天使降臨
殺風景なわたしのレッスンルームにキャラの濃い二人が突如現れた。彼らはわたしに話があるらしいが、椅子が足りず、永枝さんには仁伎くんの隣に腰かけてもらっている。ピアノ椅子は二人座るには少し窮屈そうで、彼らは密着している。そしてわたしの顔に何か付いているのかと思うほど金髪ヤンキー少年の視線を感じている。決して目を合わせないようにしているが。
この雰囲気、シュールだ。
それより、先程の永枝さんの発言が気になる。
「わたしも侑紀ちゃんとは昨日が初対面なんですが......。彼女のことでお話って、一体どんなことでしょう」
永枝さんの表情が神妙なものに変わる。
「では、順を追ってご説明しましょう。私と仁伎は、『或る組織』の一員でして、組織の上司から『或るミッション』を与えられてここに参りました。その『或るミッション』のターゲットが、藤嶋侑紀なのですが......」
......何を言っているのやらさっぱり分からない。『或る組織』『或るミッション』と言うばかりで中身が無いからだ。
そんなわたしの顔を見て、永枝さんは困ったように眉を下げた。
「具体的な話が何もできていないですね。真実を話せば、十和子先生は驚かれると思いまして。我々の組織は一般の人には知られてはならない秘密を抱えているのです。ご家族にも、ご友人にもくれぐれも口外しないようにしていただきたいのですが........」
ーー面倒事の匂いがしてきたぞ。
「わたしには話しづらいことでしたら、その組織の秘密というものに関しては教えていただかなくて結構で「却下。永枝、いいから話せ」
瞬殺だ......。
「話の前置きも大事なのですよ、仁伎。ではお話ししますが......」
......一体何を聞かされるんだ。何だか緊張してきた。
「私は、私の上司である神様から遣わされた天使なのです」
教室の天井を指差し、のたまった。
「天界には様々な部署がありますが、我々は『愛』の課に属しております。『愛』の課に所属する職員は色々いますが我々は『キューピッド』と呼称されます。簡単に説明いたしますと、キューピッドは地上の人間たちの縁結びをするのが仕事なのです。ちなみにニキはまだ修行中の身で、半分人間なのですが......。それで今回神様から与えられたミッションというのが、この音楽教室であなたの生徒になった藤嶋侑紀の恋を成就させるという内容になっているのです」
ーーふぁ??
「あなたに我々の協力者になっていただきたい。我々の仕事の補助をお願いしたい次第なのです。......金銭的な報酬はございませんが、徳は積まれます。つまり、死後は天上にゆくことのできる確率が......」
ーーとんでもないのに絡まれた。
あー、聞こえない聞こえない。右から左に流そう。今日のことは忘れよう。
今からいつもの日常を取り戻すのだ。仕事を早く終わらせて帰宅して、テレビを見ながら夕飯を食べて、シャワーを浴びて、ソファで少しゆっくりして、明日のレッスンの準備をして、
「............が、唐西常人先生なのですが、このお二方の、」
........ん?
「いま何て?」
「ですから、藤嶋侑紀が恋心を抱いている相手が、こちらの音楽教室の唐西常人先生なのです。なのでこのお二方の縁結びを「わたし、お断りします」
空気が固まるのを感じた。
それでも言葉を続ける。
「唐西先生には奥様がいらっしゃるので」
「......存じています。ですが我々は倫理よりも我々のターゲットの想いを尊重することに決めました。それに奥様の唐西先生に対する『愛』を今はもう我々は認識することができなくなっているのです。......この二人のエンディングはどうなるかは分かりかねますが、」
「天使なのに不貞を推奨するんですか?」
オカルトを信じてはいないけれど、利用させてもらう。
そして、拒否の言葉を。
「申し訳ないですが、わたしはあなたたちに協力できません」
「......、そうですか。我々は強要は致しません」
永枝さんはあっさりと身を引いた。
この話はもう終わりにしよう。
「あなたたちの秘密は誰にも口外しませんから安心してください。......じゃあ、仁伎くんのお試しレッスンを始めたいので席を外していただいてよろしいですか?」
教室に残されたのは、わたしから視線を逸らし白鍵を睨むブロンドの髪の少年。
ーーわたしって卑怯だ。
道徳を盾に使って、いいひとぶった。
不倫がどうのなんて、ホントは別にどうだっていいのに。
ただ、今までのわたしの苦悩をムダにしたくないだけだ。
わたしは自分の気持ちにフタをしてきた。本心に気づかないふりをして、気持ちを殺してきた。
わたしは善人じゃない。唐西先生に奥さんがいることを知りながら、彼に恋をしているだけ。
「仁伎くん、レッスンを始めましょう。とりあえずまずはバイエルを開いてください」
「......。」
仁伎くんは動かない。
わたしはこの部屋の空気と、自分の気分を変えたくなって、仁伎くんの隣に腰かけた。そして、鍵盤に手をかざした。
ひとつ、深呼吸すると左手がひとりでに唄いだす。
久石譲の『Summer』。北野武が監督をした映画『菊次郎の夏』のテーマ曲。この映画を観たことはないけれど、わたしはこの曲をあらゆる音楽のなかでもっとも愛している。
この曲が表現しているのは、四季としての、季節としての「夏」ではない。
この曲が表現しているのは、「死」「絶望」「闇」「寒さ」の対極にあるもの。夏という言葉がイメージさせるような、「生」「希望」「光」「あたたかさ」、そのものだ。
もう終盤というところで、黙りこんでいた仁伎くんが口を開いた。
「......先生って、ピアノがほんとに好きなんだな」
「この子はわたしのパートナーっていうか、恋人みたいなものなんだ」
現実逃避かもしれない。本当の恋人になってほしいひとは、絶対に手の届かないひとだから。




