指輪を狙う少女
月も出ていない薄暗い夜。
小さな公園で十六歳の少女が一人、退屈そうに滑り台のスロープを滑り下りていた。
藍色の刺繍が入った白いトップスとケープ、薄い毛皮のインナーとスカート、一見すると民族衣装にも見えるその格好は、日本の町並みには似つかわしくない。
髪もピンク色の大きなリボンでポニーテールに結っているため、非常に目立つ。もし昼間だったなら多くの人目を引いていたことだろう。
彼女は滑り台のスロープに座ったまま、肩の高さまで垂らしたポニーテールを指でいじりながら、淡々と独り言を並べていた。
「なんとしても二人より先に宝器を回収する。大丈夫、私ならできる。ただ、他人の家に不法侵入して、目的のものを窃盗して逃げ帰るだけ……やってやるわ」
真顔でそう言っては滑り台の上で勢いよく立ち上がり、
「のわぁ!」
足を滑らせて豪快に転び、後頭部をスロープに打ちつける。
「いったた……あとはドジを踏まないようにしないとね」
気を引き締め、彼女──カプリ・ウェルズリーは目的の場所へ赴く。
とあるアパートの一室、そのドアの前でカプリは手のひらに乗せたコンパスのような機器でしっかりと確認をとる。
「よし、ここで間違いないようね」
わざわざ小声で口にし、それから片手に握っていたペットボトルの容器を逆さまにして足元に水をこぼす。
床に落ちたその水は意思を持った生物のように蠢き、自在に形を変えながらドアの隙間から部屋の中へ侵入していく。
間もなくして解錠の音が鳴り、カプリは得意げに薄く笑みを浮かべて堂々とドアをあけて部屋の中へと侵入する。
中は狭いワンルームに必要最低限の質素な家具が置いてあるだけの地味な空間。床や壁が不自然に補修されているのを除けばごく一般的なアパートの一室だ。
そして硬いベッドの上には月読御言という名の男子高校生が仰向けでぐっすりと寝ているわけだが、カプリはしめしめとほくそ笑みながら部屋の中を物色し始めた。
数少ない家具の引き出しを片っ端からあけていき、荒々しく漁る。しかも部屋の電気をつけた状態でだ。
あまりにも騒々しい物音を立てていたため、当然のように御言は目を覚ました。そしてすぐにカプリの存在に気づくが、逆にカプリは御言が起きたことに気づいておらず、彼に背を向けたまま引き出しの中にあるものを無我夢中で床にばらまく。
「あーもう、宝器なんてどこにあるのよ。測定ミスじゃないの? こんな貧乏臭い家にあるわけないじゃん」
その独り言を聞いて、御言はその少女がただの窃盗ではないと悟り、寝た振りでしばらく様子を見ることにした。すると、
「あった、これだわ……十個もあるけど、全部宝器?」
カプリは黒く古びた指輪を発見し、一つ一つ確認しながらポケットにしまう。
それは≪境界≫が起きた日、御言が着ていたズボンに入っていたもので、合計十個の指輪にはそれぞれローマ数字でⅠからⅩまでの数字が彫られている。しかし記憶喪失ゆえに、その指輪の用途や出処を御言は全く覚えていない。
「さてと、任務完了かな」
不意にカプリは御言のほうを振り向くが、御言は完全に振り向かれる前に咄嗟に目を閉じ、寝た振りを続ける。
だが、カプリはベッドで寝ている御言を怪訝そうに睨みながらゆっくりと近づき、わざとらしく寝息を立てる御言に呆れたように小声で呟く。
「それにしても中々起きないな、どんだけ疲れ溜まってるのよ」
どうやら演技であることを見抜けていないらしく、さらに距離を縮めて御言の寝顔を確認しようと……が、そこでカプリは自分が床に撒き散らした雑貨に足を滑らせ、御言の腹部にダイブする。
御言は目を見開いて鈍い悲鳴を上げ、腹部への重圧に顔を歪める。カプリは慌ててベッドから離れると、
「やっば、起こしちゃった」
逃げるように台所に駆け込み、水道の蛇口を限界までひねる。
蛇口からは勢いよく大量の水が放出され、カプリはそれを放置したままそそくさと玄関へと走り、
「貰うもの貰ったし、バイバーイ」
そのままドアを激しくあけ放ち、呆然とする御言を残して走り去っていく。
御言は腹部の痛みが引いてから体を起こし、行動の優先順位もわからぬまま見知らぬ少女を追いかけた。
蛇口から滝のように流れ出る水を素通りし、指輪を取り返すために薄着のまま外に飛び出す。
アパートの四階、その通路に出て数歩地面を蹴った辺りで、彼は背後から水が打ちつけられる音を耳にする。
「なんじゃこりゃあ」
後ろを振り返って少し馬鹿っぽいリアクションをとり、すぐさま前を向き直す。そして背後から迫りくる水の塊から全力で逃げる。
このとき彼は理解した。カプリにはなんらかの特殊な力があり、水を操ることができるということを。
いま御言に迫ってきているのはただの水ではない。女性の上半身の形をした水の怪物だ。
走り続ける御言は、やがてエレベーターまでたどり着くが、エレベーターに乗るような時間の余裕はもちろんなく、迷わず階段を駆け下りるほうを選択した。
九十度左に方向転換して非常階段を騒々しく下る。
その間、水の追跡がやむことはなく、知能を持った生物のように御言の後ろをピッタリと追いかけていた。
御言が死に物狂いで一階まで下りると、丁度そのときにエレベーターの扉が開く。
中にいたカプリが誇らしそうに、
「これで私もノルマ達成ね」
満面の笑みを見せるが、御言と目が合った途端に笑顔が消える。
御言は逃げるのを忘れてエレベーターの前で静止し、攻撃的な態度でカプリに食ってかかった。
「指輪を返してもらうぞ」
そのすぐあと、彼の背後に大量の水が押し寄せ、同時にカプリは顔を真っ青にして叫んだ。
「こっちに来ないでぇ!」
次の瞬間、水の塊が御言を呑み、そのまま直線上にいたカプリすらも巻き込んだ。二人は激流に打たれて仲良くずぶ濡れになり、先ほどまで御言を追い回していた人型の水の塊はただの液体と化し、エレベーター内に水たまりを作っていた。
その水たまりにぺたんと座り込んだカプリは、何度か咳き込んで気道を確保すると、なにより先にこの言葉を口にして嘆く。
「この私がびしょ濡れとか、ありえないんだけど」
御言はそんな無防備な彼女の左腕をガッチリと掴み、自分のもとへと引き寄せる。
「捕まえた。さあ観念しろ」
ふと彼はカプリの左手の甲に印のような赤い痣があることに気づく。そしてその痣には見覚えがあり、似たようなものをつい最近目撃していた。
イストリアの魔術師であるグリフィスとヴィクセン、その二人の手の甲にもカプリと同じような赤い痣があったのだ。
「お前も……」
と言いかけたところでカプリの悲鳴がその言葉をかき消す。
「離して痴漢! 変態!」
大声を上げ、甲高い声がアパート中に響く。もし住人が起きていれば間違いなくいまの悲鳴を聞いていたことだろう。御言は思わずビクついて、掴んでいた左腕を離してしまう。
少女はしてやったりという顔で、
「女の兵士が男に劣るなんて大嘘、女には女の武器があるのよ!」
そう言い放ち、盗んだ指輪をエレベーターの外に向かって投げ、それは御言の頭上を飛び越えて……
いつの間にか女性の上半身を模した水の塊が再び出現しており、指輪はポチャンと音を立てて取り込まれ、そのまま水の塊は内部に指輪を含んだまま滑走するように地面を進み、移動を始める。
カプリは得意げな表情で、余裕を表すようにその場で黙って腕を組む。
御言は指輪を追いかけなければいけないことと、痴漢だのなんだのと騒がれたこともあり、カプリの捕縛を諦めて逃げるようにエレベーターをあとにした。
だが、彼は気づいていない。
指輪は全部で十個あったが、さっきカプリが投げたのは五個だけ。つまり、残りは現在もカプリが持っており、どう転んでも彼女の手中に最低でも五個の指輪が残る寸法となっている。
それに気づかないまま御言はカプリを置いて女性型の水を追いかけていったのだ。
水の動きはすばしっこいものの、動作は単純で道路の中央を直線的に進んでいるだけなので、御言の足でも追跡自体はそう難しいことではなく、むしろ鬼ごっこを続けるうちに距離を縮めつつあった。
追跡を始めて数分のことだ。水の塊は突然なにもない住宅地でピタリと停止し、不審に思った御言は反撃を警戒して思わず足を止める。
だが、水の塊が反撃してくる様子はなく、どうやら進行方向から向かってきているなにかを警戒して停止しているようだった。
そして御言がじっと構えていると、街灯の淡い光に照らされながら小さな足音とともに一人の少年が姿を現す。
眼鏡をかけ、見た感じ知性的な顔立ちで、年齢は御言と同い年くらい。
その少年は立ち止まって、馴れ馴れしい口調で御言に話しかける。
「おひさおひさー」
その声に聞き覚えがある御言は、目を凝らして少年の顔を注視する。
あろうことかその少年は入院していたはずの越前ではないか。御言は退院したという話を耳にしていない。そもそも意識がいつ戻るかわからない状態だったのだ。
「越前お前、いつ意識が戻ったんだ?」
御言が尋ねると、越前はどこか上機嫌にこう答える。
「いつって……最初っから意識なんて失ってないよ、お・に・い・ちゃん」
彼は気味の悪い笑みを浮かべていた。
その悪意に満ちあふれた笑みを見て、御言はどこかデジャヴを感じる。さらに越前は直前の上機嫌とは正反対に、嫌悪感と憤りを露わにする。
「もうオマエなんかに寄生しようとは思わない。ボロボロのベチャベチャにしてやる。でなきゃ気が済まないんだよねぇ」
それを聞いて御言は越前の真の正体に気づいてしまった。
「まさか……でも、お前は確か死んだはずじゃ」
越前──もとい越前の体を乗っ取ったピノテレスは越前の声のまま御言を馬鹿にするようにゲラゲラと笑う。
「死んだ? ボクの死体を見たのかい? いや……そもそもボクを見たことがあるのかい?」
ピノテレスを見たことがあるのか。
その奇妙な問に御言は顔をしかめざるをえない。彼は二度にわたってピノテレスの姿を確認していた……と、自分ではそう思っていた。
だが、実際には違ったのだ。ピノテレスは肩を揺らして御言を嘲笑い、
「ボクは寄生を得意とする悪魔だけど、実は悪魔にも寄生できる。あのときオマエが殺したのはボクじゃない、ボクが寄生していたほかの悪魔だよ。オマエはボクの本当の姿すら見たことがない」
「臆病な奴だな、自分は表に出ないでほかの奴に戦わせるのか」
さも自分が賢い存在であるかのようにアピールするピノテレスを、御言は声を低くして厳しく非難した。
ピノテレスは激しく動揺し、夜の住宅地に荒々しく怒声を響かせる。
「黙れ、ボクたち下級悪魔はそうやって生き残るしかないんだ! いいから、オマエは黙って死ね」
そう言った瞬間、ピノテレスの周囲が一斉に発火し始める。
周辺に燃えるようなものは全くないにもかかわらず、アスファルトの表面が勢いよく燃え盛る。これは言わずもがなだが越前の持つ力だ。
そして発生した炎は、御言が追いかけていた水の塊すらも呑み込み、あっという間に水分一つ残さずに蒸発させた。
おまけに指輪までもが灰燼にきす。
さっきまで真っ暗だった夜道は炎によって明るく照らされ、ピノテレスの勝ち誇った笑みが御言にもハッキリと視認できるようになる。
「この宿主の力で焼き殺してやんよ」
だが、ここで御言の意識はピノテレスから逸れ、炎の中に見える謎の光へと移った。
つい今しがた指輪が焼失した場所、赤い炎に包まれながらも青色の光を放つ物体が浮遊し、その物体はブレスレットほどの大きさのリングを象っていた。
御言はそれを目にした瞬間から、それまでのやり取りなど忘れて呆然と立ち尽くしてしまう。
見つめれば見つめるほど彼の意識は遠のき、同時に何者かの声が頭の中で響き始める。
──あれを悪魔に渡したらダメ──
儚げで、いまにも消えてしまいそうなほど気の弱そうな少女の声。
ピノテレスには聞こえておらず、御言だけがその声を聞いていた。
──お願い、鍵を掴んで──
そして、なぜか彼は得体のしれないその声に従う。
「そうだ……鍵を回収しないと……」
無意識に呟き、そして自覚のないまま炎に向かって進んでいく。
その様子をピノテレスは奇異の目で見ながら、
「おいおい、自分からその身を焦がしに来るなんて、いつからそんなマゾになったんだい?」
狂気の笑声を上げる。
しかし御言の耳にはそれすら入らず、燃え盛る炎の中に躊躇なく飛び込む。文字どおり死ぬほど熱い火の中、青色に光る円輪を右手でがっしりと掴む。
瞬間、光は微細な欠片に砕けて御言の体に吸い込まれるようにかき消える。同時にぼんやりとしていた御言の意識が戻り、思い出したように火炎の熱に悶え苦しみだす。
踊りのように無様に手足をバタつかせ、みっともない悲鳴を住宅地に轟かせる。その姿にピノテレスは腹を抱えて笑う。
そして皮膚の表面から焼かれていく御言は、突如頭上から凄まじい衝撃を受けて体のバランスを崩す。
痛い。そして冷たい。
そんな感想をいだきながら、ずぶ濡れになった御言は尻もちをついてキョトンとしていた。
彼が気がついたときには、すでに路上に広がっていたはずの炎の海は消え、浅い川のようなちょっとした洪水状態だった。
その光景に言葉を失っていたのは御言のみならず、ピノテレスもなにが起きたのかわからないという表情でずぶ濡れのまま立ちすくむ。
水の流れる音、それに混じって御言の背後から足音が聞こえる。
足音の主、民族衣装のような服装に、ピンク色のリボンでとめた黒髪のポニーテールの少女──カプリ・ウェルズリーは尻もちをつく御言に向かって叱責するように声を張り上げた。
「ちょっとあんた、大丈夫?」
その口調は体の心配というより、頭の心配をしているような物言いだ。
御言は全身に軽い火傷を負っているものの、命に別状はない。それを自分自身で確認すると、礼も言わずにカプリに問いかける。
「わざわざ助けに来てくれたのか?」
それにカプリは呆れながら返す。
「そんなわけないでしょ。ていうかなんで火の中に飛び込んだの? バカなの? 死にたかったの?」
「いや、死にたくはないです」
縮こまりながら答えるものの、御言本人にも焼身自殺紛いの行動に出た理由が説明できないため、それ以上言葉は出なかった。
カプリもカプリで深く追求しようとせず、むしろ御言など興味はないと言わんばかりに跳ね除けた。
「邪魔だからちょっとどいてて、私はそこのザコ悪魔に用があって来たんだから」
そう言って濡れた地面をピチャピチャと音を立てながら進み、不機嫌そうに顔をしかめたピノテレスのほうへ向かう。
御言と同じように頭上から大量の水をかぶったピノテレスは、使い物にならなくなった眼鏡を外して片手でへし折り、その残骸をアスファルトにばらまく。
「ザコ悪魔だなんて言ってくれるね、まさか炎が相手なら水を使えば有利とか思っちゃってるわけですかぁ?」
相変わらずの小馬鹿にした挑発的な態度だ。
それにカプリは淡々と返す。
「そりゃそうでしょ、消防車だって水で火を消すでしょ?」
「残念だけどボクの……いや、この越前月光というニンゲンが持ってるのは発火能力じゃない。コイツの本来の能力は強制酸化能力。どんな物質だろうと、あらゆる状況下で強制的に酸化反応を起こせる」
ピノテレスは狂ったように笑いながら少女に向かって突進するが、カプリはなおも余裕のある表情で淡々と、
「だからなに?」
言ってその場にしゃがみ、足元の水に手を浸す。
瞬間、周辺にあふれていた水が重力を無視して彼女の頭上に集まり、直径十メートルはあろう巨大な水の竜を形作った。
仄かな青白い光を放ち、宵闇に美しく映えるその水の竜は、思わず賛美の声を漏らしてしまいそうなほどに幻想的な様相を表していた。
カプリはその顔に自信を浮かべ、
「魔術師のあいだでよく言われるんだけど、防御重視と言われている水の魔術で攻撃魔術が使えたら一流って話」
それにピノテレスがやはり見下したような態度を示す。
「なにそれ? まさか自分が一流の魔術師とでも言いたいのかい?」
「そうよ、ついでに一流の魔術師は術の見た目も秀麗なの」
水量にして数十トンにもなる水の竜がまるで生きているかのように宙をのたうち、猛々しく口をあけ、獲物に食らいつく。
荒れ狂う水の竜に容赦なく呑まれたピノテレスは、そのまま数メートル流し飛ばされて無様に地面を転がる。だが、カプリの攻撃はこれだけにとどまらない。
水の竜がアスファルトの上で弾け散ったあと、ピノテレスの体に水のロープが無数に絡みつき、体の自由を奪っていた。
ピノテレスは悔しそうに顔を歪め、恨み言を連ねるが、
「なんでこのボクがこんなガキにここまでやられなきゃならないんだ! それに……」
「悪魔の言い残す言葉なんて興味ないから、とっとと消えなさい」
言葉の途中でお構いなしに遮るカプリ。
彼女がおもむろに取り出したのはビー玉ほどの大きさの赤く濁った石。それを身動きのとれないピノテレスに投げつけた。
当然直撃するわけだが、胸部に当たった瞬間、閃光弾のような強烈な赤い光が一瞬だけ放たれ、同時にピノテレスから非生物的な甲高い悲鳴が上がる。
「くっぉ……ったい、なにをした?」
激しく息切れを起こし、苦しみながらピノテレスが問うと、カプリはそれに得意げに答える。
「対寄生型悪魔用の宝器よ、アスエゼルの強制結合って言ったらわかるでしょ?」
「わかんねぇよ……」
ピノテレスはそう言いつつも自分の死を悟っていた。水のロープに縛られたまま水浸しのアスファルトの上で、いまにも死にそうな表情のまま口だけを動かす。
「ニンゲンの分際で、小賢しいマネをしやがって……このままタダで死ねるかよ。ヒヘ、この宿主だけでも道連れにしてやる。精々お友達の死に様を見て苦悩するがいいさ、お兄ちゃんよぉ……」
それを言い残し、ピノテレスの体──正確にはピノテレスが寄生していた越前月光という少年の肉体は、数秒のうちにドロドロの液体とボロボロの塊になり果てた。
それは一言で言い表わせばグチャグチャに潰れたゼリー。元が人間とは思えないくらい原型をとどめておらず、さらには衣服の切れ端すらも見当たらない。
誰もが目を伏せたくなる光景だろう。しかしカプリは至って平静で、
「一件落着ね」
目の前で人が変死したというのに、一息ついていた。
御言は立ち上がってカプリの肩を強引に掴み半ば錯乱した精神状態で問い詰める。カプリがなにをしたのか、越前の身になにが起きたのか、
「お前、なにをしたんだ?」
「聞いてなかった? アスエゼルの強制結合による核の崩壊だって……」
「そうじゃない。どうして越前を殺したのか聞いているんだ」
カプリは一度困ったような顔で思考し、それから彼女なりの結論を返す。
「どうやら肉体の隅から隅まで酸化して溶けたみたいね。その人を殺したのは寄生してた悪魔であって私じゃないから、私にどうこう言われても困るんだけど」
嘘偽りない事実を述べるが、御言の視点ではカプリのせいで死んだようにしか見えなかった。加えてこの非情な態度が彼には受け入れがたいものだった。
あまり目を向けられるものではないが、御言はもう一度越前の死体がある場所へ視線を移す。
悪魔に操られ、挙句の果てに体をドロドロに溶かされた越前の姿をもう一度……
だが、そこに死体はなく、代わりに生きた少年が立っていた。
顔や体格は越前月光と全く同じ。だが、耳の裏側辺りから後方に向かって蟹の爪のような細い角が生え、さらに服装も越前の面影がないほど変化。おおよそ日本人が着るような衣服ではなく、長いコートの裾が幾何学的に切り取られたように歪な形を成していた。
そして極めつけは体から薄っすらと漂う黒いオーラ。それは越前の姿をしたその少年が先ほどとは別の存在であることを顕著に物語っていた。
その少年は奇抜なコートを靡かせながら、御言とカプリに向かって尋ねる。
「痛いなぁ……お前らか? 僕の体を溶かしたのは」
口調はピノテレスとはまるで違う。そして越前とも大きく異なる。
ゆったりと落ち着きのある、それでいてひたすら冷酷さだけが伝わってくる声音。
次の瞬間、少年の像が少しブレたかと思えば一瞬のうちに少女の前に移動し、左手で少女の首を締め上げていた。
「恐怖をいだく暇すら与えない、早々に絶命しろ」
夜の闇で見えづらいが、少年の右手にはガラスでできた身の丈に相応しくない長い刃物が握られていた。少年はそれを大きく振り上げる。
間近で見ていた御言が少年を静止しようと動く。だが上体を動かした瞬間、少年は御言を視界に捉えぬまま蹴りを加え、御言を数メートルも蹴飛ばした。そして視点を一切動かすことなく感情のない声音で、
「焦るな。お前はこの女のあとだ」
少年はそのままガラス質の刀剣を容赦なくカプリの頭頂部に向けて振りかざそうとする。
御言は叫びながら咄嗟に手を伸ばした。
届くはずもない手を……
「やめろおおお!」
刹那、少年は胴から真っ二つに割かれ、上半身が下半身を離れて崩れ落ち、同時にガラスの剣がアスファルトに打ちつけられて粉々に砕け散った。
この現象を引き起こした張本人は御言だ。
それは本人もなんとなくではあるが感じ取っていた。手を伸ばした瞬間になんらかの力を発動し、少年の体を二つに裂いた。
だが、なにをしたのか詳しくは御言にもわからない。ただ助けたいと必死で手を伸ばした、それだけである。
そして少年のほうはというと……
死んでしまったのかと思いきや、ここで彼の人ならざる者としての片鱗が見えることになる。
千切れた下半身は細かい塵に分解され、霧のように霧散。そして上半身からは新たな下半身が急速に再生しつつあった。それも肉体のみならず衣服を着た状態で再生していた。
そもそも少年は一滴として血を流しておらず、平静な顔のままアスファルトの上に転がっている。見たところ痛みを感じている様子もまるでない。
少年の下半身は見る見るうちに再生し、完全に修復されるまでのあいだ、冷ややかな視線を御言に送る。
「いまのはお前の仕業か。やられたらやり返すのが僕の信条だ。そこで待っていろ、すぐにお前も同じように両断してやる」
殺意や憎悪すら感じられない、無感情な口吻。
彼はただ事務的に御言の体を切断することを宣言したに過ぎず、その人間性の感じられない発言は御言を狼狽させるのに十分だった。
体が硬直し、ただ息を呑むことしかできない御言の腕をカプリが強引に引っ張り、
「チビモヤシ! 逃げるわよ」
二人は濡れたアスファルトの上を自動車すら優に追い越すほどの速度で移動し始める。その様子はまるで水上スキーのようだった。
状況を理解できない御言はカプリに問う。
「なんで俺たち水の上を走っているんだ? それにこの霧は……」
いつの間にやら発生していた濃霧によって周囲は覆われ、数メートル先もろくに見えない状態で、いまどの道をどう進んでいるのか御言には見当もつかない。
カプリは逃げることに意識を集中させながらも、御言の質問には謹直に答える。
「違うわ。私たちはただ水の上に乗ってるだけ、走ってるのは水のほう。あと、霧はあいつから逃げるために私が発生させたわ」
「水が走る? じゃあなんで水が走ってて、しかもその上に人が乗れるんだ?」
混乱のあまり価値のない質問を投げかけ、それにカプリは声を張り上げ、
「あーもう、いちいち質問しないでくれる? ただのサーフィンよ、サーフィン!」
カプリも情報価値のない答えを返す。
萎縮してしばらく口を噤む御言だったが、なにも話さないでいるのも空気的に気まずく、結局一分もしないうちに耐えきれずにもう一度尋ねてしまう。
「さっきのあいつはなんだったんだ。体が溶けたはずなのにいつの間にか再生して、しかも人格まで変わっていた……一体なにが起きたんだ?」
カプリはあの少年の情報だけは共有すべきだと考えたのか、その疑問には比較的丁寧な物腰で返す。少し億劫そうではあったが。
「悪魔に転生したのよ。等級は多分夜纏魔」
「転生……? 悪魔ってのは倒しても転生して生き返るのか?」
それにカプリは呆れたように首を横に振って、
「ほんとになにも知らないのね……人が死んだときに低確率で悪魔に転生するのよ」
さも常識を語るように答え、ため息をつく。
御言は目を見開いたままさらに質問を重ねる。
「つまりあいつは越前が死んだことによって生まれたってことか?」
「そういうこと。いまのあいつはあんたの知る越前ってやつでも、お知り合いの寄生型悪魔でもない全くの別人。記憶も継承してないから、次に会ったときは自己紹介から始めてみたほうがいいんじゃない?」
冗談っぽく言ってはクスリと笑う。
御言にとっては言葉を失うほどの驚愕の事実なのだが、カプリはどうでもいいと言わんばかりに話題をすぐさま切り替える。
「それにしてもさっきは助かったわ、チビモヤシ」
「チビ……モヤシ? なんだそれ」
「あんたのことよ。色白でヒョロヒョロしててモヤシみたいでしょ? それでいてチビだから、チビモヤシ」
なぜか機嫌良さそうに解説したあと、二人を乗せていた水の動きが止まり、ある地点で停止した。
そして、立ち込めていた霧が次第に晴れていき、視界が戻るとそこは公園だった。
「さっきのあれはなんなの? あんたの結界能力?」
さっきのあれと言われた御言は、悪魔の体を両断した力のことだと瞬時に理解するが、聞かれたところで本人すらなにが起きたのかよくわかっていないので、カプリの問には表情を曇らせるしかなかった。
その表情を見て察したのか、カプリはがっかりしたように、
「……ではなさそうね、それってあと何回使える?」
「何回って言われても、同じことがもう一回できるかどうかも怪しい」
「試しにあそこにあるゴミ箱に向かって撃ってみてよ」
カプリは好奇心に任せて御言に力を使うよう促し、御言も自分が発現させた力の正体を知りたいので、黙って彼女の言うとおりにする。
ほんの数メートルほど離れた場所にあるゴミ箱に対して手を伸ばし、ぶっ飛べ。ぶっ飛べ。と力の使い方を知らないので、ただがむしゃらに稚拙な言葉を心の中で念じた。
しばらくすると……
コトン。
ゴミ箱は静かに倒れた。
カプリが腰に手を当てて呆れ果てる。
「あんたね……バカにしてるでしょ……」
だが次の瞬間、大音量の爆音とともにゴミ箱が内部から弾けるように粉砕された。辺りにはゴミ箱の破片と、中に入っていたと思しきゴミが散乱する。
それを見たカプリは目を一段と輝かせ、その日一番の笑顔で、
「いけるわ! ちょっと力を貸しなさい」
「はい?」
「あんな危険な奴放っておくわけにはいかないでしょ? 私たちで倒しにいくわよ」
カプリはやけに自信たっぷりで、これっぽっちも臆している様子はなく、御言を悪魔討伐に参加させようとするが……
『誰を倒すって?』
二人の背後から声が響いた。
無気力、無感情、無表情。人の生気を感じさせないそんな声が。
二人とも振り返ると同時に地面を蹴って、その人物から距離をとる。魔術師であるカプリはいいとして、御言も御言で中々の反応だ。
案の定と言うべきか、そこにいたのは耳の後ろから角を生やし、黒いオーラを放つ奇抜なコートの少年──越前と同じ顔をした先ほどの悪魔。
彼は赤い双眸を光らせながら眼前に手をかざす。
すると、一枚のガラス板が出現した。形状は正方形で縦横が五十センチくらいだろうか。まるでテレポートしてきたかのように、なにもない場所に忽然と現れては宙に浮いたまま微動だにしない。
さらにその板の中心から外側に向かってヒビが入っていく。ピキピキと音を立てながらいまにも砕けそうなほどに無数の細かい亀裂が走る。
少年の悪魔は抑揚のない声音で宣言した。
「このガラスが砕けるとき、それは同時にお前たちの命脈が砕けることを意味する」
それを聞いてよくわからないまま御言はぞっとした。とにかくその悪魔と対峙すること自体が危険だと感じた。
しかし、そんな臆病な御言をよそに、カプリは真逆の反応を示す。
「さあチビモヤシ、あの悪魔をぶっ飛ばして!」
戦う気満々のようだ。
御言は半ばヤケクソで悪魔に向けて手をかざすが、悪魔は御言の視界から逃れるように地を駆け、獣のような機敏さで公園内を縦横無尽に駆け回る。
その動きは視界に捉えることが困難なほど人間の身体能力を凌駕したもので、御言が幾度視界に捉えようと目を向けても、次の瞬間には別の場所に移動している始末だ。
悪魔が言う。
「思ったよりも反応が遅いな……これならガラスが砕けるのを待たずに普通に殺しにいったほうが早い」
それを聞いた御言は背筋を凍らせた。
このスピードで向かってこようものなら、よける間もなく瞬殺されるのはまず間違いない。加えて悪魔化の力がなぜか発動しないのである。
ふと御言は数日前に朝倉から言われた忠告を思い出す。
それは学校で何気なく言われた言葉。
──気をつけていただきたいのは……月読くん、あなたの持てる力は一度に一つまでという制限があるかもしれないということ──
他者の能力をコピーするという御言の能力。朝倉が危惧していたとおり、新しく能力をコピーすると古い能力は上書きされて使えなくなるようだ。
この人知を超えた存在を前に、御言は生身の人間として戦わなければならない。
そしてカプリはというと、公園に設置された水道、その蛇口をひねろうとしているところである。水を操る魔術師ゆえに彼女は術の媒体となる水がなければほぼなにもできない役立たずとなる。
御言は冷静に状況把握に努め、そのうえで攻撃対象を定めた。
機敏に動く悪魔を自分の力で倒すのは不可能と判断し、カプリのいるほうに向かって腕を伸ばした。
自分の命は助からないかもしれないが、カプリがその悪魔を倒してくれることを信じて力を発動する。
「あとは頼むぞ、お前がこいつを倒してくれ!」
御言の手の先から圧縮された空気が発射され、それは一直線にカプリのほうへ……
そして彼女の横を素通りし、その背後にあった消火栓を地面ごとえぐって吹き飛ばした。直後に地面から大量の水が噴出し、それを見てカプリがニヤリと笑う。
「ナイスよチビモヤシ……あとは私の術で仕留める」
彼女が地面からあふれる水に手を浸すと、水が意思を持ったようにせり上がり、公園全体を津波のように呑み込んだ。
その速度は水が本来流れ動くスピードを越えており、範囲が広いことも相まって常人を越えた上級悪魔であろうと回避するのは困難極まりない。
推定水圧は計り知れず、人間なら死亡する危険性すらあるが、カプリと御言のいる場所だけはバリアでも張られたみたいに水が流れず、公園の遊具や木々が根こそぎ破壊し尽くされる中、二人は無傷だった。
公園はちょっとした湖のように変貌し、そして例の悪魔は巨大な氷の中に封じ込まれたように氷漬けにされ、言葉を発することも瞬きをすることも許されない状態だ。
唖然とする御言に向かってカプリがよく響く声で、
「いまよ、その氷ごとそいつの体を粉々にしなさい」
トドメの一撃を御言に託す。
御言は無言で頷き、氷塊が跡形もなく粉砕されるイメージを頭の中に明確にえがき、両手を使って力を発動する。
もう二度と体が再生できないように細かく粉砕するため、腰から両断したときよりもさらに爆発的な力をイメージし……
一瞬だけ風が通り、目の前にあった氷塊が彼のイメージどおり砕け散った。
悪魔の肉片が塵となって消え、公園には氷の破片と一面の水以外なにも残っていない。
脅威が去ったことに安堵し、カプリのほうへ視線を戻した御言の前に、目を疑う光景が待っていた。
彼はすぐにカプリのもとへ駆け寄り、彼女の容体を確認する。
カプリの脇腹からは大量に血が流れ出ているが、服の上からでは怪我の程度を窺い知ることはできない。
カプリは元気とは言いがたい顔色で無理に笑顔を繕う。
「あいつが爆散したときに飛んできた氷の破片が、ちょっとかすったみたいね」
その表情は笑顔とは程遠い。
「俺のせいで……」
責任を感じて泣きそうなほどに顔を歪める御言に対し、カプリはデコピンを当てる。
「あんたのせいじゃないわ……あの悪魔と戦おうとした私の責任なんだし」
そう言ってトボトボと歩きだす。
「お前、どこに行くんだよ。いま救急車呼ぶから安静にしてろ」
「大丈夫、知り合いの医者に診てもらうから……あと」
一度言葉を止めていまにも死にそうな顔で弱々しく笑い、
「お前じゃなくて、私はカプリ……カプリ・ウェルズリーよ」
それからポケットからあるものを取り出し、それを御言に向かって投げつけた。
力なく投げられたそれは、小さな放物線をえがいてそのまま地面に虚しく落ちる。
それは五個の指輪。
御言の部屋からカプリが盗んでいったものだ。
「それは返すわ、協力してくれたお礼……半分に減っちゃったけどね」
そう言い残し、少女は夜の街道へと姿を消した。小さな水溜まりに乗ってまるでサーフィンでもするかのように……
残された御言は心配ではあったものの、高速で去っていった彼女を追うこともできないので、さっき彼女が言っていた知り合いの医者とやらに任せるしかない。
ひとまず地面に落ちた五個の指輪を拾い集めると小さく呟く。
「あいつ、半分隠し持っていたのか……って、お礼って言われても、これ元々は俺のなんだが」
げんなりしながらポケットにしまい、それから周囲に集まっていた野次馬の存在に気づく。
火事に爆音に洪水……夜中とはいえ、そこまでやったらさすがに騒ぎになる。御言はできる限り目立たないようにその場から立ち去り、自宅へと帰った。
それから数分後のこと。御言たちがいた公園から少し離れた路地で、御言に粉々に砕かれて首だけになった悪魔が地面に転がっていた。
その彼に一人の少女が近づく。
「派手にやられちゃったね。大丈夫、私が治してあげる」
学生服を着た少女は無邪気な笑みを見せ、悪魔の少年は感情のない口調で返す。
「誰だお前は」
好意も嫌悪もない相変わらずの態度だが、その少女は気にすることなく愛おしそうに言葉を返す。
「私はカンパニュラ。安心して、キミの味方だよ」
少女は悪魔の頭部を拾い上げると、そのまま暗闇の中へと姿を暗ませた。