お酒の魔力
仁伎くん曰く、今日は唐西先生と侑紀ちゃんを接触させるチャンスらしい。
わたしは乗り気じゃないけれど。
◯
宣戦布告してきた奏さんが何も問題を起こさないまま、暦は十一月になり、今日は一年に二回ある瀧田音楽教室主催の演奏発表会の日だった。つまり秋のコンサートだ。
わたしの生徒からは吉成さんと奏さんが参加した(侑紀ちゃんはレッスンを初めたばかりなので練習日数が足りず、仁伎くんはピアノに触る気すらない)。とくに奏さんは今日の十数名の生徒のトリを務め、ショパンの『幻想即興曲』を弾き切った。やはり圧巻の演奏で、この日一番の拍手が割れんばかりに会場に鳴り響いた。
そして今は、居酒屋で発表会後の打ち上げをやっている。参加者は瀧田音楽教室の教師と生徒たちだ。
「僕の演奏、どうでした? 聞き惚れてくださいましたか?」
ワイン風カクテルを片手に、わたしの落ち着く角のテーブルにやって来て話しかけてきたのは、見目麗しい自称悪魔。う、隣に座られてしまった。
「僕は果たして『ピアノの詩人』になりきれたかどうか......」
「八代さん、とてもお上手でした! 私、感激のあまり涙がこみあげてきてしまって......。まさにピアノで美しい詩を奏でているようでしたわ!」
「ご婦人、僕にとって最上級の褒め言葉をありがとうございます」
わたしの左隣にいるのは吉成さんだ。わたしを挟んで会話が始まってしまった。
そしてわたしの真正面に座る人物は、奏さんに睨みをきかせている仁伎くんだ。
「仁伎、カルピスのおかわりを頼みましょうか?」
隣の永枝さんが甲斐甲斐しく仁伎くんの世話を焼いている。
他のテーブルも、お酒の席なのでとても賑わっている。一番奥のテーブルに唐西先生はいた。彼と同じテーブルの端にちょこんと座り、侑紀ちゃんはオレンジジュースを啜っている。その視線は、同僚の先生と会話する唐西先生に一心に向かっていた。
「今日はとても楽しい席ですね。並木先生も、美酒を試してみませんか?僕のを一口、どうぞ」
烏龍茶を飲んでいたわたしに奏さんから赤い液体が差し出された。ーー自慢じゃないが、わたしはお酒がとても弱い。飲んだら大抵記憶が飛ぶ。
「とても美味ですから、ほら」
ーーだけど、一口だけならほろ酔い気分になれるかも。
「じゃあ、いただきます」
ほんの一口、味見を、と思ったのだがーー。
奏さんにわたしが今まさに飲んでいるグラスをゆっくりと傾けられた。飲まないとこぼれちゃう......!
気づくと、わたしは残りのカクテルをすべて飲み干していた。
ーー悪魔にしてやられた。
「いい飲みっぷりね〜!」
吉成さんが手を叩く。悪魔はグラスごとわたしの右手を両手で包みこんだ。
「僕のカクテルを必死に飲み干す先生の顔は、そそりますね」
「イヤだ! 八代さん並木先生をそんな目で見てるの!?」
うぅ。悪魔め、なんてやつだ。
お酒がどんどん回っていくのが分かる。
わたしが最後に覚えているのは、目の前の席の心配そうなブルーの瞳。
◯
「わたしぃ、酔ってないれふよぉ〜!だいじょぶだいじょぶ!」
どこが酔ってないだ。赤ら顔して千鳥足じゃねぇか。
「お酒に弱いことはデータにありましたけれど、これほどとは......」
永枝は変なところで感心している。
オレと永枝に両脇を支えられて夜道を歩く先生の足取りはふらついている。
先ほど打ち上げはお開きとなり、オレは全員が店の外で解散しているとき、唐西常人と藤嶋侑紀がイイカンジになっているのに気がついた。
先生を放置して二人を少し尾行すると、ほの暗い小道に入って皆の目が無くなってから、二人が手を繋いで帰るのを目撃した。
キューピッドとしての仕事は何もしていなかったのだが......(オレは打ち上げの途中から、酔い潰れた先生の介抱で忙しかったから)。
今晩はお役御免だったようだ。
「酒はどこだぁ〜!もっといい酒もってこーい!」
先生は相変わらず、我をなくしている......。先生を無事に家まで送り届けなくては。
永枝が上手くタクシーを拾ってくれた。先生をタクシーの後部座席に押し込んでから、オレも乗り込む。
「オレが送るから、永枝は先帰ってろ」
「......ふ〜ん」
糸目と口の端をニヤつかせて、永枝はネオンサインの光る窓の外で手を振った。
ーー何が「ふ〜ん」だ。イライラする。
行き先を運転手に伝えると(先生のアパートの住所はもちろん知っている)、タクシーは夜道をゆっくりと走り出した。
「にきく〜ん、かわいいねぇ、かわいいねぇ〜」
二人きりの空間に緊張しはじめていたとき(正確には運転手含め三人だが)、突如先生はオレの頭を撫で回し始めた。髪がぐしゃぐしゃだ。
酔っ払いに絡まれているだけのはずなのに、心臓がドキドキして仕方ない。顔に熱が集中していくのが分かる。
「にきくんはワルぶってるけどホントはいい子でしょお〜?先生わかってるんだから!」
今度は頬を撫で回される。酔っ払っている先生の手は熱を帯びていた。顔も近すぎる......!
し、心臓がいてぇ......。
オレは過ぎ行く街灯の数を必死で数えて、何とかこの状況に耐える。
しばらくすると、触られ攻撃が止んだ。
「運転手さぁん、わたしぃ、いますごいいい気分なんですよぉ〜!お酒いっぱい飲んじゃって!」
今度は運転手に狙いを定めた!
打ち上げのときも、奏や永枝や吉成バーチャンから先生を引き剥がすのが大変だったのだ。奏は乗り気だし、サイアクだった。
「先生、誰かれ構わず絡むのやめろ」
オレはバーチャンにさえ嫉妬する心の狭さに自分が嫌になったばかりだ。
「じゃあ、先生とおはなししよう?キューピッドのにきくんはぁ、すきなひといるの?」
ーーまただ。無自覚はオレを傷つける。
先生は、オレのことを覚えてさえいない。七年前のことだから仕方ないのかもしれないがーー。
オレは未だに先生と母さんとの日々を夢に見るくらいなのに。結婚の約束だってしたんだぞ。しかもプロポーズしたのは先生のほうからじゃねぇか。先生と一生連れ添うつもりでいるのはオレだけか。
「......いる」
「ほんと!?だれだれ?おなじガッコーの子?」
「相談乗ってくれんの?先生」
「れんあいそうだん!?のるのる!」
先生はお酒を飲むと記憶が飛ぶらしい。
言ってしまえ。ずっと胸の内に秘めて、悶々と悩んでいることを。
「オレの好きな相手は、オレのこと好きでもなければ覚えてもいないんだ」
「そうなのかぁ〜」
「......七年も片想いしてるんだ。やっと再会できたのに、相手は覚えてもいなくて、もうどうしたらいいのか分からなくなった。好きでいることがいい加減つらいから、その人のこと諦めようかな」
自分で言ってから女々しさに気づいた。こんなのオレじゃない。情けねえ。
こんなはずじゃなかった。オレのこと、絶対覚えてると思ってた。心も体も成長したオレを見て、「男らしくなったね」とか言ってくれたり、今はもういない母さんと三人で過ごしたあの病室での最後の日々を、一緒に懐かしむことができるとーー。
「それは、『フォローマイハート』だね」
「......え?」
その瞬間、オレの幼い頃の記憶が走馬灯のように頭の中で駆け巡った。
豪快な笑い声、腕のなかに抱かれたときのぬくもり、いつも纏っていたレモングラスの香り、そして死ぬ数日前にただ一度だけ見せた、あのくしゃくしゃの泣き顔。
「これはわたしのぉ、座右の銘なんだ。受け売りなんだけど、だいじな言葉なの。むかし、キレーな外人の女のひとが教えてくれてね」
ーーそれは、小さなオレの世界で一番大切だったひと。誰よりも尊敬しているひと。誰よりも美しいひと。オレがキューピッドになる理由。オレのたった一人の母さん。
“Follow my heart”は、母さんがよく口にしていた言葉だ。自分がどうするべきか分からなくなったときに、道しるべになる言葉だと。
「『自分の心に従え』ってイミなんだって。......つまり言いたいことはねぇ、にきくんがもうつらすぎて、その人のこと忘れたいって思ってるなら、忘れたほうがいいよ」
そう、問題の答えは単純だ。
「でも、その人の姿見れただけで嬉しいとか、話せただけで満たされるとか、触れたとき頭がスパークすることとか、あるじゃない?片想いはつらいし苦しいんだけど、そういう瞬間が忘れられなくて......。やっぱり好きだ!っていう気持ちのほうが強いなら、その子に頑張ってアタックしたほうがいいと思うな」
病室で初めて出会ったときに先生がくれた、ひとかけらのチョコチップクッキー。母さんの診療中に読み聞かせてくれた、続きを楽しみにしていた『飛ぶ教室』。
フレームの無い眼鏡の奥の、一重まぶたの下にはーー。
「自分の心に素直になって決断したことは、あとになって後悔しないんだって。結果はどうであれ、ぜんぶいい思い出に変わるんだって。......まあ、受け売りなんだけどね。あのひとなら、きっとそう言うと思う......」
その涙で濡れた美しい瞳と、タクシーの窓の外の過ぎゆく夜景は、オレが年を取ってジーチャンになっても心にずっと残っているだろうと予感させるものだった。