいいし彼女のお陰だ。

廃都の新宿に人影があるのは、大抵は龍二の同業者か……人間社会に行き場を失ったアンデッド。いま視認できる人影は、どうやら後者のようだ。

しかし決して油断してはいけない。龍二は息を潜めて、相手の様子や周囲に目を向けた。

アンデッドだけなら願ったりの状況だが、狩人がいるとなると話は別になる。こちらには日本一の賞金首《葬祭のマリア》がいるのだ。

龍二ひとりなら同業なので襲うメリットはない。適当にかわすもよし、面倒ごとを避けて逃げるもよし。しかし戦う力のないマリアがいるなら、そうはいかない。彼女に戦う力などないのだから。

アンデッドのなかには、自衛手段として戦う術を得た者がいる。命を狙う狩人から逃げるには、必要なことだったと理解できる。

しかしマリアが他人に自ら暴力を振るっている姿は見たことないし、腕力や体力に人外のそれを感じたことは、龍二にはなかった。

まったく無力というわけでもなさそうだが、ほとんど普通の少女を守りながら逃げる余裕は、残念ながら龍二にはない。


「龍二」

隣で息を潜めるマリアの瞳と呼び声は、『あのアンデッドに慈悲を』と訴えている。

龍二は頷いて、しかし腰に帯びた直刀を見つめては躊躇う。

飢え死にを防ぐ本能が強すぎるがゆえに、餓死を選べないアンデッドを殺すという業を選んだ者が……龍二を含めた狩人。

龍二もこれまで数えきれないほどのアンデッドに手をかけてきた。

今更になって急に罪悪感が湧いたわけでもなく、仕事のときはいつものことだ。


「あっ!」


マリアの声に驚いて顔を上げると、アンデッドは他の狩人に呆気なく殺された。

龍二が女々しく悩んでいる間に、狩人が接近していたのだろう。あのアンデッドより先に龍二たちが見つからなかったのは、運がよかった。

「すぐ移動しよう」

言うやいなや中途半端に触れていた刀の鞘から手を離し、マリアを引き連れて可能な限り足音を消して走りだした。

いまならマリアの『食事の痕跡』も、あのアンデッドの仕業に思わせることが可能だ。そうすればマリアの存在に気づかれることもなく、余計な争いを避けられる。

マリアも龍二を無闇に戦わせる気などないようで、素直に龍二の手を握り返して追ってきていた。

埃っぽい廃墟の間を縫うように駆け抜けて、ときおり振り返って様子を窺う。振り返っても決して足を止めることなく進んだ。

走っているあいだずっと、心臓は早鐘のように騒がしかった。

もしあの狩人が龍二とマリアに気づいて、追いかけてきたら……そんなことばかり想像してしまう。

いったいどのくらい走り続けたのだろうか。新宿駅に着いてようやくひと心地つき、それから電車で自宅に戻るべく切符を二人分、無人の券売機で購入。

電車のなかで龍二とマリアはひと言も交わすことなく、窓の外から朽ちた高層ビルの街並みが流れていく様を眺めていた。


都心がほぼ機能していない二○○二年現在の東京都中心部は町田市だ。

アンデッドが支配しつつある二十三区の放棄宣言が国営ラジオで正式になされてから、国会議事堂や都庁の移動計画も着々と進行している。

新たな中心都市として選ばれた町田市の発展は、しかしアンデッド対策に莫大な費用を掛けているため遅々として進まず、中心地の割にはこじんまりとした街だ。

しかし電車という生活路線は最後の砦としてどうにか残されており、現在の国民の主な移動手段として重宝されている。

龍二とマリアが住むアパートも町田駅から徒歩圏内にあり、移動に自動車やバイクを使うことは滅多にない。

今日も仕事で新宿区まで出向いたその足は、小田急小田原線だ。

龍二のような狩人でも電車を使う人が多いが、さすがに血塗れの少女が乗り込んだら誰もが驚くのは必然である。お陰で帰り道は随分と注目を集め、動物園のパンダの気持ちがよく理解できた。


「早くシャワー浴びてこい」

自らの腰に帯びた物々しい武装を解除してから、人心地つく間もなくマリアに声をかけた。

古いながらも丁寧に整備された直刀は、まるで持ち主のこころをそのまま形にしたよう。

マリアと出逢ってから、この刀を振るう機会は増える一方になっている。なにせ彼女に『食事』を与えるためにアンデッドが蔓延る街中を彷徨くわけだから、当然のように戦闘回数が跳ね上がる。

お陰でずいぶん稼ぎがよくなったが、金食い虫のせいで貧乏は変わらない。龍二がいくら稼いで節約しても、マリアの妙なこだわりと食欲がすべてを台無しにするのだ。

高い天井に備え付けられたシーリングファンが、帰宅してすぐに開け放した窓からの風を受けて揺らいだ。

マリアが血で濡れそぼった服を脱ぎ捨てるあいだに、龍二は彼女の着替えとタオルを準備しておく。

この娘は裸とかそういう状況にはまったく無頓着で、龍二がいくらやめろと言っても家中を裸で動き回る癖があった。

本当の年齢は知らないが、外見は年頃の女の子なのだから少しは気を回して欲しいと思うが……ここまで堂々とされると、こちらの常識が間違っていたとすら感じ始める。

マリアが蛇口を捻ってシャワーを浴びる音に、心臓が高鳴るなんて……どこの思春期少年だ、俺はもう二十六なんだぞ、と。我ながら実に恥辱の限りだ。

心頭滅却のために、溜まっていた食器を洗い始めた。洗剤の泡がシャボン玉のように飛び交い、龍二の複雑な表情を映していた。

彼女が自分をどう思っているのかは、龍二にはわからない。

たぶん『なんか勝手にご飯くれる人』としか思っていないのだろうな、と投げ槍になって勝手に不貞腐れる。


――――いや……。

人を殺し続けて罪を重ねることでしか生きられない、そんな穢れきった自分の命を終わらせてくれる【引導係】――――といったところかもしれない。

とかく彼女には自尊心というものは欠片もなくて、いつだって誰かに傷つけられたがっているような素振りを見せる。

自分には誰かを責める権利や資格などない、犯されて嬲り殺されたとしてもそれは自然で自業自得だ……くらいのことは、常々思ってるのだろう。

雨に濡れた身体を労わることも識らない、幼い獣のように。

彼女は気づいていないかもしれないが、いまの龍二にとって、マリアはかけがえのない存在となっている。

家族のそれでもない、安っぽい同情ではない。

龍二はマリアという少女を、この世のなによりも深く愛していた。

普通の男女が求めあうそれを、龍二は彼女に求めているのだ。

だからこそ思い詰めるのは、彼女にとっての自分はどういう存在なのかという、その一点に他ならない。

龍二の心の支えがマリアであるように、彼女にとっても自分が心の支えになっていて欲しい。そう思って求めることは、間違いではないはずだ。

だから――――


マリアが微かに鼻歌を歌いながら浴びるシャワーの音に、苛立ちを感じてひとりでにむくれる。

「ちょっとくらい俺のこと、意識してくれても……」

アンデッドは発症したその時点で、肉体の老化がぴたりと止まる。

だからマリアの正確な年齢は、外見から測ることができない。龍二より年下かもしれないし、同い年かもしれないし、もしかしたらものすごく年上かもしれない。

女性に年齢を訊くのは野暮と判断し、これまで一度として口にしたことのない話題のひとつだ。

だがそれらをぜんぶ差し引いたとしても、龍二は男でマリアは女という現実が変わることはない。悶々とした感情を抱くことに、なんら不自然なことはあるまい。

しかしマリアが『恥じらい』の欠片の欠片でも持って行動してくれれば、どうにか理性を保てるはずだ。たぶん。

仮にも妹がいた身だから女の子にはある程度慣れており、学生時代は男女関係でそれなりの経験もある。だからいまさら少女の裸体ごときでわーきゃー騒ぐのも馬鹿らしい、頭ではよくわかっている。

しかしまったく残念なことに身体は正直な反応を示しており、それを彼女に気取られてしまうのは非常に躊躇いが――――


「龍二」

「んんんんんんんん!?」


唐突な背後からの呼び声に大きく動揺し、うっかり手が滑って洗いかけの皿を落としてしまった。

いまや日本の中心である町田駅から近い割に家賃が激安な分、ふたりで暮らすにはとても狭い七畳1Kのアパートだ。キッチンと浴室は人ひとり通るだけで精いっぱいの廊下を挟んで、背中合わせとなっている。

フリーマーケットで手に入れた安物ノーブランドの白い皿の無事を目と手で確認してから、龍二はなるべく平静を取り繕って振り向いた。

「なっなっなっなんだよ急に!?」

正直な感情に呼応して上擦った声で答えてから、自身の失敗を嘆いて耳が蒸気を上げた自覚を持つ。さらなる恥の上塗りを自覚した負の連鎖。

背後ではまったく予測通り、マリアはお湯で濡れた素肌に大判のバスタオルを巻いた心許ない姿。

ボディソープのものだろうか。花とミルクを混ぜた甘い匂いが漂う。

彼女の張りのある白い素肌は熱い湯を浴びて血行がよくなり、蒸気をあげて健康的な薔薇色に染まっていた。肌を滑る幾多もの水滴が、彼女の肌の滑らかさを多分に表している。

濡れて肌に張り付いた髪がうまい具合に乳房を隠していて、その様子が余計な想像を掻き立てた。

出るべき部位は出ていて、締まるべき部位はきちんと締まっている。過不足なく形のいい裸身は蠱惑的に男を誘う女神のような美しさを誇っており、たとえ龍二でなくとも楽園への誘いを断ることは難しいことだろう。

自然と龍二の喉が鳴り、胸の高鳴りと身体の疼きは極まっていった。

このまま抱き寄せてしまいたい衝動に駆られ、龍二の右手はマリアへと吸い寄せられていく。――――しかし。

ずいっと龍二の眼前に押し付けられたのは、プラスチック製の縦長なポンプ容器。

宝石のように煌めく薄桃色で可愛らしくあしらわれたそれは、マリアのよくわからないこだわりのせいで龍二も兼用させられている女性向けシャンプーの専用容器だ。


「シャンプー切れた」

「…………」


少し低めな一定のトーンで告げられたのは、シャンプーの容器が空になったという報せ。

はよ買ってこい、という王様よろしく無言の圧力をひしひしと感じる空間。龍二はマリアと同じく一切の遠慮なしに、盛大な溜め息を吐きだした。

――――前言撤回。よくて『家政夫』だな、こりゃあ。

男女の彼是など、この年齢不詳マイペース娘が考える事柄なんかじゃあない。出逢った時からわかっていたことではないか。

そんな彼女に、なにを求めていたというのだ。どれだけ求めても無駄だ。


「なによ、その溜め息」と眉根を寄せるマリアの声は無視した。

たっぷりと手についていた食器用洗剤の泡を洗い流して、龍二はマリアお気に入りシャンプーの詰め替え袋を、キッチンシンクの下から出してやる。

するとマリアはなに食わぬ顔で礼を述べることもなく受け取り、意気揚々と浴室に戻っていった。

あれだけときめきを感じたシャワーの音も、しかしいまは『虚無と哀しみのソナタ』といったところ。

己の労力にまったく見合わぬ代価を痛感し、龍二はがっくり肩を落として皿洗いへと戻っていった。


「まるで飢えた獣ね」


風呂上がりの開口一番に、マリアは自身の身体を眺めて吐き捨てた。

白いリボンとレースを控えめにあしらったショーツ以外は、なにも身につけていないむき出しの裸身。

彼女の白く細い腕には爪で引っ掻かれた蚯蚓脹れが、無数に痛々しく走っている。なかには血が滲んで、膿んでいる箇所もある始末だ。

昼間に襲った女性の置き土産か。マリアは表面上けろっとしているが、見ている龍二の方が痛みを想像して目を眇める。

「消毒するぞ」

言って、龍二は畳一枚分もない狭いクローゼットからプラスチック製の小さな薬箱を取り出し、マリアへ向けて手招きする。

アンデッドの肉体が不老不死とはいえ、傷を負えば痛みがあるのは龍二たち常人となんら変わりない必然。大怪我を放置して魔法のように一瞬で治ることなどないし、四肢の欠損があっても蜥蜴の尻尾よろしく生え変わることはない。

マリアの腕を覆う生傷の痛みは、龍二となにひとつ違いのないものだ。

しかしマリアは、

「なにを気遣ってんのよ、今更」

などと言って鼻で笑う。

その笑いは決して龍二へ向けて、ではなく――――化物の(ヒトではない)自分自身に対してだ。


「痛みがある方がいいの。わたしがまだヒトの心を持っているんだって……実感できるから」

「……」


傷口に舌を這わせて血を舐めとったことで、マリアの宝石みたいな翠緑の瞳は赤く変色した。顔が垂れ下がった前髪で隠されており、龍二からは彼女の表情がわからない。

しかし声にいつもの張りはなく、彼女の内なる悲しみがよく滲み出ていた。

『虚勢』と『本音』。

相反するふたつの感情が複雑に絡みあい、撹拌された声は、龍二にしか理解できない本当の彼女。――――《葬祭のマリア》という血塗られた虚像に覆い隠された、ひとりの少女の切なる苦悩だ。


「ねぇ、龍二」

龍二を呼ぶ声はずぶ濡れの仔猫みたいに所在なげで、どこか安息の地を求めて彷徨っているような響き。自分を求められているようで嬉しい反面、彼女の苦しみを取り除いてあげられないもどかしさを、龍二は燻らせていた。

マリアは蚯蚓脹れが痛々しく走る白い腕をすっと伸ばし、心做しか潤んでいる眼差しでじっと龍二を見つめる。

彼女の瞳はキッチンの頼りない白熱電球に照らされて、儚げに揺れ動いた。いまにも雨が降り出しそうな曇り空だ。

刺々しいサバイバルナイフを握ったマリアの手は精緻な細工物のように華奢で、ミスマッチも甚だしい光景。

錦糸のようなマリアの濡れた長い髪が、わずかに揺れる。たったそれだけでシャンプーの華やかで甘い香りが、エアコンの風に乗って狭い部屋いっぱいに拡がった。

強い風を受けて真っ白なレースのカーテンが煽られ、からからと天井のシーリングファンが回る。


「刺して」


マリアが自らの肉体を傷つけて『急所』を捉えてくれ、と龍二に頼むのは、いまでは毎日の日課だ。

ふたりが出逢ってから、半年もの時間が経過した。

マリアの『急所』はいまだ見つからず、したがって彼女は今日も生き延びている。

痺れを切らしたマリアに「腹を裂いて内臓を直接突け」と恐ろしい命令をされたこともあったが、それだけは頑なに拒否した。悲しいことに見るのは慣れたが、自身の手で無辜の魂を奪う度胸はない。

彼女の目的は龍二に殺してもらうことだが、龍二にはその覚悟が足りないようだ。

「……」

ふたりきりの室内で見詰めあう男女に、あり得べからざる真剣な哀願の交錯。

一方は他者からの厳しい呵責を求め、一方はささやかな愛慕を願う。

交わっても染まりあうことのない想いの行方を知る者は、果たしてこの世界のどこにいようか。

静かに懇願するマリアの視線から抗えきれるはずもなく、龍二は不承不承にナイフを受け取った。

刃渡り十二センチのサバイバルナイフは、見た目の重々しさとは反比例して随分と軽量化されているようだ。空気のように軽く、ラバー製の黒いグリップは手によく馴染み、大振りであるにもかかわらず女性でも扱いやすそうに感じた。

ステンレス製の刃が白熱電球の光を反射して鈍く光り、その鋭さと危うさを多分に主張している。少し掠っただけでも痛そうだ。

ナイフの刃を見詰め続けた龍二の額には、冷や汗がひとすじ流れている。手にも汗が滲んできて、表皮が驚くほど白く変色していた。


「……」

龍二が躊躇うのはいつものことで、なにを思っているのかわからないが、マリアはただ黙ってじっと待っている。

仕事柄、生き物を傷つけることに慣れているつもりだ。だが相手はあくまで、欲求に呑まれて罪なき命を刈り取る【化け物】。守るべき人びとに害をなす者。マリア……《葬祭のマリア》のように重々しく罪に苛まれる者など、少なくとも龍二は出会ったことがない。

屍症候群の罹患から始まってワクチン接種……そしてアンデッド化した感染者は皆一様に、変わってしまった己の肉体が求めるままにヒトの生命を糧に生きていく。

それは人間ヒトとしての生を棄てたという、自身や他者、たとえ神であってもどうにもできない諦念なのかもしれない。

多くの感染者がきっと、ヒトを殺して生きるさがに抵抗を覚え、それ以外の道を模索した過去があるのだろう。

ヒトを殺傷する行為は犯罪であると、誰もが理解している倫理的な常識であり、普遍的な思考であるはずだ。たとえ戦場で敵兵と対峙した場合であっても、トリガーを引く指が震えるのは自然の摂理。

殺したいほど憎い相手だったとしても、果たして一ミリも躊躇わない心があるだろうか。

自らの生命のために、他の誰かを犠牲にして生きる……彼らアンデッドは、その生き方を唐突に押し付けられた。だけどそれは、この世界では許されざる大罪。

しかしその誰しもが辿り着いた結論は―――語るまでもなく、現在の状況が仔細に教えてくれる。


『生きたい』と願う心もまた、真っ当なヒトとしてのあるべき姿。

なればこそ、彼らを責め立てることなどしてはいけない世の中であるはずだ……と龍二は近頃、思うようになってきている。

マリアと出会う以前はお堅くて形ばかりの浅い正義感でもって、多くのアンデッドに手をかけてきた。彼らは健常者を殺すから、俺たちには害悪である、と。

しかしアンデッドの視点からものを見れば狩人と、狩人に頼るヒトは皆一様に【殺人者】なのだ。


――――この先いつか……俺はマリアを殺す日が来るのだろう。


胸が痛いくらいに強く確信を得て、龍二の視線は彼女の翠緑の瞳に吸い寄せられる。

彼女の瞳はいつも、不思議な魅力を感じた。

何者も信じない硝子玉のように硬質かと思いきや、ふと柔らかく優しげな眼差しを浮かべる。どちらが彼女生来の性質なのか、ときおりわからなくなる。

マリアの瞳は水に溶かした絵の具のように混ざりあい、複雑な色味をもたらしていた。

龍二の手に固く握られたサバイバルナイフは冷たいまま。むしろ冷たさを増して、龍二の手から温度を奪っていく。

雨露を支える薔薇の枝が、重みに耐えかねて手折れるみたいに。

待ちかねたマリアが龍二の手を握り、自らの胸元へ誘導した。

その誘いは天使の祝福か、悪魔の甘言か。


――――どちらにしても、俺は地獄へ行きそうだ。

秋に入った日照時間は冬に向けて短くなってきており、外を見遣ればもうだいぶ暗くなっていた。かろうじて遠くはやや明るいものの、夜の天鵞絨は広く美しく……そして残酷に広がっている。

窓に映った誘いに身を委ねる自分の姿がひどく滑稽で、嘆いては独りで嘲笑った。

ぷつ、とナイフの切っ先がマリアの弾力が強い白い肌を貫き、ひと筋の鮮血が滴れる。白木のフローリングに染みが作られ、いくつもの徒花を咲かせる。

そこから先は、抗い難いなにかの引力を感じたかのように、龍二の腕が動いた。

ナイフをマリアの見るからに柔らかそうな胸へ埋めたことで、肉を切る感触が龍二の掌から全身に拡散される。

噎せ返るような血の匂いは、慣れてしまえば喉の奥から後を引くような甘い感覚を呼び覚ました。


「あっ……」


それが痛みからなのか、それとも望んでいた【死】へのファンファーレを聴いたゆえなのかは、龍二にもわからない。

マリアはナイフが深く突き刺さるたびに、男の欲情を掻き立てる甘い声で啼いた。

龍二の心臓は鼓動を速め、同時に呼吸を荒らげていく。彼女の声を聴くたびに高鳴る心臓は、狂って壊れているのではないか、と頭の隅で思いながらも。

龍二の手はマリアからの『特別な愛』を求めて、彼女の身を傷つけていた。

――――だけど。


本当は『ずっと一緒に、隣で生きてみたい』――――なんて。

いつかのロイヤルミルクティーより甘すぎる、独り善がりの夢物語。

穢れきった自分の罪過を嘆く優しい彼女に、なにがあろうと決して口にしてはいけない願いごと。叶わないとわかっていても、祈らずにはいられない流れ星。決して求めてはいけない温もり。

その想いは彼のたったひとつにして、最大の秘密ごとだった。



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