少女と刀とトイレ掃除
鳥の囀りが心地よく響く朝。
おはようの挨拶でもしているみたいに、あちらこちらで小鳥たちが鳴き声を発している。
そんな中、御言は気分をひたすら沈めていつもの通学路を歩いていた。
彼が落ち込んでいる原因は外出する前に見ていたニュース番組。
入院中の学生──越前月光が失踪し、その捜索を続けているという報道だが、御言からしてみれば心苦しい限りである。
本当はすでに死亡しており、悪魔に転生している……
御言はその事実を三日経ったいまも、誰にも打ち明けていない。越前と関係が深いであろうナギハヤにすら伝えていないのだ。
そのことが相当心の負担になっているらしく、御言の背中はどんよりと曲がり、まるで見えない重石でも乗せられているかのようで、
「学校行くの気まずすぎる」
ついにはこんな弱音まで吐く始末。
だが、ある人物を目撃したことで彼の心境は大きく変わる。
光沢のない黒髪をした少女が、落とし物を探しているわけでもなしに黙って地面を凝視し続けており、不審に思った御言は立ち止まってその少女を観察し始めた。
髪型は毛先がクルンと跳ねたセミショートを、鈴のついたヘアゴムでツーサイドアップにまとめているちょっとだけメルヘンな髪型。
服装は比奈と同じタイプの桃色のセーラー服なので、月見ヶ丘高校の生徒であることが窺えるが、インナーにタートルネックのセーターを着ていたり、スカートが異様に短かったり、そしてなにより大きな黒いヘッドホンを頭に装着していたり、明らかに校則違反にしか思えないようなアレンジが加えられている。
その中でも一番特徴的なのは大きな黒いヘッドホンだろう。
音楽を聞きながら登校するにしても、イヤホンを使わずにわざわざヘッドホンを使うメリットはないに等しい。そのような目立つものを身に着けるなど、よほどの不良か変わり者である。
少女はしばらく地面を凝視し続け、その背後から迫る四トントラックには気づいていない様子だった。
このままでは少女が轢かれてしまう可能性があり、御言はトラックの存在を知らせるために少女に向かって叫んだ。
「車来てるぞ!」
だが少女は動かない。
「おい、聞こえて……」
注意を繰り返そうとするが、その前に走りだした。
ヘッドホンのせいで聞こえていないので、いくら叫んでも無駄であると、御言は叫ぶのをやめて少女を車線からどける方針に切り替えた。
たとえ自分が少女の身代わりとなり重症を負おうとも、またはトラックに轢かれてそのまま異世界転生することになろうとも構わない。そんな覚悟で少女を助けに向かった。
だが、現実はアニメや漫画のようなドラマチックな展開にはならない。
元々御言は少女に気づかれぬよう遠くから様子を窺っていたというのもあり、少女のもとにたどり着くのは御言よりもトラックのほうが断然早かった。
トラックは御言が見ている前で大音量のクラクションを鳴らしながら停車。御言はその様子を見ていることしか……
少女がトラックに押し倒され、その華奢な肉体の上を、可愛らしい顔の上をトラックの前輪部分が押し潰すのをただ傍観するしかなかった。
トラックの運転手は血相を変えて車外に飛び出し、少女の安否を確認する。
やはりというべきか、たちまち悲鳴を上げ、喚き散らしながら錯乱した様子で車内に戻っていく。
そしてその場から逃げるようにトラックを急発進させていった。
数秒後、そこには呆然と立ちすくむ御言と、何食わぬ顔で五体満足のピンピンした状態で凝然と立つ少女だけが残された。
御言は目を見開き、幽霊でも見たのかというくらい精神を取り乱し、少女に接近しては体の容態を隅から隅まで確認する。
「お前、大丈夫なのか? さっきトラックに轢かれていたよな」
そう聞かれた少女はけろっとした顔で元気にラジオ体操のような動きで腕や足を動かして見せ、
「ん? だいじょぶだいじょぶ、痛かったけどね」
「いやいやいやいや、痛いで済む問題じゃないって、普通即死だから」
完全に平静さを失う御言に向かって、少女はなぜか嬉しそうに胸を張る。
「ふふふ、ほかの人は死ぬかもしれないけども、私は特別体が丈夫だからね。なにも問題はないのだよ」
確かに少女の言うように怪我という怪我が一つもない。学生服は少し汚れているが体は擦り傷一つついておらず、頭に着けたヘッドホンすら壊れていない。
もしかしたら彼女はなにかしらの超能力を有し、それによって事故のダメージを防いだのかもしれないと御言は一つの答えを導き出す。
とはいえ、いくら少女が無事でもトラックの運転手は迷惑この上ないだろう。
いまもなお地面を凝視する少女に対し御言は眉を吊り上げて叱咤する。
「お前が大丈夫でも、見てるほうは大丈夫じゃないんだよ! 大体、お前さっきからなにを見ているんだ?」
「魔法陣だよ? あっちこっちにあるけど、一体どんな魔法に使われるのかなこれ」
躍動するような声音で言い、子供のように目を輝かせる少女。
だが、彼女の目線の先には魔法陣と思えるものはなく、無機質な鉄の蓋しかない。
確かに星型の図形が使われていたり記号のような装飾があしらわれているが、御言にとってはマンホールの蓋でしかなく、
「それ、ただの蓋だから……」
力の抜けた声で魔法陣の正体を教えてあげた。
少女は大きく首を傾げると、
「フタって、なんのフタなの? 悪魔でも封印してるの?」
平然とそんなことを聞いてくる。
月見ヶ丘の住人は記憶喪失ではあるものの、消えたのはエピソードに関する記憶だけであり、物の名称や使い方などはみんな覚えているはずなのだが、少女は一般知識すらまるで理解していない。
御言はできる限り懇切丁寧にそれが下水道の出入り口の蓋であることを伝えた。それはもう小学生でも理解できるほど丁寧に。
説明が終わると少女は、
「なるほどー、そうだったんだ……ところでゲスイドーってなに?」
純粋で無垢な瞳を御言に向け、興味津々な表情で尋ねた。
次に御言は下水道についても簡潔に説明し、それがどのような役割を持ち、人々の生活にどのような影響を与えているかまでを説明した。
少女はピョンピョンと飛び跳ね、喜びを全身で表すと、
「すごい、キミって物知りなんだね」
と、嬉しそうに笑顔を見せ……
「じゃあ、アレは?」
今度はなんの変哲もないただの電柱を指差しては、期待に満ちた眼差しを御言に向け、解説をせがむ。
説明をしては、新たな疑問を投げかけられる……こんなやり取りがあと数回は続いたという。
二十分後、学校では朝のホームルームが始まっていたが、そこに御言の姿はない。
音羽は空席となった御言の机を寂しそうに眺め、それから黒板の前に立っていた転校生の少女に視線を移す。
転校生は日本人には類稀な容姿を持つ美少女だった。
赤みがかった長い髪に同じく赤みがかった瞳、ハーフっぽい整った顔立ちをしていて背丈も高め。高校生にしては胸も大きく膨んでおり、紺色のブレザーから白いシャツが見え隠れするほど胸元が張っている。
おまけに直立不動で凛とした雰囲気で、男女関係なく誰をも虜にしそうな勢いだ。
全員が転校生の紹介に期待する中、不意に入り口のドアがスライドする。
それまで転校生歓迎ムードだった空気はぶった切られ、全員がドアのほうへと目を向けた。
そしてみんなの視線を浴びながら月読御言は教室の中へ。
先生から軽く叱責され、生徒たちからは軽くブーイングを受けながら、御言は自分の席に座り……
深いため息をつく。
その隣で音羽は落ち込む御言をどうにか励まそうと話しかける。
「どうしたの? もしかして寝坊?」
「いや、来る途中に女の子と喋っていたんだ……」
まるでこの世の終わりが来たみたいな落ち込み方で。なにか事件に巻き込まれたのではないかと音羽は心配になる。
「女の子?」
「ここの生徒なんだけど、黒いヘッドホンを着けたクセ毛のすごい子でさ……」
ふと話している最中に黒板の前に立っている見知らぬ生徒の存在に気づき、急に気が変わったように話題をすり替える。
「ん? ところで黒板の前にいるのは誰だ?」
「気づくの遅いよ。最近噂になってた転校生だよ。例の帰国子女の」
「悪い、いま初めて知った。ていうか帰国子女ってなんだよ。この高校は二十日町にいた学生のために作られた高校だろ? 部外者が転校してくるなんて……」
と、そこで先生にヒソヒソ話をするなと注意されてしまい、二人の会話は中断される。
それから間もなくして転校生の自己紹介が始まった。
転校生の女の子はとても丁寧で気品のある口調、そして可愛らしい声で、
「北条飛鳥と申します。どうぞ皆さんよろしくお願いいたします」
礼儀正しく深々とお辞儀をし、生徒たちにお日様のような笑顔を見せる。
その態度や仕草はまるでお金持ちのお嬢様のようで、そのあまりの上品さに生徒たちは、お花畑のビジョンが見えてしまっていた。
ホームルームが終わったあとは、一時限目まで五分ほどしか時間がないにもかかわらず、飛鳥の周りには女子生徒たちが集まるほど人気を博す。
それ以降の休み時間にも、飛鳥の周りには必ず人集りができていた。
控えめな音羽は近寄ることすらできないまま昼休みを迎え、物欲しそうな顔で遠くから飛鳥を眺めていたのだが、その音羽を廊下からじっと観察する別の女子生徒がいた。
髪の毛の先がクルンと跳ね、鈴のついた髪留めでツーサイドアップにしていて、ポップで可愛らしい見た目をした女の子。
頭には大きめの黒いヘッドホンを着けており、その存在感は異様ともいえる。
視線を感じた音羽はその女子生徒の存在にいち早く気づき、そして御言が遅刻した元凶と同一人物であることも一瞬で見抜いた。
あまりにもまじまじと真顔で睨んでくるものだから、音羽は落ち着くことができず、そわそわとしだす。
一分、二分、と時計の針が進むが、やはりその謎の女子生徒は音羽を睨んだままで……
音羽は廊下に出てからその女子生徒に近づくと、
「なにかご用でしょうか?」
ついに耐えきれず、表情を渋らせながら女子生徒に尋ねた。
本来であれば音羽は笑顔で対応するつもりだった。しかし、顔に出やすい音羽はさも迷惑そうな表情を浮かべてしまっていた。
それを自覚していた音羽は嫌な思いをさせてしまったかもしれないと憂惧するが、ヘッドホンを着けた女子生徒は音羽の顔をジロジロと怪訝そうに観察し、それからすぐにぱあっと明るい笑顔を見せる。
「キミってやっぱり降魔殿の真下で光ってた人だよね?」
音羽は大きく首を傾げた。女子生徒がなにを言っているのかさっぱりわからないからだ。
「多分人違いだと思います……あなたと会うのは今日が初めてだし」
「ううん、絶対そうだよ! 絶対キミだった……ほら、≪境界≫の日」
≪境界≫、それはこの世界で魔術師や超能力者が現れ始めた原因とも言われている現象で、いまは封鎖されてしまった二十日町で起きたものだ。
突如現れた謎の光に町全体が包まれ、その光のせいで町の状況を外から確認することはできず、さらにはバリアのような特性を持ち合わせ、物理的に侵入することすらできなかったという。
まさしく絶対不可侵領域と化した二十日町だったが、その光は人々の期待を裏切るようにほんの数分で消滅した。世界中の学者たちが光の正体を解明してやるぞと腰を上げる余地すらないくらい、あっさりと光は消えたのだ。
そして光が消えたあと、町の住人の記憶までもが消えていた。
誰もその現象の発生直後や光については覚えておらず、光が消えたあとからの記憶しか残っていない。
でも音羽の目の前にいる少女は……
「二十日町を覆った光だよ? あの光ってキミが発生させたものだよね?」
「え?」
音羽はただ呆然とする。そもそも記憶がないのでどう答えようもない。
言葉を失う音羽の前で女子生徒はどこか寂しそうに呟く。
「そうかー、やっぱりみんな、あのあとの記憶しか残ってないんだね……」
その哀愁に満ちた表情には偽りなどなく、音羽にはとても演技をしているようには見えなかった。
もしかしたら≪境界≫の日になにが起きたのかを詳しく知っているのかもしれない。と、むしろ疑うどころか音羽はその少女を信じつつあった。
さらに女子生徒は話を続ける。
「じゃあ、あの日に御言くんが…で……れたのも………………だ…」
が、その声はなぜか音羽の耳に届かない。
それだけではない。周囲の音全てが閉ざされたみたいに音羽の耳に入らなくなる。
さらに、世界から断絶されるように、現実から弾き出されるように、音だけじゃなく映像までもが途切れていく。
『それ以上はダメだよ』
声が響き、それと同時に景色が変わる。
一面に広がる水面と青空、空に浮遊する無数の黒い八面体、そんな光景が音羽の前に広がり、さらに背後にいた少女が語りかけてくる。
『私があなたの代わりに泣くから……だからあなたはずっと笑っててね』
悲しみに満ちた声音に音羽が振り向くと、もう一人の音羽が彼女の目に映る。涙を止めどなく流しながら微笑む自分の姿。
≪境界≫が起きた日の容姿、若干いまの音羽より頭髪の長いもう一人の音羽。
とてもつらそうで、苦しそうで、それでも無理して微笑もうとしている。見ていてこちらがつらくなるようなそんなもう一人の自分の表情が音羽の目に焼きつく。
だが、その姿を確認できたのはほんの一瞬で、言葉を返す暇もなく景色が目まぐるしく変化し、元の世界に引き戻されてしまう。
それから学校の廊下で意識が戻った音羽は……
ガヤガヤと賑わう昼休みの廊下で、校庭から聞こえてくる生徒たちの楽しげなはしゃぎ声を聞きながら、大きな黒いヘッドホンを着けた女子生徒と向かい合っていた。
その女子生徒は首を傾げて音羽に尋ねた。
「あれ? 私なにか言おうと思ってたんだけど……なんだっけ?」
「私に聞かれても……」
音羽は困ったように笑い、それからさっきまでの自分を振り返る。
むしろ彼女も失念していた。
ヘッドホンを着けた少女からなにか大事なことを聞き出すつもりでいたのに、それがなんなのか思い出せずにいた。
しかし、すぐにひらめいたように表情がぱっと明るくなり、
「あ、そうだ。今朝御言くんと会った? えっとね、御言くんって私のクラスメイトの男の子なんだけど。今日遅刻してきちゃって、それで遅刻の理由聞いたらヘッドホン着けた女の子と一緒にいたみたいなこと言ってたから、もしかしてあなたのことかなって思ったんだけど」
音羽はきっとこれを聞こうとしていたのだと、すっきり納得した。
ヘッドホンを着けた少女は大きく頷き、
「御言くんだね! 会ったよ会ったよ。御言くん物知りだよねー。色んなこと教えてもらったよ」
躍動するような口調で言い、それから音羽の手を両手で包むように握る。
「私、天河五十鈴だよ。よかったら友達になろうよ!」
「唐突だね……いいよ、私でよければ」
音羽はちょっぴり迷惑そうに苦笑いしつつも五十鈴の提案を受諾した。
放課後になる頃には二人はすっかり仲良しに……いや、実際には遠慮を知らない五十鈴に対して音羽が受け身になっていただけなのだが。
その日の授業が終わってさあ帰るぞとなったときも、天河五十鈴は二年一組に颯爽と現れた。
「一緒に帰ろー」
音羽の手を握ってブンブンと手を振り回す。
それを隣から見ていた御言が顔を真っ青にする。
「げげ、お前は今朝のマンホール女」
「やーやー、半日ぶりだね。御言くんも一緒に帰る?」
屈託のない笑顔を見せる五十鈴に向かって御言はあからさまに嫌そうに目を細める。
「悪いが俺は遅刻したせいで居残り掃除しなきゃいけないんだ」
「そうかそうか、大変だね」
他人事のように軽く流す五十鈴。
御言は呆れを通り越して怒りを露わにする。
「誰のせいでそうなったと思っているんだ……お前がトラックに轢かれたり、マンホールの蓋を取ったり、電柱によじ登ったりなんてしなければそうはならなかったんだよ!」
「じゃあ私も手伝うよ。こう見えてゴミを集めるのは得意なのだよ」
五十鈴に乗っかるように音羽までも、
「それじゃあ私も。きっと三人でやったら早く終わるだろうし」
だが、御言が掃除する場所は男子トイレだった。さすがにそんな場所を女子に掃除させるわけにもいかず、
「いや、ほら……ズルしてるのが先生にバレたら、もっと罪が重くなるかもしれないだろ? 俺一人でやらないといけない気がするんだ」
そう言って二人の好意を振り払い、一人手荷物もなく教室から出ていく。
音羽はどこか寂しそうに御言の姿が消えるのを見送り、一緒に帰りたい人にことごとく用事が入っていることに不満を感じる。
教室の端には音羽が一緒に下校したいと思っていたもう一人の生徒がいるが、その女子生徒──北条飛鳥の周りにはやはり人集りができており……
『北条さん、一緒に帰りましょう』
『時間があるなら学校の中案内するよ?』
『帰る前にもう少しお話していこうよ』
授業中も才色兼備な雰囲気が漂っていたほど完璧な美少女ゆえに、転校初日から大人気。
礼節もしっかりしており、群がる生徒たちに礼儀正しい口調で返す。
「ごめんなさい。もっとみなさんとお話したいのはもちろんなんだけど、今日は先生からお話があるようなので、またの機会に」
とても残念そうに生徒たちに謝り、手荷物を持たずに教室を出ていった。
時と場所は移って男子トイレ。
やるせなく掃除の準備を進めていた御言。
ほかの生徒たちが部活動に励む中、彼だけは無駄に広いトイレをたった一人で掃除しなければならない。
学校のトイレといってもマンモス校のトイレなので、個室を除いても三十畳ほど、つまり教室並みの広さがある。御言はバケツに水を汲みながらその広大なトイレを見て大きくため息をついた。
しばらく悩み、楽して効率よく床を綺麗にできそうな方法を思いつく。
まず、彼はクレンザーの容器を両手に持って水の入ったバケツの中にクレンザーを絞り出し、バケツの水を白く濁らせる。
そのクレンザー水溶液入りのバケツを床の中央に置いたままトイレの隅へ移動すると、誰にも見られていないことを確認したうえで、
「クレンザー・ハリケーン!」
トイレで一人、即席でつけたダサい技名を叫ぶ。
直後、バケツが弾けるように宙を舞い、中に入っていた溶液が床にぶちまけられた。が、彼が思っていたほど床は濡れず、一部分にのみ白い液体が飛散しただけだった。
空っぽのバケツがコトコトと虚しく音を立てて床に転がる。
「まあ、そうなるよな……」
トイレで一人げんなりと言葉を漏らす。
御言は数日前に悪魔化の力を失い、代わりに風を作りだす力を得た。その力をなんとか日常で役立てられないかと日々考え、その結果現在に至る。
たったいまバケツを吹き飛ばしたのもバケツの内部に突風を発生させたからであるが……
しかし彼はやったあとに気づく。超能力を使うより手でバケツをひっくり返したほうが断然早い。そして最初からホースを使って水を流すべきだったと。
御言は取り越し苦労を悔いながらホースで散水し、床を水浸しにしたところで気合を入れてデッキブラシで磨き始めた。
その矢先だ。
入り口のほうから足音を聞き、振り向きながら忠告する。
「ごめん、いま掃除中だから床が……」
最後まで言いきる前に、視界に入った人物を見て御言は絶句した。
赤みがかった長い髪に同じく赤みがかった瞳、ハーフっぽい整った顔立ちをした背が高めの女の子。
今日転校してきたばかりの北条飛鳥が、あろうことか御言が掃除している最中の男子トイレに入ってきたのだ。
きっと女子トイレと間違えたのだろう。転校初日なら仕方ない。御言はそう思って忠告から指摘へと変える。
「ここ男子トイレだよ。女子トイレは、隣」
飛鳥は特に取り乱すこともなく、まるで人をバカにするような半眼で冷静に言葉を返す。
「そんなの見たらわかるよ」
御言よりも背が高いせいか威圧感すら覚えてしまいそうだが、御言は怯むというよりもその光景を疑っていた。
まるで人が違う。
朝の自己紹介のときも、授業中も、休み時間も、放課後に御言がチラっと見かけたときも、お花畑の似合うお嬢様のような気品のある態度をとっていた。
しかし、いまここにいるのは、どちらかといえば氷の城に住んでそうな女の子だ。
さらに彼女が続ける。
「やっぱりキミが鍵を持ってたんだね」
鍵と言われて普通はなにを思い浮かべるだろうか。御言がその言葉を聞いて思い浮かべたのは金属の鍵ではなく青色の円輪だ。
それは越前が死んだ日、燃えた指輪から出現したリングのこと。
御言がそれを手にするときに頭に響いた儚げな少女の声とその次に自分が発した言葉を咄嗟に想起する。
──お願い、鍵を掴んで──
──鍵を回収しないと──
御言の全身に鳥肌が立つ。北条飛鳥はただの転校生ではない……可能性がある。
まだ確実にそうだと決まったわけではないので、御言は白を切り、
「鍵? 自分ちの鍵しか持ってないけど……」
できる限り自然に首を傾げる。
すると北条飛鳥はむっとした表情に変わり、小さなため息をついて、
「いま誤魔化しても無駄なことくらいわからないの?」
そう言うとスカートの下に手を潜らせ、なにかを取り出した。
一見するとそれは日本刀の柄と鍔。それをあたかも本物の刀でも持っているかのように構えて、
「安心して、別に傷つけるつもりはないから……」
威圧するように御言を睨む。
傷つけるつもりはないと口にしたが、刃のない持ち手だけの刀──もはや刀とも呼べず、ただの棒としか形容できないその物体で人を傷つけることなんてそもそもできやしない。
と思いきや、真っ白な光が持ち手の先端からすうっと伸び、さっきまで武器でもなんでもなかった棒が、一瞬にしてSF映画に登場するような光の剣へと変貌した。
刀身は真っ直ぐで、眩しいほど強い光がその刀から常時放たれている。
飛鳥はその剣──鋼鉄すら軽く切断してしまいそうな見た目をしたレーザーソードを、思いっきり振り上げた。
傷つけるつもりはない。飛鳥は先ほどそう宣言したが、御言は途端に死を覚悟した。
なんとか逃げのびようと彼が考えた策は風を起こして彼女を吹き飛ばすというもの。
吹き飛ばすといっても木端微塵に吹き飛ばすという意味ではなく、あくまでも突風で飛鳥を強引にどかすだけである。
簡単に聞こえるかもしれないが、あまり能力を強めると本当に北条の体が跡形もなく吹き飛ぶかもしれないし、弱すぎるとただ風が吹くだけで無意味となる。
能力の加減がうまくいくかどうか不安が残ったままだが、現状の御言にできるのはその力を使うことだけだった。
「悪いな、正当防衛だ」
瞬間、トイレに風が吹き荒れた。
その風はあまりにも弱々しく、人間一人を吹き飛ばすほどの風圧はなかったが、飛鳥の動きを止めるには十分だったようだ。
彼女のスカートは風で大きくめくれ上がり、白い下着が御言の目に飛び込む。
御言にやらしい考えがあったわけではないが、可愛らしい熊ちゃんのプリントが入っていたため思わず目を奪われていた。
飛鳥は顔を真っ赤に染め、慌てふためきながらめくれ上がったスカートを両手で押さえた。
彼女が手に持っていた光の剣はいまやただの持ち手に戻っており、数秒前までキリっとしていた顔つきは一変し、羞恥の表情に。
ほぼ半泣きとも言える状態で飛鳥が怒声を浴びせる。
「ちょっと、なんのつもり?」
もはや隙だらけとなったこの瞬間を御言は見逃さない。
クレンザーまみれの床をうまく転ばないように駆け、男子トイレの入り口を目指す。
飛鳥はそれを追いかけようと力いっぱい床を蹴るが……
ツルっと足を滑らせ、ひっくり返る卓袱台のような動作で勢いよく転び、濡れた床にお尻を打ちつけ、情けない悲鳴とともに水の弾ける音を響かす。
突然の悲鳴に、御言は一度立ち止まって振り向くが、またも見てはいけない白い布が視界に映る。
再び飛鳥が顔を真っ赤にして羞恥の悲鳴を上げた。
「見るなぁ!」
御言はすぐに視線を逸らし、男子トイレから脱出した。
それから駆け足で屋上に避難した御言は、そのまま帰るべきなのか、それとも誰かに相談するべきなのかでうんと悩む。
彼の考えではこうだ。
そのまま帰った場合、飛鳥は適当に理由をつけて学校側から御言の住所を聞き出し、御言が寝静まった頃に襲いにくる。
後者の場合、アテになる人物が彼にはいないので即却下となった。
結局とるべき行動がわからぬまま屋上で時間を潰していたが……
『わざわざ人気のない場所に逃げ込んでくれるなんて助かるわー』
追跡を振りきったはずの北条飛鳥がいまにも怒りを爆発させそうな剣幕で御言にゆっくりと接近していく。
彼女は片手に光り輝く剣を持ったまま、もう片方の手で自らスカートをまくり上げる。
「それにしても……ここの制服のスカート、丈短すぎじゃない?」
得意げにスカートの中をこれでもかと見せつけてくる。
いつの間に穿いてきたのか、彼女はさっきまで穿いていなかった半ズボンをスカートの中に着用していた。
飛鳥が続ける。
「おかげで酷い目に……さっき傷つけるつもりはないって言ったけど、それも気が変わったわ」
刹那、飛鳥が地面を数回蹴って御言との距離を一気に詰め、女の子の細腕からは考えられない重い一撃が御言の腹部を襲う。
「がはぁ!」
さらに飛鳥が、
「二回……二回見られたから、もう一発ね」
鋭い眼光とともにもう一発の拳を御言に飛ばす。
御言は殴られた腹部を庇いながら、
「ちょっと待て、どう考えてもさっきので二回分だろ」
必死の訴えも虚しく、今度は胸部に飛鳥の拳が炸裂したのだった。
殴り終えた飛鳥はスッキリした表情で剣を構え、間髪入れずにその光の刃で御言の肉体を斬りつけた。
だが、彼の体は傷一つついていない。
確かに光の刃が御言の胴体を通過したはずだが、衣服すら斬れていない。
だが、なにも斬っていないのかといえばそうでもなく、彼女は確かに御言の一部を切断した。
その切断されたもの──青色のリングは御言の体から抜き出るように出現し、宙に浮かんだままその場にとどまっている。
飛鳥がそれを見て口元を少し緩めた。
「さてと……これが≪鍵≫みたいね」
そして≪鍵≫と呼んだその物体を光り輝く剣によって一刀両断し、ほっと一息つく。
「これでよし、破壊完了」
青色のリングは真っ二つに切断され、光の破片となって……
御言の体の中へ吸い込まれるように入っていく。
すると飛鳥が顔をしかめ、
「ちょ……再結合?」
御言の体に再び光の斬撃を通す。
先ほどと同じように御言の体は無事で、その代わり青色のリングが魂でも抜けるかのように御言の体からすーっと出てくる。
それを飛鳥が再びぶった斬る。
「今度こそ……」
またもや斬られた青色のリングが光の破片となって御言の体へと吸い込まれていく。
負けじと飛鳥がもう一度御言を斬ろうと……
そこで御言が静止する。
「ちょっと待った! さっきからなにやっているんだ、なんで俺を斬るんだ?」
言った次の瞬間、また御言は斬られた。
飛鳥は斬ったあとに御言の体から抜け出てきた青色のリングを指差し、
「それを私は破壊したいの、まあ無理みたいだけど」
そして飛鳥は青色のリングに触れようとするが、触ることができずに手がすり抜けた。
「やっぱり触ることもできない、か……想定してたとはいえ、面倒なことになったわー」
「この≪鍵≫っていうのはなんなんだ? それにお前は何者なんだ?」
と御言が質問するものの、飛鳥はそれを無視して逆に御言に質問を投げかける。
「そういえばキミ、ほかにも宝器を持ってるみたいだけど、見せてくれる?」
御言は詳しくは知らないが、カプリという魔術師が狙っていた指輪が宝器と呼ばれていたことは記憶していた。
一度盗まれそうになったということもあり、いまは肌身離さず持ち歩いている。御言はそれをポケットから取り出すと手のひらの上に広げて飛鳥に見せた。
「宝器ってこれのことだよな? なんで俺が持っているってわかったんだ?」
飛鳥はすかさず手のひらに乗っけられた五個の指輪を全て鷲掴みにし、それを自身のポケットに堂々と入れた。
「これは私が預かっておくわ」
「おい、それは俺が記憶を失う前に持っていた……」
記憶を失う前から持っていた大切なもの。そう言おうとした。
なぜ大切だと思っているのか、それは本人にもわからない。だが、記憶を失っていてもそれがとても重要なものであると感じ取っていた。
そんなことを知る由もない飛鳥は……いや、知っていたとしても結果は変わりそうにないが、一切返す素振りを見せることはなく。
「私のいる世界ではね……宝器の扱い方を知らないド素人が、力を暴発させて変死を遂げるケースがよくあるの」
御言の耳元に顔を近づけて囁いた。怪談話でもしているような、思わず恐怖に身震いしてしまいそうになる口調で。
次に飛鳥は耳元から顔を離すと、不自然なほど明るくとり繕い、
「キミもそうなりたくないでしょ? だから私が持ってたほうがいいよね?」
満面の笑みを御言に見せた。
「はい……」
相手は笑顔の女の子なのに、ついつい気圧されて御言は同意した。
さらに飛鳥はこともなげにこう続ける。
「そうそう、しばらくはキミの家に泊まるから、そこんところよろしく」
「ちょ、それは困る」
全面的に反対する御言に対し、飛鳥はまたも怪談話でもするかのごとく表情を強張らせ、脅し文句を連ねていく。
「断るんなら、キミを誘拐して異世界に連れていってもいいんだけど……異世界に転送して監禁するよ? 変な装置とかで全身くまなく調べさせるよ?」
「それはもっと困る。ていうかお前も異世界の人間なのか?」
「へー、異世界の存在は知ってたんだね。まあ私ほどの実力者はこんな陳腐な世界にいないでしょ」
次に飛鳥は光り輝く剣を御言の首元に向けて急かすように告げる。
「そんなことよりほら、早く返事は? 本当ならキミをいますぐ連れ帰ってもいいけど、さすがにそれは可愛そうだから選ばせてあげる。キミから≪鍵≫を切り離すまで私が護衛につくか、それともいますぐ異世界に直行するか」
「異世界がどんなところか気になるけど、研究材料にはなりたくないな」
実際のところ、記憶喪失のせいか御言にはこの世界に対する未練など一切ない。
なので異世界に行ってみたいという気持ちはあった。ただ、あっちの世界でなにをされるかわからないため承諾もできない。
そして異世界行きを快く思ってなさそうな表情を浮かべる御言に向けて、飛鳥は明るい笑みを送る。
「それじゃあ、衣食住の提供よろしくね」
御言はただただ言葉を失い、無言のままそれに応じるしかない。
かくして二人の同棲生活が始まり、御言の肩身はそれまでの生活からは考えられないほど狭まるのであった。