イストリアの魔術師
彼はその日購入したばかりの低反発マットを、ベッドの上に敷いて仰向けになり、普段の硬いベッドとは別次元の寝心地に仏のように表情が和らいでいた。
だが、その安息の時を邪魔するかのごとく卓袱台の上に置かれた携帯電話が激しく振動して着信音を鳴らしだす。
御言は舌打ちしながら勢いよく飛び起きて、乱暴に携帯電話を手に取る。
時刻は二十三時過ぎ。
こんな時間に電話がかかってくること自体おかしな話で、あまつさえ非通知である。常人なら不審がって電話に出るのを拒むだろう。
しかし御言は迷わず通話ボタンを押す。自らの安らぎを邪魔した犯人が誰なのか、ただそれが知りたい一心で電話に出た。
彼が端末を耳に当てると、言葉を発する間もなくスピーカーから怪しげな男の声。
「こんばんは月読くん。ご機嫌はいかがですか? 私です、朝倉です」
聞こえてきた軽い口調の挨拶に、御言は携帯電話を軋むくらい強く握りながら、怒りをぶつけるように荒く返す。
「ご機嫌は最悪だ。いま警察に通報してやろうかと本気で思ったよ」
それに朝倉は自分のペースを乱すことなく、軽い口調のまま続ける。
「失礼ですね、私はれっきとした先生ですよ? その立場を利用し、生徒に要件を伝えるために電話をしてなにがいけないんです?」
「なんだよ要件って、ろくでもない話じゃないだろうな?」
やはり朝倉は軽いトーンのまま返す。
「ええ、ろくでもない話です。先ほどこの町に悪魔が出没したようなので、≪月の影≫とかいうあなた方五人の力でなんとかしちゃってください。場所は月見ヶ丘高校の校門前です」
「あんた悪魔祓いが専門なんだろ? なのに学生の力を借りるのか」
御言が聞き返すと、朝倉は口調を少し強めて、
「はい。私はいま動けないので是非ともあなた方の力をお借りしたい。なお、ほかの皆さんはすでに向かわれてますが、月読くんが行きたくないと仰るのなら行かなくてもいいんですよ……大丈夫、結果的に誰かが死んだとしても月読くんを責めたりはしませんので」
「え……」
なにか言い返そうとするが、その前に朝倉は問答無用で通話を終わらせる。
御言はすでに電話が切れているのもお構いなしに、
「おい待て、俺以外の奴はみんな悪魔討伐を快諾したというのか?」
一人っきりの部屋に声だけが響く。
朝倉の話では月見ヶ丘高校に悪魔が現れたとのことだが、その近辺は居住区から離れているため夜になるとほぼ真っ暗になる。そんな場所で悪魔と戦闘になれば命の保証はない。悪魔の危険性を知る御言にとって、学生だけで悪魔と戦うのは無謀に思えた。ゆえにナギハヤたちを止めたかったわけだが、彼らの電話番号を御言は知らない。
もはや彼に迫られた選択肢は一つしかなった。
御言は薄着のまま部屋を出て、急ぎ月見ヶ丘高校の校門へと全速力で向かう。夜中の町を風を切るように走り、居住区を離れ、途中からは月明かりと街灯だけを頼りに暗い夜道をひたすら進む。
次第に月の光に照らされた月見ヶ丘高校が見えてきて、御言は息を切らしながらも走る速度をさらに上げた。
彼が校門に着くと、すでにナギハヤ、櫛田、越前、比奈の四人が揃っており、幸いにも全員無事である。朝倉の言っていた悪魔の姿はない。
そしてぜえぜえと呼吸を荒くしながらみんなのもとに歩み寄る御言に、比奈が呆れたように声をかける。
「遅いですよセンパイ」
それに続いて越前が不貞腐れた態度で苛立ちを表現する。
「君が来るのを十二分以上待っていたんだ。なにか弁解はあるかな?」
御言は一度呼吸を整えてから二人に応える。
「文句は朝倉に言ってくれ。というかなんで比奈がいるんだ? ≪月の影≫は超能力者の集いじゃなかったか? こいつはなんの能力も持っていないはずじゃ……」
それにナギハヤが、
「細かいことは気にすんな、比奈たんは俺たちが全力で守り抜きゃいいんだよ」
と、まるで危機感の欠片もない様子でヘラヘラと笑っており、御言は事の重大性を伝えるべく声を尖らせる。
「いや、この際能力の有無はどうでもいい……みんな聞いてくれ、いくら超能力があるからといって悪魔と戦うのは危険だ」
「なに怖気づいてんだ?」
煽るように言い返したナギハヤに便乗するように越前も、
「僕を見くびらないでくれるかな。悪魔と戦うのが危険? 君が素手で倒せるような相手に引けを取るわけがない」
さらに櫛田も。
「私たちには太陽光照射装置もあります。悪魔なんて最初から敵ではありません」
言って小型の懐中電灯を顔の前に構えて格好つけたように謎のポーズをとる。
御言は呆れかえってため息をつく。
「なにかと思えば朝倉から渡された懐中電灯のことか……確かに悪魔は光に弱いらしいけど、所詮はただの懐中電灯だぞ、そんなものに命を預けていいのか?」
それに櫛田は頷き、
「はい。こちらは五人もいるのですよ? 悪魔なんて敵ではないでしょう」
『試してみる?』
ふと彼らの頭上から少女の声。
全員が一斉に見上げ、電柱の天辺に人影を確認する。宵闇でその姿を鮮明に捉えることはできないが、次の瞬間、電柱から飛び降りて御言たちのすぐそばに着地し、その体が街灯に照らされたことで姿が露わとなる。
「悪魔が敵じゃないって言ったよね? 喧嘩売ってるでしょ」
その姿はとても人間とは思えないもので、身長や体格は小学生ほどで丁度比奈と同じくらい。
頭部と左腕にそれぞれ薄いピンク色をした螺旋状の甲殻がつき、片目はその甲殻で隠れている。瞳は虚ろで赤く光り、肌は全身真っ黒で、後頭部から出ているピンク色のジェルは全身にまとわりつくように広がり、体の表面からは枝分かれしたトゲのようなものがいくつか生えていた。
その場にいた全員が一目見ただけで把握しただろう。それが悪魔であると。
比奈は悪魔を視認した瞬間、以前悪魔に操られた恨みからか誰よりも先に前に出た。
「出ましたね。悪魔だけは許さないです!」
悪魔に対して懐中電灯を向け、スイッチを入れると同時に強烈な光が比奈の前方を眩しく照らす。
ごく一般的な懐中電灯とは異なり出力が異常なほど高いため、御言たちは眩しさに思わず目をつむった。
しばらくして彼らが瞼をあけると懐中電灯の光はすでに消えており、さらにその瞬間、彼らの横を掠めるように比奈が吹き飛んでいった。
比奈が飛ばされた先には別の──黒い壺のような形をした高さ三メートルほどの化け物がいて、御言たちが見ている中、上方についている口と思われる部位で比奈を丸呑みにした。
凄惨な光景を目撃し言葉を失っている高校生たちの後ろで、薄いピンクの甲殻を持つ悪魔は軽快な口調で喋る。
「ホームラン! ちょっと強く飛ばしすぎちゃったかな」
その様子から窺えるのは、光によるダメージがなかったこと、そして身体能力は人間のそれを軽く凌駕しているということ。
御言だけはずっと前からわかっていたが、それ以外のメンバーはこの場でようやく理解した。悪魔という存在がいかに危険な存在かを。
さっきまでヘラヘラしていたナギハヤや、やけに自信過剰だった櫛田は顔が引きつって別人のようになっている。
越前だけは比奈が食われたという惨状に取り乱すことなくピンクの甲殻を持つ悪魔に立ち向かう。
「光が駄目ならこれはどうだ?」
悪魔が立っている足元を中心に火の手が上がるが、彼女にはまるで効果がなく、火に巻かれながら薄紅色の口を不気味に広げて微笑む。
「≪開≫」
真っ二つに割れた火の海に一本の道ができ、そこを堂々と歩き、
「普通の悪魔ならさっきの光で死んでたかもしれないけど、ラティーは≪天喰魔≫──上級悪魔だから光も炎もへっちゃらだよ」
言いながらドリル状の左腕を高速回転させて越前に近づいていく。
左腕のドリルは幼女のような体つきに対してとても不釣り合いで、そしてそれはアニメなどでロボットに装着されているような機械的なものではなく、巻貝に歪な形のトゲを生やした悪魔と呼ぶに相応しい禍々しい形のものだ。
もし体を貫かれようものなら、穴があくどころか全身がズタズタに裂かれてバラバラにされることだろう。
御言は越前を庇うように前に出て、
「あいつは俺が相手をする。お前らは比奈をなんとかして助けろ」
「なんとか、って……具体的になにを?」
切羽詰まった状況で越前が詳細を求め、御言は急かすように声を荒げる。
「おそらくあっちのでかい悪魔は下級の悪魔だ。光を当てればきっと倒せる」
「あまり確証のなさそうな了見だね」
皮肉っぽく返すが、少し考えたあとで越前は態度を改め、
「でも一理ある。前にあのグラサン教師が提供した情報から考えると、その見解も相応か」
眼鏡のズレを手で直すと、そのまま巨体の悪魔に向けて走り出す。
だが、どういうわけか御言が慌てて呼び止めた。
「待て、その前にあの炎を消してくれ。この明るさじゃ俺が悪魔化の能力を使えない」
それに越前は首を横に振って、
「無理だ。炎を発生させることはできても、それを消すことは僕にはできない」
「嘘だろ?」
「嘘じゃない。この状況で味方に嘘をついてどうする」
御言が絶望に満ちた表情へと変化した。悪魔化の能力が使えなければ悪魔とまともに渡り合えないので、勝算はゼロに等しい。
そのことを越前は知っているはずだが……
「んじゃ」
軽く一言だけ告げて、御言を見捨てて比奈の救出へと向かう。
「まじかよ……」
目で追いきれない速度でピンクの甲殻を持つ悪魔が突進してくる中、御言は一か八か賭けに出る。
そして……
御言は悪魔化した。ピノテレスと戦ったときとは異なり、表面はサラサラだが、確かに肌は黒く変色した。
光を浴びれば損傷するのはわかっていたが、それでも使わずにやり過ごすのは不可能と判断してのことだった。しかし、どうやら彼の心配はいらなかったようだ。
炎が発する光量程度では悪魔の体細胞を破壊するには至らなかった。
全身の肌を黒く染めた御言は光によるダメージを負うことなく、少女の悪魔との戦闘に備えて構えた。
瞬間、鮮血が飛び散る。
歪なドリルのような左腕が、悪魔化したはずの御言の腹を刺していた。そして高速で回転しながら御言の腹部をズタズタに引き裂き、辺りに臓物を撒き散らす。
悪魔はしまったと顔を強張らせて、
「やばい、ご主人様に怒られる。悪魔化したから大丈夫だと思ったのに」
おどおどしながら左腕を御言の腹から引き抜く。それと同時に御言の体はパタリと倒れ、それを呆然と見ていた櫛田が悲鳴を響き渡らせる。
その悲鳴で、越前は御言の敗北にいち早く気づき、それまでかろうじて平静さを保っていたさすがの彼も、御言の変わり果てた姿に動揺を隠せない様子。
半ばパニック状態で目の前に立ち塞がる肥えきった悪魔に対し、例の懐中電灯の光を照射しようとする……
が、ピンクの甲殻を持つ悪魔は一瞬にして越前に追いつき、彼の持っていた懐中電灯を涼しい顔で握り潰した。
地面に横たわる御言はその様子を音だけで窺う。
彼の頭にはぼんやりとこんな思考が巡っていた。このままでは自分を含めて全員殺されてしまう。悪魔の力を自分が使いこなしていればほかのみんなを守れたかもしれない。
そして彼の脳裏にある言葉が浮かぶ。
──悪魔の力ってのは便利だぜ? なんたって直感で発動できるからな。お前も覚えておいて損はないんじゃないの? もし悪魔の力を使うときがきたら、とにかく生き残ることだけを考えろ……そしたら勝手に発動してくれるのよ──
いつ誰が言った言葉なのか、信用できる情報なのか、それを思い出せるほど彼には余裕というものはないが、とにかくいまの御言にとって最も有益な情報なのは間違いない。
御言は複雑な思考をあっさり捨ててしまい、ただ生きることに執念を燃やす。
生きる。生きる。生きる。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
「あいつをこの手で殺すまでは……」
心の中で念じていたはずの言葉がつい口から漏れる。
そこから御言の意識はみるみる覚醒していく。傷はあっという間に再生し、体は自然と立ち上がる。
そのときピンクの甲殻を持つ悪魔は越前を一蹴して首を締めている最中だった。
御言はピノテレスを倒したときと同様、人間離れした身体能力を発揮し、一瞬で悪魔に接近。彼女の頭部に強烈な回し蹴りをかまして越前を救い出す。
悪魔は衝撃で飛ばされて塀に頭を打ちつけ、
「いったーい」
と、どこか楽しそうに叫ぶ。
御言は越前に駆け寄ると、彼に向けて真っ黒に染まった手を差し伸べた。
「大丈夫か?」
越前はその手を取ることはなく、忌々しそうに御言の顔を横目で見る。
「顔面まで真っ黒だと目を合わせづらい。どうにかならないのかい」
「我慢してくれ、あの悪魔を倒すまでは」
『倒す?』
御言と越前のやり取りに割り込むようにピンクの甲殻を持つ悪魔が問いかける。
彼女は塀にめり込んだ頭を引き抜き、さらに声にドスを利かせて続ける。
「エゲトの一員であるこのラティアクシスを倒す? さっきから手を抜いてやってるのに調子乗ってない?」
怒っているというよりもどこか悲しそうな表情をして御言にゆっくりと接近する。
左腕のドリルは激しく音を鳴らして回転し、空気を引き裂きながら御言たちに向けられる。
「≪開≫」
悪魔──ラティアクシスは叫び、御言は咄嗟に越前を庇うように突き飛ばした。御言の予想ではドリルが飛んでくるはずだったが、彼にはなにも飛んでこない。
攻撃どころか光すらも。
視界が真っ黒になった御言は動揺して無防備になり、背後からの攻撃をあっさり許してしまう。
今度は御言が勢いのまま塀に顔面を打ちつけ、さらに衝撃で脳震盪を起こす。
いくら悪魔化で表面の強度が上がろうとも体内の強度はそのままなわけで、彼の体は脳震盪のほかにも内蔵破裂を引き起こしていた。
ラティアクシスは無邪気に笑う。
「あっははははは、ラティーのほうが強いんだから」
嬉しそうにする彼女の周囲に今度は火の手が上がる。先ほどよりも力強い火柱が所狭しと発生し、ラティアクシスを焼き尽くす。
越前はズレた眼鏡を指で調整すると、知的な口調で告げる。
「これが僕の出せる本来の火力さ。さっきは学校に燃え移ったら困ると思って手加減していたけど、どうやら悪魔相手に手加減はしないほうがよさそうだ」
御言が復活し、ラティアクシスに有効打を与えたことで、越前の士気も少しだけだが回復していた。先ほどの怯えきった様相は感じさせない。
だが次の瞬間、越前の体は吹き飛び、数十メートルもアスファルトの上を高速で転がり続け、彼は意識を喪失した。
越前を蹴り飛ばしたラティアクシスは体に高熱の炎をまといながらも依然平気な顔で、残りの二人──ナギハヤと櫛田を探して周囲をキョロキョロと見回す。
御言たちがラティアクシスと戦っていた間、ナギハヤたちは比奈を丸呑みにした悪魔に懐中電灯の光を当て、その巨体の八割をドロドロに溶かしていた。
そして、上半身だけ見えている比奈を引っ張り出そうとしているところで丁度ラティアクシスがそれを目撃する。
「うわ、いつの間に。なんてむごいことを」
ドロドロに溶けた悪魔を見て泣きそうな声音でそう口にすると、弾けるような動きでナギハヤに急接近して彼の首を締め上げる。ナギハヤは首を締められた状態のまま音をひねり出すように声を発する。
「櫛…、比奈を…れて離れろ! こ……離じゃ、使え…い」
ところどころ発声できていないが、それでも櫛田には言いたいことが理解できた。
自分と比奈がいるせいでナギハヤが自身の能力を使えない。だからとっとと比奈を救出してこの場から離れなければならない。
しかしながら懐中電灯はすでに電池切れを起こしていたため、巨体の悪魔をこれ以上溶かすことはできず、櫛田はほぼ腕力だけで比奈を悪魔から引き離さないといけない。
ナギハヤは首を締められ、越前は遠く離れたアスファルトの上で気絶。そして御言もいまだ脳震盪を起こして塀に突き刺さっている。
もはや櫛田しかその状況を覆せる者はいない、ナギハヤも櫛田もそう思っていた。
そのときだ。
ナギハヤの首を締めていたラティアクシスの右腕が突然千切れ、塵となって消滅する。
次に声が響く。
「おい小僧、大丈夫か?」
一人の男がナギハヤの頭に手を乗せて髪をクシャクシャにするように撫でる。
金髪に青い瞳、口にタバコを咥えて、片手に百科事典のように分厚い本を見開いた状態で持っている。牧師の服装とスーツを足して二で割ったような独特な格好をした三十代くらいの男だ。
その男は燃え盛る道を一瞥し、顔をしかめると、面倒臭そうに本のページをめくり空間に指で簡単な幾何学模様をえがく動作をとる。
直後に本が青白く光り始め、なにもなかった空間に青白い光の魔法陣が出現する。いや、これは魔法陣というよりも文章といったほうが正しい。一般的にゲームやアニメで目にするような五芒星や六芒星があしらわれた宗教的なデザインとは異なり、数式といくつかの文節が交わったデザインをしていた。
その魔法陣から前方に向かって冷気の風が吹き荒れ、ほんの数秒で火の海が消える。同時に空間に浮いていた魔法陣もかき消えた。
ラティアクシスはその男に向かって声を張り上げる。
「あなた誰? ラティーの邪魔しないでよ」
それに本を持つ男はやはり面倒臭そうに及び腰で答える。
「誰……? おかしなことを聞くな。これから駆除する害虫にわざわざ自己紹介すんのはどう考えても変だろ。よって、名乗るつもりはない。名乗るの面倒だしな」
そして彼らが対峙しているあいだ、櫛田にも助っ人が現れる。
本を持った男と全く同じ服装で二十代くらいの金髪青眼の男。ホストのようにふんわりヘアーにセットしているチャラそうな雰囲気の男が櫛田の足元にガラス瓶を投げつける。
刹那、辺り一帯をまばゆい光が包み込む。
その光を浴びた巨体の悪魔は跡形もなく蒸発し、同時に塀に頭がめり込んでいた御言にもその閃光の被害が及ぶ。
幸いにも頭は塀の中に隠れていたため無事だったが、袖の先から露出していた右手は綺麗に消し飛んだ。
丁度そのときの痛みで意識がハッキリと戻り、御言は自力で塀から頭を引っこ抜いた。
そしてチャラそうな男は本を持つ男に、
「こっちは大丈夫だよ、そのちっちゃいの片づけたら終わりだ」
「ああ、すぐ終わらせる」
本を持つ男は魔導書のような本から淡い光を放ちながら空間で指を踊らせ、魔法陣をえがく。
ラティアクシスはそれをさせまいと左腕を荒々しく回転させながらその切っ先を男の眉間へと……
だが、ドリルが眉間に到達する前に、本を持つ男が口にする。
「≪強制解除≫」
彼の発声とともに魔法陣が砕け、ラティアクシスに無数の斬撃が飛ぶ。体の至る箇所が裂け、左腕も肩の根本から切断されるが、すぐに両腕とも再生を始める。
悔しそうに顔を歪めながらラティアクシスはもう一度男に向けて腕を伸ばす。が……
『そこまでです』
突如ラティアクシスと本を持つ男のあいだに朝倉が飛び込んできた。
黒いスーツを着ているせいなのか誰一人として彼の接近に気づけず、テレポートでもしたみたいに、ふとその場所にいたという状態だった。
本を持つ男は即座にバックステップで距離をとり、不敵な笑みを浮かべる朝倉に対して敵意を剥き出しにした言葉をぶつける。
「一体何者だあんた?」
緊張感のある声音とは真逆で、朝倉は軽い口調で返す。
「私は朝倉と申します。見てのとおりただの教師です」
「ふざけてるのか?」
「いいえ……よく言われますが、ふざけてはいません。真面目さが私の唯一の美点と言ってもいいくらい私は真面目なんです」
と、ニタニタと笑いながらふざけたように返す朝倉に、本を持つ男はより一層不審感を募らせる。
その場から一歩も動こうとしない朝倉に、ラティアクシスが歩み寄り、
「こ、殺されるかと思った。ご……」
と、なにか言いかけるが、途中で朝倉が口元を鷲掴みにし、そして威圧するように低い声音で言い放つ。
「やれやれ、こんなものに手こずるとは情けない話ですね」
そう言ったあと、朝倉はラティアクシスの口元を握力だけで握り潰して砕いた。
さらに砕いた口元から頭部に向けて手を突き刺すと、すぐにそれを引き抜く。直後にラティアクシスの肉体は指先一つ残さず粉塵となって消滅した。
何食わぬ顔で朝倉が続ける。
「月読くん……と、ついでにそちらでボロボロになられてる梛くんたちにも言い忘れていました。悪魔は核と呼ばれる部位を破壊しなければ死にません。逆に言えば核さえ破壊すれば一撃で倒すことが可能です」
次に朝倉は本を持つ男とチャラそうな金髪の男にも告げる。
「それとあなた方にも言いたいことがあります。教え子たちのせっかくの補習授業です。邪魔をしないでいただきたい」
その言葉に本を持つ男は眉をひそめ、
「補習授業? どう見ても殺されかけてたが」
口に咥えていたタバコを口元から離し、それを朝倉に向かって放り投げた。
タバコは朝倉の胸元に軽く当たり、そのまま地面に落ちるが朝倉は特に動じない。
さらに本を持つ男が続ける。
「あんた本当は何者だ? ただの教師が素手で悪魔を握り潰せるわけねーだろ」
それから二人の会話が進んでいく。
「あなたこそ何者です? 烙印つきがこの町になんの用でしょうか」
「烙印のことを知ってるってことは、やっぱりあんたイストリアの人間か……どこの所属だ?」
「平和を愛する南国の公務員ですよ。こちらに敵意はありません」
両者が沈黙して次第に空気が重々しくなる。
いつの間にか朝倉も笑みを浮かべてはいるもののどこか威圧的で、とても会話を遮れるような雰囲気ではない。
が、チャラそうな雰囲気の金髪の男が、重たい空気などなんのそので軽い口調で沈黙を破る。
「ボクはヴィクセン・スチュアート、そしてこっちがグリフィス・ブラウン。もうわかってると思うけどボクたちはイストリアの魔術師だ」
グリフィスが怒声を放つ。
「お前、なに喋ってんだ?」
そして塀のそばでそれを聞いていた御言はイストリアという言葉に反応した。
まだぼんやりとしている頭をどうにか回転させて思考を巡らせる。イストリアという言葉になぜか聞き覚えがあったからだ。
魔法世界──イストリア。
それをなぜ御言が知っているのか、もちろん本人にもわからない。
彼らのやり取りを聞いていればその答えが得られると考え、しばらく朝倉たちの会話に聞き耳を立てた。
朝倉がニヤリと笑みを浮かべて口を開く。
「知ってますよ、すでに調査済みです。あなた方は祖国を裏切り楽園送りにされた哀れな罪人たち……そして目的は異世界イストリアに帰ること」
グリフィスは朝倉の『裏切り』という発言に眉をピクリと動かす。
「裏切ったわけじゃない。裏切られたのは俺たちのほうだ」
それをヴィクセンがなだめる。
「まあまあ、それはここで話しても仕方ないでしょ。それよりもこの人が事情を知ってるなら話は早い。交渉次第ではボクたちをイストリアに帰してくれるかもしれない」
一つの解決策を見出だすが、朝倉はきっぱりと首を横に振った。
「いえ、私も罪人をイストリアに連れ帰るほど暇ではないので、あなた方のお力になるつもりはありません」
直後にグリフィスは踵を返す。
「戻るぞヴィクセン。こいつと話しても時間の無駄だ、俺たちは俺たちのやり方でイストリアに帰る」
ヴィクセンもそれに頷き、
「そうだね、焦る必要もないし、ここで言い争うくらいなら宝器を捜索したほうがボクたちには有益かもしれないね」
二人の魔術師はそのまま夜の闇に消えていく。
それまで黙って話を聞いていた御言は、疲労と負傷、そして危機的状況を脱した安堵からなのか、意識を失う。
彼の肉体は悪魔と死闘を繰り広げたとは思えないほど傷一つない綺麗な状態で、消滅したはずの右手も完全に再生した状態だった。
そして、事件から数週間が経過。
≪月の影≫の活動はすっかり停滞し、ナギハヤと櫛田は悪魔がトラウマとなり、幽霊都市や悪魔の話題は事件以前より明らかに減少した。逆に御言は今回の事件によってイストリアという魔法世界や魔術師の存在に興味を示すようになる。
比奈は記憶が曖昧でラティアクシスに反撃されたことや巨体の悪魔に呑み込まれたことを覚えていない。そのためナギハヤたちに比べればまだ元気なほうだ。
ただ一人、越前だけは病院のベッドの上で意識不明のままだった。