第5章 「モデルは戦友、防人乙女の人物デッサン」
美術室に到着した私達は、爽やかな青空を望める窓際の席をキープすると、特別教室特有の背もたれがない椅子に腰掛けるのだった。
後の事を考えると、背もたれがないこの椅子は便利だったね。
「今日の課題は人物デッサンです。全身像でもバストアップでも、好きな方を選んで頂いて構いませんよ。何か、質問のある方はいらっしゃいますか?」
あどけなさの残る美術教師が、教室内をぐるっと見回している。
彼女こそ、河南芸術大学を出て間もない、美術担当の茨木瑞生先生だ。
「茨木先生!今日の課題は鉛筆描きのデッサンとお伺い致しましたが、課題提出の際に定着液は散布致しますの?」
そんな茨木先生に挙手で質問したのは、画商の父と兄を持つ、フレイア・ブリュンヒルデちゃんだった。
「いい質問ですね、ブリュンヒルデさん。確かに定着液を散布すれば、木炭や鉛筆によるデッサンでも、線が剥げ落ちる心配はありませんね。まあ、今回は授業ですので、定着液までは使いませんよ。」
女子大生の面影が多分に残っている美術教師は、嬉しそうな表情を浮かべながらフレイアちゃんの質問に答えるのだった。
熱心な質問をする生徒がいると、先生としても教え甲斐があるよね。
「もしかしたらブリュンヒルデさんは、定着液を使いたいのですか?」
「いいえ、定着液を吹き付けないのならば、私としては何かと好都合ですの。実は私、先生から課題をお返し頂いた後に、自宅に持ち帰ってから、油絵の具で肖像画に仕立て上げようと予定しておりまして。」
自信満々なフレイアちゃんの答えを聞いた茨木先生は、感心したように溜め息をつき、続いて満面の笑みを浮かべて拍手を鳴らし始めたの。
「それはいいアイディアですね、ブリュンヒルデさん。完成したら、先生に見せて頂けますか?」
「それは勿論ですわ、是非喜んで。」
年若い美術教師が鳴らし始めた拍手は、いつの間にやら私達にも広がっていて、フレイアちゃんが軽く手を叩いて止めるまで、美術室全体に鳴り響いていたよ。
もしも月曜2限のタイミングに特別教室棟を使っていたクラスがあったら、代表して私が謝っておくよ。
授業中に騒々しくしちゃってゴメンね。
特に音楽の授業を受けていたクラスはね。
「全体の大まかなデッサンは、出来るだけ早目に仕上げるからね。疲れたら英里奈ちゃんは遠慮なく動いてくれて大丈夫だよ。」
「お心遣い感謝致します、千里さん。」
デッサン用の鉛筆を手にした私の発言は、モデルを担当する英里奈ちゃんを気遣っての物だけど、これがあまり意味のない社交辞令だという事は、私自身が自覚している。
私達特命遊撃士は、あらゆる事態を想定して様々な訓練を受けている。
その中には、ターゲットを暗殺するチャンスを待つために、狭い空間で長時間微動だにしないでいる訓練だってあるんだ。
絵のモデルのための僅かな間だけ静止するなんて、朝飯前だよ。
きっと英里奈ちゃんだって、私の気遣いが社交辞令だという事は百も承知の上だろうね。その上で答えてくれるんだから、友達ってありがたいよね。
さて、まずは大まかに全体を捉えないとね。
デッサンの構図を決めようとした私が鉛筆をかざした先では、椅子に腰掛けた英里奈ちゃんが、膝の上で上品に手を重ねていた。
普段の内気で気弱な振る舞いで忘れがちだけど、こうして物静かに座っているのを見ると、英里奈ちゃんは名家の御嬢様なんだなと改めて実感するね。
幼い美貌に湛えた微笑みを見ると、普段の気弱さが上品な慎ましさとして現れているし、腰まで伸びる癖の無い茶髪も、日頃の手入れが実を結んで、流れるように美しいね。
膝の上で重ねられた両手も、象牙細工のように白くて華奢で、レーザーランスを握り締めて吸血チュパカブラの腕を粉砕したとは、とても思えないよ。
構図を確認したら大体のアタリをつけて、それに沿って全体の輪郭を描いて。
間違えた所は、練り消しゴムを押し付けて修正して。
細部や陰影を描き足すのは、まだまだ先かな。
「ふう…」
どうにか大まかな全体像を形にした私は、軽く溜め息をついた。
集中していて精神的に疲れたというのもあるかも知れないけれども、プレッシャーの方が大きいのかもね。
何しろ、下手っぴな出来の課題を提出しちゃったら、せっかくモデルを担当してくれた英里奈ちゃんに申し訳が立たないからね。
「プッ…!」
画用紙の中で座っている英里奈ちゃんのデッサンを見て、私は思わず吹き出しちゃったんだ。
遊撃服には刺繍や飾緒はおろか、影さえも書き込まれていないし、パーツが何もない顔なんて、まるで福笑いの台紙か、妖怪のっぺらぼうだよ。
さっきは「大まかな全体像」と言ったけれど、ラフスケッチと呼ぶのもおこがましい進捗率だね。
「大丈夫ですか、千里さん…お疲れでしたら、少し休まれては…」
「ありがとう。じゃあ、少しだけ…」
英里奈ちゃんのお言葉に甘えて、私は気分転換代わりに美術室の中を見渡した。
ここでは、青い特命機動隊の制服と、真っ白な遊撃服が圧倒的な多数派だね。
一般生徒と同じデザインの赤いブレザーなんて、葵ちゃんとフレイアちゃんを含めて数人しかいないよ。
「葵さん、もう少し口角を上げて頂けませんこと?」
「こんな感じかな?フレイアちゃん…」
自信満々に大口を叩いていただけあって、フレイアちゃんのデッサンは本当によく描けているね。
モデルを担当している葵ちゃんは、普段は能天気でホワホワした子なんだけど、画用紙の中で澄ましている葵ちゃんには、気品すら感じられるよ。
このまま定着液を吹き付けても、充分に完成品と呼べそうだね。
でも、フレイアちゃんは多分そうしないだろうな。
美術の先生から採点後に返して貰ったら、油絵の具で彩色してキャンバスに貼り付けて額装するんだろうね。
サインも入れてね。
「もう少し首を反らせた方がいいのかな、マリナちゃん?」
「そのままで大丈夫だと思うよ、お京。そもそも何だよ、そのポーズ…」
モデル役の子は、大体が椅子に腰掛けたポーズを取っていたけれど、京花ちゃんは妙に気合いが入っていたんだよね。
左足をピンと伸ばし、曲げた右足を抱えたポーズを取って、静物画用のシーツを敷いた机の上に乗っている。
こういうコケティッシュなポーズって、裸婦画とかにありそうだよね。
マリナちゃんが呆れ顔をするのも無理もないよね。
だけど、こうして横を向いた京花ちゃんは、うなじと首筋が強調されていて、意外な程に色っぽいね。
左肩に垂れ下がるサイドテールも、アンニュイな感じが出ているな。
案外マリナちゃんは、悪友である京花ちゃんが不意打ち気味に見せた、思ってもみなかった意外な色香に、内心焦っているのかもね。
こうして見回してみると、「人物デッサン」と一口に言っても、それぞれの個性が出てきて面白いよね。
交代したら、私はどんなポーズを取ろうかな。
校庭の方へと視線を移すと、合同で体育の授業を受けているA組とB組の一般生徒が、ソフトボールで試合をしている最中だった。
今はB組が攻撃側で、ヒットを打った女子生徒が一塁へ滑り込みを決めている。
あれ…滑り込みを決めた女子生徒が蹲っているよ。
どうやら、滑り込みには成功したものの、その代わりにザックリと足を擦りむいてしまったみたい。
膝から出血しているね。
体育科や運動部でもないのに、そんな無茶をするからだよ。
そう言えば、私が最後に受けた体育の授業って、何をやったのかな?
何しろ、小学5年生の3学期の話だから、覚えていないや…