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月に咲くプリムローズ  作者: 音無哀歌
プロローグ
3/17

泣き虫のドッペルゲンガー

 月読御言が目覚めたのは、普段使っている硬いベッドの上。

 彼はゆっくり起き上がると、苦い笑みを浮かべて見慣れた自室の天井を目に映す。

「そりゃまあ夢だよな、いくらなんでも俺の家に化け物が訪問してくるなんて、そんな馬鹿なこと……」

 と、目覚めたばかりの御言はそう言いながら自分の部屋を一瞥する。

 割れた床、ボロボロの壁、血がべっとりとついた卓袱台……

「くそ……現実だったか」

 げんなりしてため息をつくと、硬いベッドに腰を下ろしたまま卓袱台の上に置かれた紙切れに手を伸ばす。

 彼にとって見覚えのないその紙切れは、ある人物からの書き置きだった。

 御言はその紙に書かれてある文章を声に出して読み始める。

「えーっと、なになに……退院おめでとうございます。誠に勝手ながら手続きをこちらで済ませ、お体をご自宅まで運んでおきました。ついでに損壊した壁などの補修工事も私のほうで手配しております。なお、医療費や工事費は全額免除になりますが、あなたの今後の態度によっては全額負担に変更となる場合がございます。ご了承ください。また、今回の件については他言無用でお願いしますね。担当医の朝倉より」

 御言はしばらく沈黙し、それから思い出したように置き時計に目を向け、

「もうそろそろ学校が始まる時間だな」

 その脅迫文のことは意識の外へと追いやり、気持ちを切り替えた。

 昨日の病院で朝倉が言ったとおり、手足はなに不自由なく動かせる状態で、麻痺していたのが嘘のようである。

「体もちゃんと動くみたいだし、今日も登校できそうだな」

 労るほどの疲れも感じなかったため、御言は身支度を速やかに済ませて遅刻しないように早めに家を出た。

 学校では昨日の出来事など忘れて何食わぬ顔で普通の学生として過ごそう。などと思っていた御言だが、いざ学校に着いてみれば昨日のことばかりが頭に浮かぶ。

 血反吐を吐くほどの重体だったのが、一睡しただけで退院できたのはなぜか。朝倉が化け物のことを悪魔と呼称していたが、悪魔とはなんなのか。ピノテレスはなぜ御言の住所を知り得たのか。などなど、挙げていくとキリがない。

 特に彼が気になっていたのは肉体の変化についてだ。ピノテレスと対峙したときに発現した皮膚の黒化と硬化。

 ≪境界≫という現象が発生してからというもの、世界各地で魔術師や超能力者が確認されるようになったというが、御言がそのうちの一人になった可能性は十分にありうる。もしそうなら超人的なその力を使いこなせるようになるべきであると御言は考えていた。

 彼は授業中で周りに人がいるにもかかわらず、教室で席に着いたまま力を使ってみようと試みていた。

 右腕を、頑丈に。

 ただそれだけを考え腕の一点を見つめ……

 彼の右腕はあっさり変化した。あのときと同じように黒く変色し、表面がポリゴンのように角ばっている。

 ただし、彼の想定とは多少異なる変化だ。

 誰にもバレないように右腕の一部分だけを変化させるつもりでいたが、実際に変化したのは右腕全体。

 一見すると黒曜石のように見えるその腕は、誰が見ても異質そのもの。ほかのクラスメイトが見たら騒ぎになるのは間違いない。

 腕をそのままにしていては御言にとってかなり都合が悪いので、すぐに元の腕に戻そうと思考するが……

 その矢先だった。

 なにかが蒸発するような音とともに変質した右腕の表面が砕けて霧散し、純黒色だった腕は真っ赤な血の色に染まる。

 皮が剥離してしまった腕を庇いながら、椅子から崩れるように床に転げ落ちた御言は、教室中に苦痛の声を轟かせた。

 途端にクラスにいた全員が御言に目を向け、そのあられもない状態に騒然となる。

 そう、こんなものは通常ならありえない。授業中に腕が血だらけになって悲鳴を上げるなど常軌を逸している。

 クラスメイトたちの様子も、常識を覆す事態のせいか心配よりむしろ困惑のほうが強い。とはいえ、教師に判断を仰ぐ冷静な生徒も何人かいた。

 中でも御言の隣席に座っていた音羽は、物怖じせずに落ち着いた声音で悶え苦しむ御言に声をかけた。

「御言くん、大丈夫?」

 しかし返答はない。彼に言葉を発せるほどの余裕はなかった。

 立ち上がれないほどの激しい痛みが右腕全体を覆い、ただ苦痛に顔を歪ませながら床の上で悶えることしかできない。

 御言は意識すら朦朧とした状態で、血だらけの腕にタオルを巻かれ、奇異の目にさらされながら先生と二名の生徒によって保健室に運ばれることとなる。

 それから早数時間が経過し、生徒たちは昼休みを迎えていた。

 各々は校庭に出て運動をしたり、食堂で昼食をとったり、いくつか用意された娯楽室で遊びに没頭したり……と、自由に時間を使う。

 だが、清水音羽は多くの生徒とは異なり、昼休みが始まっても教室から動こうとはせず、物思いにふけていた。

「御言くん、どうしちゃったんだろう……」

 彼女を含め、二年一組の生徒で午前中をまともに過ごせた者はいない。

 クラスメイトの一人が腕を血だらけにしながら悲鳴を上げていたのだから、みな勉学どころではなく、特に音羽はほかの生徒にも増して御言のことが気がかりだった。

 そんな彼女の視界に突然ひょこっと一人の女の子が顔を覗かせてくる。

「御言くんって月読センパイのことですよね? 月読センパイがどうかしたんですか?」

 興味津々な面持ちで尋ねてきたのは、サイズの合っていないブカブカの桃色セーラーを着た小学生くらいの身長の女子生徒で、名は桜野比奈。

 紺色のブレザーが指定の制服である二年一組において、比奈の姿はよく目立つ。外見が幼いのでなおさら目立つ。

 とても高校生とは思えないその体格、そして見慣れない制服姿の比奈に、音羽は躊躇いもなくこう返す。

「小学生……だよね?」

 少しの悪気もなく発せられた言葉に比奈はほっぺを膨らませて、

「小学生じゃないですよ! ヒナはれっきとしたこの学校の生徒です!」

 そう言って胸を張って主張するが、やはりどう見ても小学生なわけで……

 音羽はどうしても信じられず、ただただ困ったように笑う。

 すると、近くにいた男子生徒がさも常識でも語るかのように横槍を入れる。

「知らないのか清水? 一年生の桜野比奈ちゃんだよ。学園一の美少女ロリの」

 この熱く語る男子生徒は梛隼人(なぎはやと)。御言や音羽のクラスメイトにして、開校二日目で違う学年の女子生徒の顔と名前を把握してしまう記憶力と行動力のある残念系男子だ。

 負傷した御言を音羽と一緒に保健室へ運んだのも、この梛隼人──通称ナギハヤだった。

 不意に現れたナギハヤに目を丸くする二人だったが、比奈はすぐさま何事もなかったかのように音羽のほうを向き直し、

「それより月読センパイになにかあったんですか?」

 話を強引に戻した。音羽も比奈と同様にナギハヤを無視して会話を進める。

「うーん、信じられない話なんだけど、今朝教室で大怪我しちゃって……突然だよ? ただ席に座ってただけなのに。それでいまも保健室で休んでるの」

「またですか……月読センパイ、昨日も病院に搬送されてましたけど、今度は一体全体どんな怪我なんですか?」

 比奈は呆れたように返し、さらにここで質問する側と質問される側が入れ替わる。

「御言くんが病院に? でも昨日は入学式だったよね」

「学校が終わった後ですよ。夜十時くらいの話です。昨日は月読センパイ、黒い化け物と戦ってました」

 まるで自分もその場にいたよ、と言わんばかりの比奈。実際その場にいたのだから当然といえば当然だが、音羽には化け物というくだりも含め、全てが子供のデタラメにしか聞こえない。

 とはいえ、比奈の表情が真剣そのものなので、完全に疑うこともできずにいた。

 そして、比奈に反応したのは音羽ではなくナギハヤだ。

「もしかして、その化け物ってのは赤い目をしてなかったか?」

 比奈は宙空をぼんやりと見上げ、昨日の出来事を少しずつ思い起こしながらその変哲な質問に答える。

「赤かった気がします。体は黒いのに目だけ赤く光る感じで……で、それがどうしたんですか?」

「じゃあ、場所はどこだ? まさかこの町じゃないよな?」

 ナギハヤは食いつくように比奈に疑問をぶつけ、はたから見ていた音羽にとってそれは尋問にすら見えた。

 比奈も思わず不審そうに答える。

「月読センパイの家ですよ。ヒナも一緒にいたので確かな情報です」

 それを聞いたナギハヤが大きく目を見開いて取り乱す。

「幽霊都市じゃないだと? あいつらあの町から出られるのかよ……こりゃ大スクープだ」

 この世の終わりみたいに騒ぎながらそれだけを言い残し、彼は教室から去っていった。

 その様子を残った二人が呆然と見送り、音羽のほうから会話を再開する。

「えっ? 御言くんの家にお邪魔してたの?」

「はい。学校の帰りに意識を失って……気がついたら月読センパイの家にいました」

 あっさりと肯定し事実を述べる比奈だが、話が断片的すぎたせいで音羽は変に受け取ってしまい、誰にも聞こえない声でブツブツと、

「御言くんは確か一人暮らしだったはず……まさかあの御言くんに限って、幼い女の子を家に連れ込むなんてそんなことは……」

 呟きながら顔面を蒼白させていく。なにを言っているのかさっぱり聞き取れない比奈は、気遣わしげに尋ねる。

「月読センパイのこと、気になります?」

「へ……? べ、別に気にはなるけど! 好きとかそんなんじゃ」

 顔面蒼白から一転、音羽は顔を火照らせる。

 それに比奈は半眼になって、

「誰も好きかどうかなんて聞いてないですよ。月読センパイが化け物と戦った話とか、教室で血だらけになった話について気になるか聞いてみたんです」

「あっ……」

 そこで音羽は自分の早とちりに気づき、さらに一層顔を赤らめる。

 昨日の夜、御言とのメールのやり取りを見たからか、彼女は妙なところで過敏になっていた。

 一連の反応を見た比奈は、音羽がそういう感情をいだいているものだと決めつけ、他人の秘密を握ってしまったと心の中でほくそ笑む。

 だが、それを態度には表さず自然に話を戻す。

「化け物と戦ったとき、月読センパイも化け物みたいに変身してました……きっとなにか特別なパワーを隠し持ってるに違いないですよ」

「特別なパワー?」

「そうです。ちょっとヒナも色々調査してみるので、協力してください。えーっと……なにセンパイですっけ?」

「私は音羽だけど……」

「音羽センパイですね。月読センパイの監視を頼みましたよ!」

 比奈は強引に話を進めて返事すら聞かずに教室を出ていく。

 教室に残された音羽は呆気にとられて返事こそはできなかったものの、一応御言の監視役になることを快諾していた。

 しかしながら、彼女は言われずとも御言を監視していたかもしれない。

 実は音羽にはメールのやり取りとは別に、御言のことで気になることがあった。それは今朝見た夢だ。彼女はその夢の内容を一つ一つ思い返しながら、その夢が暗示するものについて思考を巡らせた。

 一面に広がる湖と澄み渡る青い空。水面には空に浮かぶ雲が映り込み、大きな鏡のようになっている。

 八面体の物体が空の至る場所に浮いているが、それ以外はなにもない。

 水と空と菱形だけ。

 音羽はそんな幻想的な夢の世界にいた。しかもそれは明晰夢であり、自分が夢の中に迷い込んでいることを自覚している。

 意識が鮮明だがほっぺをつねっても痛くない。服装はパジャマのままで裸足、しかし足裏に触れているはずの水を冷たいと感じることもない。

 臭いもない。音も聞こえない。体は動かせるが感覚がない。

 本当に水と空と菱形だけしかない空間をふらーっと歩くだけの夢……

 だが、歩いているうちに変化があった。

 声だ。

 それまで音もなかった世界に啜り泣くような少女の声が響くようになる。

 つらそうに嗚咽し、その度に水面に波紋が立つ。音羽は次第にその少女を助けてあげたいと思うようになり、声のするほうへと足を進める。

 近づくにつれて少女の声が鮮明になっていき、すぐそばまで寄ると小さな声でなにか呟いているのが音羽にも聞き取れた。

 少女は水面にうずくまるように座り込み、目からあふれる涙を両手で拭いながら言う。

──どうして殺したの?──

 泣きながらその女の子──もう一人の音羽は確かにそう言った。

 なんで泣いてるの?

 もう一人の自分にそう問いかけたかった音羽だが、声が出せない。この夢の世界では泣いている音羽が発する声しか音にならない。

 ふとある物体が視界に入った音羽は、その物体こそもう一人の自分が泣いている原因だと悟る。

 泣いている音羽のそばに浮かぶ、バスケットボールくらいの大きさをした無機質で黒い八面体。ほかは上空に浮かんでいるのに対し、これだけが地上近くに存在している。

 一体なんなのだろうか、と音羽はその八面体に手のひらをつける。

 すると、彼女の見る景色がぱっと変わり、広がっていた水面と青空は見えなくなり、さっきまで泣いていた音羽もその姿を消す。

 代わりに見えてきたのは真っ暗な場所、暗くてジメジメしたカビ臭そうな場所だ。無論、夢の中なので臭いはわからないが、陰湿な雰囲気だけは十分伝わってくる。

 周囲を見回そうとする音羽だが、視点を動かすことはできない。先ほどまで自由に動かせた体は、彼女の言うことを全く聞かなくなっていた。

 ただ音羽は目の前にいる御言を──小動物のように怯える御言をじっと見据え……

 歪な形をしたナイフのようなもの、どこか呪われていそうな禍々しいフォルムの刃物を御言の胸に突き刺す。

 音羽の意思とは関係なくナイフで容赦なく胸をえぐる。途端に真っ赤な液体が止めどなくあふれ出てきて、足元に赤い水たまりができあがる。

 そしてもう一度、泣き叫ぶような自分自身の声が音羽の耳に届く。

──どうして御言を殺したの?──

 まるでテレビの電源を切ったみたいに、彼女の視界はそこで途切れ、不気味な夢は終わりを迎える。

 これが朝、学校に来る前に彼女が見た悪夢。

 普段からあまりそういう類の夢に遭遇しない音羽は、なにかの暗示だと考えた。自分がその夢を見せられたのにはなにか特別な理由があるのだと……

 教室で一人、御言の身を案じて小さく呟く。

「よし、御言くんが危険な目に合わないように見張っていよう」

 そう心に決めたのだった。

  ◆

 保健室に運ばれていた御言はベッドの上で静かに目を覚ます。

 そして、絶妙なタイミングで傍らにいた人物が御言に話しかけた。

「やれやれ……あなたは、よっぽど医療用のベッドがお好きとみえますね」

 声をかけたのは朝倉臥魔(あさくらふすま)だ。

 病院にいたときと同じ服装。黒いスーツに黒いサングラス、オールバックの髪でいかにも怪しげな雰囲気の男。

 御言はその男の声で一気に目が覚め、頭が冴え、声を荒立てる。

「朝倉、なんであんたがここに」

 それに朝倉はサングラスを黒光りさせながら、丁寧な口調で返す。

「朝倉先生と呼んでほしいものです。ずっと思っていましたが年上に対する接し方が全然なっていませんね……つかぬことを尋ねますが敬語というものはご存知ですか? もし覚えがないのであれば小学校の教育から受け直すべきかと」

「無論、それくらい知って……」

 強めの口調で返そうとするが、ここで御言は思い出したように腕の痛みに悶絶し、言葉を詰まらせる。

 朝倉は肩をすくめて、

「どうしたらこんな大怪我を……教室でなにがあったんです?」

 不敵な笑みを浮かべてどこか楽しそうに返答を待つ。

 御言は腕の痛みがある程度引いてから、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「腕を、黒く……」

 と、そこまでしか口にしていないのに朝倉が納得してほくそ笑む。

「なるほど、やはりそうでしたか」

「なんだよやはりって……俺の腕に一体なにが起きたんだ?」

 聞いてから御言は右腕を確認する。

 表面は焼けただれたように荒れているが出血はない。信じられないことに、剥離したはずの皮が再生し、治るまでに何か月もかかると思われた怪我が、完治一歩手前の状態にまで回復していた。

 御言は思わず目の前にいる闇医者にしか見えない男を問い詰めた。

「なんで、もうここまで治っているんだ。この腕、本当に俺の腕なのか、どんな荒療治をやったんだ?」

 それに朝倉は落ち着いた口調で返す。

「そんなに心配なさらずとも、私はなにもしていませんよ」

 そう言われて、なにもしていないのか、と一安心……できるわけもなく、

「じゃあ誰が俺の腕を治療したんだ?」

「あなたです」

 朝倉は即答するが、御言は自分の腕を治療した覚えなどもちろんない。理解できず唖然としていると、そのまま朝倉が続ける。

「月読くんはおそらく悪魔の力を吸収したのかと。悪魔の中には肉体の硬化や高速再生をおこなう者がいるので、その力に起因しているのでしょう。もしかすると月読くんは他者の能力を複製する力を持っている可能性がありますね」

 それを聞いて御言は昨日の出来事をふと思い返す。

 彼の体が変化するようになったのはピノテレスという悪魔が体内に侵入して間もなくだった。それを考慮すれば朝倉の推測は正しいのかもしれない。と、御言は概ね納得するが、一つだけ不明な点があった。

「じゃあ、なんで俺の腕はこんな悲惨なことになったんだ? 力が暴走したとか制御しきれなかったとかそんな理由か?」

 その質問に朝倉は首を横に振る。

「いえ、腕が損傷した理由ですが、下級悪魔は光に弱いので一定以上の強い光を浴びると体の組織が破壊され消滅します。きっとその性質までも再現した結果かと……なるべく明るい場所での能力使用はさけたほうがいいですね。万が一にも直射日光を浴びていたならきっとあなたの右腕は跡形もなく消滅していたことでしょう」

 朝倉はニヤけ顔で楽しそうに言うと、そのまま保健室から出ていく素振りを見せ、御言は慌ててそれを呼び止める。

「待ってくれ! いくつか聞いておきたいことがあるんだが」

「待ちません。私はほかの仕事が残っているのでこの辺で失礼させていただきます。あなたもこれから忙しくなることでしょうし、まずは休息に努めてください」

 捨て台詞のように言い残して保健室をあとにする。それから、

「面白いことになりそうです」

 薄い笑みを浮かべながら小さな声量でそう口にするが、その様子を窺い知ることができた者はいない。

 保健室に残された御言は腕の処置をどうするか思考する。

 溶けたアイスのように血を滴らせていた右腕が、その日のうちに火傷痕程度にまで回復するのは誰が見ても不自然な光景……

 いや、不自然どころか御言が人間かどうかすら疑わしく思えてくるはずだ。

 御言は少しでも自然に見せるため右腕全体に包帯をグルグルと厚く巻きつけ、あたかも怪我がまだ酷い状態であるかのように繕う。

 そして包帯さえ外れなければバレることはないと高をくくって保健室を出たそのときだ。

 廊下で待ち伏せしていた一人の男子生徒が御言に声をかける。

「よお月読、右腕の具合は良さそうだな」

 少しふわっとした髪に、気だるそうな瞳。御言と同じデザインの制服を御言とは対照的にだらしなく着ている生徒。

 呆気にとられて言葉を返せない御言に、彼は気取ったようにこう続ける。

「まさか俺のこと覚えてないのか? お前の後ろの席に座ってる梛隼人(なぎはやと)だ。親しみを込めてナギハヤって呼んでくれ」

 そう言って髪をかき上げたナギハヤの顔には、なぜか自信に満ちた笑みが浮かぶ。

 この段階で御言は億劫になっていた。できればこの生徒とは関わりを持つべきではない、面倒なことに巻き込まれそうな気がする、と。

 だが、御言に言葉を返すような間は与えられず、ナギハヤは声のトーンを落として御言にかろうじて聞こえる声量で囁く。

「さっきの話、全部聞いてたぜ。お前も能力者なんだろ?」

 御言はそれに半眼になって返す。

「立ち聞きかよ、趣味が悪いな」

「仕方ないだろ? お前と先生が馬鹿でかい声で話すのが悪い。安心しろ、一応俺も能力者だ。誰かにバラしたりはしない」

 と口にしているものの、彼の言動は終始軽々しく見えるため、そんな言葉を受け取っても御言は信じられなかった。

「本当かよ? だったら証拠を見せてくれ」

「それは無理だ」

 ナギハヤは即答し、疑いをかけられてもなお堂々とした態度を崩さない。

「俺の能力はここでは使えない。そんなことよりも……あの朝倉って先生は何者なんだ?」

「それは俺が知りたいよ。悪魔祓いが専門とか言っていたが、実際どうなんだか」

「となると祓魔師かなにかか……そういやお前さ、幽霊都市の秘密について知りたくはないか? 実は耳寄りの情報があるんだ」

 彼はそう言うものの、一切公表されていない幽霊都市の謎をたかだか男子高校生なんぞが知っているわけがない。

 と普通ならそう考えるが、月読御言は違う。

 別に彼を完全に信じたわけではないが、ナギハヤがなにかしらの秘密を知っているという可能性を捨てきれなかった。

 なにより、御言自身の中にある幽霊都市への飽くなき探究心が囁いていた。ナギハヤの話に耳を傾けるべきであると。

「一体なにを知っているんだお前は」

「さー? それが知りたいんなら、俺についてきな」

 煽るようにそう言い、廊下を歩き進み始める。

 しかし御言はその場から動じずにナギハヤの背中に向かって、

「どこに行く気だ。授業はどうする?」

 それにナギハヤは立ち止まらずに背中を向けたまま返す。

「バーカ、いまは昼休みだからあと数十分は時間が取れる。いいから黙って俺についてきな」

 それでも御言はナギハヤを追いかけようとはせず、立ちすくんだままやり取りを続け、そして互いに距離が開いていくほどに二人の声量も増していく。

「もう昼休みなのか。それなら先に昼食が食べたい」

「あー、だったら極上ステーキを食わせてやる」

「本当か⁉ それは楽しみだ……って、そんなわけあるか! どこでそんなものが食えるんだ」

「知らねーのか? 学食のメニューにはステーキ定食が……」

「学食は来週から、だ。まだやってない」

「そういやそうだった……なら来週学食始まったら奢ってやるから」

「その約束忘れるなよ? ステーキ定食奢ってもらうからな」

 という会話を繰り広げ、結局御言はナギハヤの後を追いかけた。

 それから校内を歩くこと十分。生徒数が二千五百人を超えるマンモス校なだけあって敷地内は広く、目的地に着くのにそれほどの時間を要した。

 二人は現在使われていない校舎の最上階、三階の端にある教室の前に来ていた。

 着いて早々に御言は呆れながらに言う。

「なんでわざわざこんなところに俺をつれてきたんだ?」

「そいつはな……」

 ナギハヤはスライド式のドアを豪快にあけ放ち、

「ここが俺たちの拠点だからだ」

 教室の中に手を向ける。

 未使用の教室なので中は空っぽ……のはずなのだが、なぜか学校に似つかわしくないモダンなソファーやリビングテーブル、本棚などが置かれていた。

 壁面にはロッカーが三つ鎮座しており、一見するとなにかの部活動で使われている部屋のようにも見える。

 まるで異次元にでも迷い込んだみたいに目を丸くしながら教室内に入った御言は、ソファーに座っていた一人の女子生徒と目が合う。

 キャメル色のブレザーを着たボブカットの女子生徒。その少女は子供っぽさを感じさせないおっとりとした口調で御言に話しかける。

「新人さん? 初めまして、私は一年生の櫛田世利(くしだせり)です」

「は、初めまして、俺は二年の月読御言」

 そしてナギハヤが御言のあとに続き、

「月読、お前を歓迎する……ようこそ、異能力者特殊秘密機関、≪月の影≫へ」

「特殊秘密機関……? なんだって?」

 御言が目を点にしながら聞き返すと、ナギハヤは誇らしげに演説を始める。

「≪月の影≫は異能を持った月見ヶ丘高校の生徒によって構成された秘密組織。月見ヶ丘町を守る任務を人知れず請け負っている。幽霊都市に巣食う化け物がこの町に現れないのがなぜかわかるか? 俺たち≪月の影≫が撃滅してるからだよ」

 すかさず櫛田が言葉を付け加える。

「という設定です。確かに私たちは超能力を保持していますが、実際のところ事件事故を解決したことなんてないんですよね」

 それにナギハヤは若干キレ気味になり、

「おい櫛田、設定ってなんの話だ?」

 だが、櫛田は悪戯っぽく笑い、そのまま御言へ耳打ちを続ける。

「ナギハヤ先輩は超能力をどうしても有効活用したくて秘密組織という設定のサークルを始めたんです。学校に了承は得ていませんし、この教室も無断で使っているので見つかったらまずいんですけどね……メンバーは現在、月読先輩を含めて四人です」

「ちょっと待て。いつ俺がその≪月の影≫に加入するって言った?」

 非協力的な態度を露わにする御言に対し、ナギハヤは彼の肩をがっしりと掴み満面の笑みを浮かべる。

「異能を持った奴は誰だろうと強制参加だ。従わない場合は、お前が必死に巻きつけた包帯をクラスメイトの前で脱去(パージ)してやる。そうするとどうなるかわかるよな? お前の驚異的な回復能力が世間に露呈することになる……つーわけで、よろしくな」

「よろしくな……じゃねえよ。お前がそんなことをした日には、この教室を無断で魔改造して使っていることを教師たちに密告するぞ」

 面倒事を嫌う御言にとって、子供のお遊戯に付き合うのはナンセンスだ。具体的な活動内容はまだ把握していなかったが、現状ではごっこ遊びにしか見えていなかった。

 その心中を察したのか、ナギハヤは御言が聞きたかったであろう話を、真剣な面持ちで説明し始める。

「まー、断る前に一度俺の話を聞け。地図で確認してもわかるとおり、月見ヶ丘と幽霊都市は距離が近い。歩いていけるくらいの距離しか離れてない。なのに幽霊都市で度々目撃されてるっつー化け物……お前と朝倉先生は確か悪魔と呼んでいたな。その悪魔はなぜ月見ヶ丘に現れないのか、謎だと思わないか?」

「この町に侵入した化け物はお前たちが駆逐しているんじゃなかったのか? その設定はどこに消えた」

 御言が小馬鹿にしたように揚げ足を取るが、ナギハヤは無視して続ける。

「もしかしたら最初から化け物なんていないのかもしれないと、俺はそう思った。だからそれを確かめるために放棄された下水道を通って幽霊都市に侵入してみたんだ……結論から言うと幽霊都市には確かに化け物がいる。これがその証拠だ」

 本棚から一枚の写真を持ち出して、それをテーブルの上に置く。

 写真には真っ黒な体をしたミイラのような人型が、赤い瞳を不気味に光らせて町の中に突っ立っていた。

 御言はその写真を見て、

「俺が遭遇したやつと特徴が似てるな」

 ピノテレスと同種の存在であると結論づけた。

 ナギハヤが続ける。

「しかもな、その化け物は人の言葉を発したんだよ。もうすぐ魔術師が来る、そしたら極夜の世界が完成する……ってな」

 と、ここまでの話を聞いた御言は先ほどの態度から一変、≪月の影≫に少しばかりの興味が湧いていた。

 当初は子供の遊びだと決めつけ、ナギハヤたちをどこか遠い目で見ていた彼だが、いまは違う。活動をともにすることで幽霊都市の秘密に近づける、そう予感した。

「魔術師に極夜の世界……確かに気になるな」

「俺の話をなんの疑いもなく意外にあっさり聞き入れるんだな……さすが、化け物を自宅に招き入れただけのことはある」

「なんでその話まで知っているんだよお前は。大体、別に好きで招き入れたわけじゃない。女の子を家に上がらせたら、そいつの体内に潜んでいたんだ」

 苦笑しながらそう言った瞬間、スライド式のドアがバキっと音を鳴らして倒れ、教室内に鼓膜を突くような甲高い音が響く。

 倒れたドアの上に倒れ込むように乗っかった少女は涙目になっていた。

「痛いです……新設校のくせに建てつけ悪すぎですよ」

 全員の目がその少女に向けられ、ナギハヤは声を躍らせるように、

「比奈たんではないか! どうしてここに」

 人気アイドルに熱狂するファンがごとく目を光らせていた。

 比奈は高校生とは思えない小さな体を起こすと、ブカブカのセーラー服をパタパタと手ではたく。

「お二人がなにやら怪しげな会話をしながら廊下を歩いていたので、こっそりあとをつけちゃいました」

 御言は半眼になりながらナギハヤにおそるおそる尋ねる。

「こいつのこと知っているのか?」

「もちろんだ、ファンクラブの会員だからな」

「ファンクラブ? いつできたんだそんなの」

「なにも知らないんだな月読は」

 そう言って会員証のようなものを見せびらかしながら、さらに熱弁は続く。

「日本全国探してもヒナたんのような逸材はいない。その存在が確認された時点でファンクラブが作られるのは必定。なんてったって女子高生とは思えない体型にこの甘ったるい声……男子としてはたまらないだろ?」

『キモ』

 ふと御言とナギハヤに聞き慣れぬ声が聞こえた。

 二人とも声がしたと思われるほうへ目を向けるが、そこには愛くるしい表情をした比奈しかいない。きっと空耳だったのだと二人は強引に納得する。

 そして比奈は嬉しそうに笑い、

「ヒナにファンクラブ? 知らないうちに人気者じゃないですか」

 無邪気に喜んだかと思うと、次に険しそうに顔をしかめる。

「ところで月読センパイ。さっきの話はなんですか? 体内に潜んでたとかなんとか言ってましたよね?」

 比奈の迫るような追求に御言はしまったと頭を抱えた。

「この高校ではあれか? 立ち聞きが流行りなのか?」

「やっぱりそうだったんですね、ずっとおかしいと思ってたんです。化け物がヒナを操って月読センパイの家にいく理由がわからなくて……でもこれでハッキリしました。化け物はヒナの体内からヒナを操ってたんですね。月読センパイを油断させるために」

 御言はバツが悪そうに視線を逸らす。

「まあ……あんまり気分のいい話じゃないから隠しておきたかったんだがな」

 それに比奈は大きく頷き、

「そうです、ちゃんと隠し通してくださいよ! あんな気色の悪い怪物が体の中に入っていたなんて一生のトラウマものじゃないですかー。なんでヒナが立ち聞きしてるときに、わざわざペラペラ喋っちゃうんですか!」

「いや、知らねえよ! お前が立ち聞きしてるの知ってたら俺も喋らないからな」

 などと二人が言い合っていると、もう一人生徒が教室の中に入ってきた。

 眼鏡をかけた不貞腐れた表情のその男子生徒は、レールから外れたドアには目もくれないで、

「なんだか騒がしいね。知らない生徒が二人も……新しいメンバーでも増えたのかい?」

 いかにも理系な見た目をしており、喋り方も知的な印象だ。かけている眼鏡もオシャレなど全く意識されておらず銀縁で地味。

 彼の問にナギハヤが答える。

「そのとおり。新メンバーの月読御言と学園一の美少女、比奈たんだ」

 眼鏡の男子生徒はふーんと適当に流しながら壁面のロッカーに向かう。そしてロッカーの中からノートを一冊取り出すと、忙しない様子で教室から出ていこうとする。

 それをナギハヤは呼び止めるが、

「おい、せっかくだし自己紹介くらいしていけよ」

「僕は忘れ物を取りに来ただけだ、それ以外のことに時間を割くつもりはない」

 眼鏡の男子生徒は足を止めずに一言だけ残して教室を後に。

 静まる教室で寂しそうに肩をすくめるナギハヤ。

「あいつは俺たちの仲間の越前(えちぜん)ってやつなんだが、どうも人付き合いが苦手みたいでな。気にしないでくれ」

 しかしその直後に越前は再び戻ってきた。

 戻ってきたといっても自分の意思ではない。まるで角材のように男に抱えられて運ばれてきたのだ。

 越前は教室の床に乱暴に捨てられ、すかさず全身黒ずくめの男に向かって威喝する。

「なんなんだお前! どう見てもこの学校の関係者じゃないな」

 男は余裕たっぷりの涼しい顔で、

「いえ、私は見てのとおりこの学校の教員ですよ。養護教諭をやらせてもらってます」

 その不審人物──朝倉臥魔はそう言って薄気味悪い笑みを浮かべた。

 彼はさらに続ける。

「突然で申し訳ありませんが、これよりあなた方≪月の影≫は私の指揮下に入ってもらいます。というのも幽霊都市の悪魔が活発化し、私だけでは手に負えなくなっているのが現状なのです。このままでは日本は悪魔によって滅ぼされることでしょう。そこで、超能力を有するあなた方の力をお貸しいただきたいというわけです」

 あまりにも胡散臭い口調と文言。そして朝倉の顔には怪しげな笑みが浮かぶ。

 御言も櫛田も越前も、比奈でさえも朝倉の話を鵜呑みにはできなかった。ただしナギハヤだけは乗り気のようで、一人だけ子供のように目が輝く。

「その話、詳しく聞かせてもらえますか?」

 彼が返事をするとともに朝倉はより一層笑みを深めて、待ってましたと言わんばかりに楽しげな口調で告げた。

「もちろん私もそのつもりです。悪魔の存在、悪魔の弱点、私の知っている情報は全て渡します」

 それから彼の胡散臭い演説が始まり、その演説が終わる頃には≪月の影≫は朝倉の傀儡となっていた。

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