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「詩子……」
1人、部屋に取り残される龍司は愕然と佇む。
飛び出して行った詩子の最後の言葉に 全身の力が抜ける様だ。
『もうヤダ!! ……こんな生活もう嫌だ!!』
「そぉ、だよ、な……」
2人が寝食を共にする様になって、初めの内は話し合いながらの逃亡生活であったが、近頃は龍司が全てを独断で決めて詩子に押し付けている。
詩子は日がな1日、狭い襤褸アパートの一室に閉じ込められ、外に出る事も許されず、ただ与えられる物だけに留まる生活。
本当なら、オシャレをして買い物にでも出かけたいだろう。
否、そんな贅沢は出来なくとも、近所に散歩に出るくらいはあっても良かったか知れない。その為に、人の少ない過疎町を選んだのだ。
ソレでなくとも、詩子はサトリ。
危険が近づけば、龍司よりも ずっと早くに察知できる。
こんな押し付けがましい生活では本末転倒であったと、今更ながらに猛省する。
「そぉいや、もう1度 海が見たいって言ってたっけな……
こんなに近くにいて、ソレすら連れてってやって無かった……」
海の側にいて、海の音だけに耳を済ませた詩子の生活が どんなものだったのか、
龍司は玄関に残された詩子の小さな靴を見つめる。
裸足で外に飛び出す程、詩子は心を痛めていたのだろう。
{嫌だった……
詩子を誰にも見せたくなかった。詩子を俺だけのものにしておきたかった。
色んなモンを見せたら、色んなヤツに会わせたら、詩子が俺から離れていく……
だって、俺は汚ねぇ喰人鬼だ。
キレイな詩子は、いつか俺を嫌って俺を軽蔑して俺を恐れる……
いつか喰われるんじゃねぇかと、俺から逃げる……}
「詩子、」
{そんな事はしねぇ! 絶対に絶対に! 俺を受け止めてくれた詩子だけは絶対に!!}
龍司は詩子の靴を手に後を追う。
*
「――オイ。こんな時間に何してんだ、オメェさんは」
「!!」
夜空の黒を背負ってうねる波を眺める矮小の背に、老人の嗄れた声が投げかけられる。
肩を震わせ、恐る恐る振り返れば、顔に懐中電灯を向けられる。
「ぅぅ、」
「……ん? オメェさん、妹か? 龍司の」
「!」
懐中電灯の明かりが下ろされると、詩子は身構えていた腕を下ろす。
然し、目に焼きついた光の残像が邪魔をして、老人の顔が良く見えない。
「ワシじゃぁ、ワシ。漁業組合の会長やっとるジジィだ。
忘れたか? 1度、会っとるだろ」
「ぁ、ああ、会長サン……」
初めて海町にやって来た日、龍司と共に この漁港を訪れている。
その時、顔を合わせた事を思い出し、詩子は慌てて頭を下げる。
「こ、今晩和、」
「今晩和じゃねぇ。今 何時だと思っとるか。龍司はどぉした?」
「……、」
「1人か? 1人で来たんか?」
「……はぃ、」
「馬鹿な事ぉ……
オメェさん、病気だってじゃねぇか! 家で寝てなきゃ駄目だろぉが!」
「……、」
ソレは あくまで設定の、至って健康優良児。
詩子はスッカリ肩を竦ませ、項垂れる。
普段から怒られ慣れてないのか、詩子が余りにも怯えるから、どうにもバツか悪くなる会長は困惑に表情を歪ませる。
「……こっちゃ来い」
「はぃ、」
手招きされた先には、草臥れた木箱の腰かけが1つ。
会長はそこに詩子を座らせ、脇の倉庫の中から七輪と網を引っ張り出すと火を点ける。
「今、獲って来たイカぁ食わせてやる」
「イカ……」
「うめぇぞ」
直ぐ側の船からイカを一杯ばかり絞めて戻れば、焼き網の上に並べる。
「本当は生が美味いんだが、オメェさん、そりゃ苦手だって龍司から聞いとるから」
「……、」
「食ったら送ってやるがぁ……
龍司は どぉしてる? 兄チャンが寝てるトコ、目ぇ盗んで出て来たか?」
「……、」
何をどう答えれば良いのか分からず、詩子は項垂れるばかりだ。