平凡な並木十和子の日常
「並木先生。あなた、恋をしてるのね」
防音設備のととのった個室に入った途端、七十六才の女性が好奇心で目をキラキラ輝かせてそう言った。
ーーまだピアノに触れてもいないのに、何だか話が長くなりそうだ。
「廊下で立ち話してるあなたたちを見て、わたし、ビビッときちゃったのよ」
このおばあちゃん、吉成和子さんはとても話好きだ。ピアノを習いにというよりは、会話を楽しむためにこの音楽教室に通っている。
わたしのたった一人の貴重な生徒さんだ。
「私ね、昔、区の結婚相談員をしてたのよ。それで恋愛ごとには聡いの!」
その話は耳にタコ。
「......それじゃあ、吉成さんはわたしが誰を好きだと?」
「んもう、すっとぼけちゃって! ......お相手は瀧田音楽教室のナンバーワン人気教師、唐西常人先生でしょう!」
ーーご高齢なのに、これほど元気なのはいいことだ。
「......わたし、もう28歳だし。唐西先生は大学出たばかりの22歳ですよ?それは吉成さんの勘違いです」
「あら、そう。......じゃあ、自覚のない恋なのね」
ふふ、それも面白いわね、と呟いて笑む彼女。
「じゃあ、彼を好きだって気づいたら、私を頼ってちょうだい。恋のキューピッドになってあげます!」
「だから別に好きじゃないですって......」
彼女は、長年勤めた結婚相談員の仕事を退職してからというもの、毎日毎日、ヒマを持て余しているといつも話している。
「そんなこと言っちゃって!だって、あなたが唐西先生と話しているときの目といったらね、......」
今日もピアノに触るのはレッスン終了間際になりそうだ。
まあ、吉成さんが楽しそうだからそれでいいか。
◯
わたしの仕事は、上司のお小言で終わる。今日も室長に捕まってしまった。
「並木先生に生徒さんが一人しかいないのは、正直言って問題ですよ」
「他の先生方と比べて人気が無いのは仕方ないとして、勧誘活動などしてみたらどうです?」
「佐久間さんが辞めてから、もう三ヶ月経ちますよね?そろそろ新しい生徒さんを......」
「とにかく、生徒さんをもっと増やしてちょうだい!」
もうウンザリだ。わたしは室長のお小言に「はい」「そうですね」「すみません」「分かりました」と返事することしかできない。
この内気な性格じゃ、先生なんて向いていないのかもしれない。
◯
室長からやっと解放された。
ーーわたしはこの仕事が好きだ。大好きなピアノに関わることのできるこの仕事が。吉成おばあちゃんとのレッスンも、結構楽しんでやっている。もうすぐ彼女も『エリーゼのために』が弾けるようになるのに。
現状は変わらない。このまま生徒が増えなければ、わたしはクビだろう。
勧誘活動って、具体的に何をすればいいんだろう.......。
沈んだ気持ちで、デスクにて帰宅する準備をしていると。
「さっきの、あんまり気にしないほうがいいですよ」
ロビーにいる室長に聞こえないようにか、隣で囁くような声がした。
「唐西先生」
いまレッスンを終えたのか、彼は楽譜を数冊抱えている。グレーのパーカーに下はデニムという、親近感の湧くラフな格好。彼の定番のスタイルだ。近視のため、黒縁の眼鏡をかけている。もう夕方だというのに頭にぴょこんと寝癖がついている。性格はとても温和。
唐西先生はわたしと違って、まだまだ今日の仕事は終わらないのだ。彼は次のレッスンの用意をしながら囁いた。
「室長、並木先生がお気に入りみたいですね」
からかうように笑う横顔。
ーー今日も、彼の笑顔を拝めた。
「ごめんなさい、こんなこと言って。......大丈夫、この状況それほど続かないですよ。並木先生ならすぐ生徒さん増えますから」
「あ、ありがとうございます......」
デスクに置いてあったツェルニーを取って、生徒さんの待つ教室へと去っていった。
ーー今日、吉成さんはわたしの恋のキューピッドになるとか言っていたけど。
彼女は唐西先生が既婚者だということを知らないのだろう。