小さな訪問者
月見ヶ丘には、身寄りのない者に無償で提供されている五階建ての居住施設──つまるところアパートのような建物が何棟か存在する。
そのうちの一棟、四階の隅に月読御言の部屋があった。
学校から帰ってきたばかりの彼は、生活音のない静かな部屋で一人ため息をつく。
十数分前まで、高校生たちが教室や廊下でガヤガヤと騒いでいたのに、帰宅してみればこの有様。
生活支援によって支給された必要最低限の家具しか置かれていない簡素なこの部屋は、寂しさを演出するには十分すぎる。
記録では≪境界≫が発生する以前は両親と三人で暮らしていたことになっていたが、その両親も現在は失踪扱い。
つまり御言は一人暮らしなのだが、これといって趣味を持っておらず、テレビも共用部分にしか置かれていない。そんなわけで部屋に帰ってきたからといって特別なにかすることはない。
彼はカバンをその辺の床に放り捨てると、学生服のまま硬いベッドの上に寝転び、その寝心地の悪さに不満を漏らす。
「もうちょっとフカフカのがよかったな……まあ、タダで支給してくれるだけありがたいが、それでもこの硬さだけは文句を言いたい」
独り言が虚しく宙に消え、それから目をつむる。
ちなみに、御言は睡眠において誰にも引けをとらないといえるほど、エキスパートだったりする。
たとえコンクリートの上だろうと爆睡することが可能。ベッドがどれほど硬かろうが、実際は彼にとって瑣末事なのである。
ほんの数分後のことだ。文句を垂れていたとは思えないほどぐっすりと眠っている御言の姿があった。
本来であれば、このまま朝まで眠っていた彼だが……
ピンポーン。
と、安っぽいインターホンの音が部屋中に響く。それほど音量は大きくないが、普段聞き慣れない音のせいか、御言は慌てて飛び起きてしまう。
すぐさま時計を見て、夜の九時であることを確認してから玄関に向かう。
睡眠を妨害されて少し不機嫌そうに、
「はいはーい、いまあけまーす」
言いながら玄関のドアをあける。
ドアがあいた瞬間、外にいた小学四年生くらいの女の子が明るい笑顔を覗かせた。
「こんばんは、月読御言さんでしょうか?」
茶髪のセミショート、桃色でブカブカのセーラー服を着た素直そうな雰囲気の女の子がそこに立っていた。
胸には月見ヶ丘高校の校章がついているため、御言と同じ高校の生徒ということになるが、その身長と体躯はとても高校生には見えない。
御言はその少女の学籍を疑うあまり、思わず不審者でも見ているかのような訝しんだ態度で返答する。
「そうですけど、君は?」
「実は私、月読御言さんの妹で比奈っていいます」
少女はニッコリと笑みを浮かべ、その屈託のない表情をこれでもかと見せつける。だが、御言は比奈の言葉に疑念を抱く。なぜなら、過去に戸籍を確認した際に妹の存在などなかったからである。
とはいえ、御言自身その少女にどこか見覚えがある気がしていたのもまた事実だった。
御言は愛想笑いをしようとして失敗し、苦笑いをしながら比奈に言葉を返す。
「俺に妹がいたなんて初耳なんだが……しかも、なんでまたこんな時間に」
「話すと長くなるのでとりあえず上がっていいですか? 今日はお兄さんのためにクッキーを焼いてきたんですよ」
比奈は手に持っていた紙袋を御言に見せるように持ち上げる。
彼女の話を完全に信じたわけではなかったが、手作りクッキーまで用意してきた女の子を追い返すほど御言は鬼ではなかった。
「ああ、そうだな。とりあえず上がってくれ」
彼は納得しきれないまま、渋々幼い不審人物を部屋に迎え入れた。
二人は向かい合うように卓袱台の前に座り、比奈は不安そうに御言の顔色を窺う。
「これ早速食べてみてください……一生懸命作ったんです」
そう言って紙袋の中から可愛らしくラッピングされたクッキーを取り出し、おそるおそる御言に渡す。
たとえ酷い味だろうと『おいしい』と言わなければならない。そんな空気が漂う中、御言は比奈の作ったクッキーを毒味でもするかのように端のほうを少しかじる。
瞬間、御言の目は大きく見開いた。
「おいしい! これ、すごくおいしいよ」
それは素の感想であり、リアクションに一切の偽りはなかった。
二口目は豪快に頬張り、以降味を噛みしめながら次々とクッキーを口の中に運ぶ。
その様子を見て、比奈は大きく口をあけて喜びを表現する。
「よかった! お兄さんが喜んでくれて私嬉しいです」
お兄さん。
御言はそう呼ばれて顔をしかめた。
「それより……比奈だっけ? お前は本当に俺の妹なのか? 前に戸籍を調べたときは、月読比奈なんて人物はいな……」
だが、言葉は途中で途切れ、御言は吐血した。
口の中で粉砕したクッキーとともに少量の血を自らの手のひらの上に撒き散らした。
あまりにも予想に反する事態のせいか、御言は苦痛を忘れてただ困惑するしかなく、比奈はそんな彼に悠然とした動作で立ち上がってから心配そうに声をかける。
「大丈夫ですかぁ?」
さらに言葉を続けながら声音が段々と低く粗暴なものへと変化していく。
「毒入りクッキーなんかを勢いよく食べちゃって……まぁ、安心してくれよ。殺すつもりはないからさぁ」
その表情は猟奇に満ちていた。
人懐っこそうな女の子の面影はすでに一片もなく、そこにあるのは狂気そのもの。
「いやぁ、ニンゲンに愛想を振りまくのは息が詰まるねぇ。息苦しすぎて呼吸困難で死ぬかと思ったよ」
冗談らしくそう言うと、卓袱台に思いっきり蹴りをいれる。その衝撃で卓袱台は床の上をスライドし、御言のヘソあたりに直撃。
御言は再び血反吐を吐き、今度は卓袱台の上が真っ赤に染まる。
立ち上がれないほどの腹部の激痛と意識の混濁、通常ならぶっ倒れるような状態だったが、それでも御言は絞り出すように声を発する。
「お前、誰だ……? 妹って嘘だろ」
それに比奈は狂ったように笑う。
「ああ、そんなの嘘に決まってるだろ? ボクの宿主の名は桜野比奈、オマエと血の繋がりなんてないよ」
次の瞬間、比奈の口からスライムのような黒い塊がグニャグニャと形をくねらせながらこぼれ出てくる。
やがて比奈の小さな体に入っていたとは思えない大量の黒い泥が床の上に広がり、比奈の体は力を失ったようにその場に崩れた。
そして、黒い泥は御言の目の前でボキボキと不快な音を鳴らしながら、黒い人型の化け物へと姿を変えていく。
それはまさに化け物と呼ぶに相応しいもので、全身は木の枝のように細く、手足はグニャリと捻じれ、表面は黒く淀んでいる。
背中からは枝分かれした触手が無数に飛び出ており、虫の触覚のようにピクピクと動いているのが気色悪さを醸している。
化け物は真っ赤な双眸を鋭く光らせ、甲高い声を発した。
「そしてもちろんこのボク、ピノテレスもオマエの妹なんかじゃあない。それにしても、ほんっと久しぶり。あのときは時間がなくてごめんねぇ」
あのときと言われ、御言は確信する。
このおぞましい姿をした化け物──ピノテレスこそ≪境界≫の日に御言が遭遇した黒い沼そのものであると。
御言は腹部に走る激痛にたえながら体を持ち上げる。
毒による影響か、全身の筋肉がうまく伸縮しなかったが、それでも足に全神経を集中させてどうにか重たい体を足で支えて立つ。
「お前がその子を操っていたのか? その子は無事なのか?」
「こんなときに他人の心配ですかぁ、妹想いの兄貴だねぇ」
小馬鹿にしたように狂った笑い声を上げ、さらに続ける。
「心配しなくても無事だよ。オマエへの寄生が完了するまでは念のため生かしておかないといけないからね」
御言にはその化け物に関する知識が全くなかったが、ピノテレスの発言からある程度はその性質を推察することができた。
まず、ピノテレスは人間に寄生しなければいけない理由がある。そして、寄生する対象は生きていることが前提。ゆえにクッキーに混入していた毒も毒殺するためのものではなく、動きを鈍らせるためのもの。
逃げる力も残っていない御言だが、相手が自分を殺せないものだと考え、微かな希望の光を見いだす。
が、ピノテレスはほくそ笑み、心を見透かしたように、
「抵抗するだけ無駄だよ。オマエの体は必ず頂く……にしても、オマエの中は居心地よさそうだ」
刹那、無数の触手が一気に数メートルの長さまで伸び、御言の体を容易く縛り上げた。
四肢を動かせないように全身に巻きつき、さらに肋骨を数本砕く。
御言は大きく口をあけて苦悶の声を漏らす。
この瞬間をピノテレスが見逃すわけもなく、一瞬のうちに御言の口内へと飛び込む。
「今度こそ頂くよ、その体を」
ピノテレスは再び体を泥状に変化させ、御言の口から食道を通って胃袋、そして体内の至るところへと侵入した。
ここでもう御言は諦めてしまった。
自分には抵抗しうる力は残っていない。もはや化け物に肉体を譲り渡すしかないと……
だが、数秒も経たずにピノテレスは御言の口から吐き出されるように流れ出てきた。
床に黒い泥が撒き散らされ、それは再び人型に姿を変える。そして、鋭い顔貌を苦しそうに嘔吐く御言に向ける。
「なんだコイツ、本当にニンゲンなのか?」
ピノテレスは確かに御言の肉体を奪おうとした。しかし、それは失敗に終わった。
その理由は寄生しようとした本人にも、ましてや御言にもわからない。とにかくピノテレスにとっては想定外の出来事だ。
取り乱したように声を荒げて、
「仕方ない、一旦前のお家に帰るか」
床に倒れる比奈へと視線を移してにんまり笑う。
御言は無我夢中で叫ぶ。自分の肉体のことなど気に留めず大声を上げ、
「おい、起きろ比奈」
吐血する。
だが、御言の無理も虚しく、都合よく比奈が目を覚ますなんてことはなかった。
そのままピノテレスは比奈の体を触手で絞め上げ、
「ふう……危ない危ない。この体もあまり時間が残されてないからね。早くお家に帰らないと」
口角を不自然なほど吊り上げ、不気味に笑う。
そのときだ。
触手に縛られた痛みで比奈が目を覚まし、すぐに自分が置かれている状況を知る。
そして、悲鳴を上げようと口をあけた瞬間、化け物が悲鳴を阻止するかのように口の中に触手を突っ込む。
それで比奈は声が出せなくなり、息だけで声にならない悲鳴を上げる。
この光景を見て、御言はあることを思い出す。≪境界≫の日に起きた出来事、黒い沼に襲われていた少女のことを……
あのとき沼に襲われていた少女は二人いて、一人は学校にて再会を果たした清水音羽。そしてもう一人は、いま目の前にいる桜野比奈である。
つまり、比奈はそのときからピノテレスに寄生されていたのだ。
このままでは、またあのときと同じ末路をたどってしまう。また比奈が化け物の器となってしまう。
御言は激しい吐き気と腹痛をこらえながら、跳躍するように化け物の頭部に拳を放つ。
毒で弱っているとは思えないほど体は軽快に動き、拳に力も入っていた──というより、普段の健康な御言以上に身体能力が高い。
火事場の馬鹿力なんて言葉があるが、そんな言葉では不十分なほど、彼の身体能力は物理的に生物を超越していた。
御言に殴られたピノテレスは首がありえない方向にねじれて曲がり、さらに爆風で吹き飛んだみたいに豪快な力で部屋の壁に叩きつけられた。その力は壁がへこみ、亀裂が走るほどだ。
比奈を拘束していた触手は殴られた際に粉々に砕け、比奈は自由の身となる。
ピノテレスは顔をグシャグシャに歪めて悔しそうにうめく。
「なんだオマエ? 動けないはずなのに、いっちょ前に殴りやがって」
そして樹木がへし折れる音に近い異音を鳴らしながら丸く膨れ上がり、岩石のような形態へと姿を変える。
もはやそこにあるのは触手が生えた大岩だ。
「もういいよオマエ、グチャグチャにしてやんよぉ」
床に触手を打ちつけ天井ギリギリまで跳躍すると、さらにもう一度触手を使って天井を蹴った。
黒い大岩となったピノテレスは一直線に御言めがけて突撃し、それに対し御言が咄嗟にとった行動は腕を交差して防御態勢をとることだった。
だがそうしたところで潰されて死ぬのは目に見えている。それでも彼がその行動をとったのは逃げる余力がなかったからだ。
さっきピノテレスの頭部を殴った際に全エネルギーを使ってしまったせいか、もう彼の足はガタガタと震えていた。そのため腕で防御する以外の選択肢がそもそもない。
次の瞬間、御言の体はあえなく大岩の下敷きとなる。
ピノテレスは勝ち誇ったように高笑いし、
「とんだゴミ物件だったよ、オマエ」
大岩のような体は瞬く間に元の細々とした形状に戻る。
そして同時にピノテレスの下敷きとなっていた御言──変わり果てた姿となった御言が露わになる。
彼の姿を見て、ピノテレスは顔を大きく歪ませた。
「おいおい、オマエやっぱニンゲンじゃないだろ?」
そこにあったのはグチャグチャに潰れた変死体ではない。全身の肌が黒く変色し、皮膚の表面がポリゴンのように角張った御言だ。
彼は無事である。むしろ無事どころか、それ以上だった……
狼狽するピノテレスの足を黒く変質した手で掴み、片手で軽々と振りかぶっては、勢いをつけて床に叩きつけた。
その威力は床を砕き、亀裂を走らせるほどのもので、おそらく建物中に轟音を響かせたはずだ。
ピノテレスは砕けた床の亀裂に挟まったまま、震えた声を発する。
「何者だオマエ、まさかエゲトの上級悪魔か?」
急いで亀裂から抜け出し、御言から逃げるように玄関へと走る。
だが、それを御言は許さない。
大量に吐血しながら、それでも構うことなくピノテレスに飛びかかり、力いっぱいの拳をぶつける。
拳が決まった瞬間、ピノテレスの体はガラスのように細かく砕け、ガッシャーンという近所迷惑もはなはだしい騒音を立てながら、部屋中に破片をばら撒いた。
しかし、ピノテレスの破片はすぐに霧散して黒い塵となり、跡形もなく消滅する。
やがてそこには御言と比奈だけが残され、静まりかえったボロボロの部屋で御言は力なく言葉を放つ。
「悪いが俺は人間だ」
それはピノテレスが最後に投げた質問に対する回答であるとともに、人間を見下していたピノテレスに対する皮肉でもあった。
数秒後、御言は立ったまま意識を失い、体はその場に崩れ落ちた。
彼が意識を取り戻したのは病室のベッドの上。
傍らに座っていた比奈は、彼の意識が戻ったことにいち早く気づき、安堵の表情を浮かべながら優しく語りかける。
「やっと目を覚ましましたね、心配させないでください」
御言は顔面を蒼白させ、いまにも死にそうな顔色をしてはいるが、彼女の質問には生者としての力強い声音で返す。
「比奈か。ここは病院、だよな?」
「そうです、病院ですよ……って、あれ? どうしてヒナの名前を知ってるんですか?」
「まさかなにも憶えていないのか?」
御言が尋ねると、比奈はほっぺを膨らませて、むすっとした表情で淡々と答えた。
「もちろん全部憶えてますよ。目が覚めたらあなたの家にいて、それで化け物に襲われて、と思ったら化け物が退治されて、突然あなたが倒れて、救急車を呼んで……それからも大変だったんですよ?」
彼女は憶えていると答えたものの、実際にはピノテレスに操られているあいだの記憶は全くなかった。
比奈はその瞳に涙を浮かべながら続ける。
「お医者さんが言ってましたよ。あとちょっとでも治療が間に合わなかったら手遅れだったかもしれないって……それに見たこともない毒で、解毒するのにかなり苦労したそうですよ?」
一歩間違えれば死んでいたかもしれない。そう聞かされた御言はぞっとした。
もし医者の技量が少しでも足りていなかったら……
もし比奈が救急車を呼ぶのがあとちょっとでも遅れていたなら……
そんなことばかりが頭をよぎる。
が、ついには涙を止めどなく流しだす比奈を見て、御言は自分のことなど忘れて彼女をなんとか落ち着かせようとねぎらいの言葉をかける。
「心配かけたな……でも、もう大丈夫だからそんなに泣くなよ」
優しい声音で接すると、比奈はポケットから目薬を取り出し、手慣れた動作で自らの瞳に雫を落とす。
それから御言のほうを平気そうな顔で見つめると、
「あ、これただのドライアイです」
「紛らわしいわ!」
御言はツッコミを終えるとベッドの上で脱力する。
だがそれも束の間、比奈がせわしなく問い詰めだす。
「ところで、なにが起きたのか説明してくださいよ。あの化け物はなんなんですか? どうしてヒナは月読センパイの家にいたんですか? センパイはなにか知ってるんですよね?」
マシンガンのように放たれる疑問に、御言は言葉を詰まらせる。
そのまま伝えてしまうと間違いなく比奈がショックを受けるだろうと、事実をそのまま話すことに躊躇していたからだ。
あの気色の悪い化け物が口から出てきたとか、ずっと腹の中に潜んでいたとか、幼気な少女に言えるわけもない。
そこで御言は一点だけ事実を曲げて話した。化け物は催眠術のようなもので比奈を洗脳し、操っていたと。
そして比奈が気を悪くしないように細心の注意を払いながら今日起きたことを順繰り話していく。
最後まで聞き終えた比奈は、
「なるほど、あまり信じたくない話ですね。でも、もし本当にいま話したとおりのことが起きたのだとしても、どうしてヒナを操る必要があったのかが気になります……だって洗脳できるならヒナを操らずに直接センパイを操ったほうが手っ取り早いです……」
顔をしかめて考え込む。
事実と異なる説明のせいで思わぬ矛盾が生じ、その痛いところを突かれたわけだが、御言はどうにか誤魔化そうとなにかそれっぽい理由を考えるが、なにも出てこない。
このままでは秘密がバレてしまう絶体絶命のピンチ……
かと思われたが、比奈はコロっと態度を変え、
「でも、今日はもう遅いので一応納得したことにして帰ります。また今度じっくり続きを聞かせてもらいますよ? 二年一組の月読センパイ!」
可愛らしくウインクをしてから病室を出ていこうとする。
そんな比奈を御言は呼び止めて、
「待ってくれ。お前……俺が目を覚ますまで、ずっと付き添っててくれたのか?」
それに比奈は即答する。
「違います。さっきまでお医者さんから事情聴取を受けてたんですよ。それでお医者さんからそろそろ月読センパイが目を覚ますから見にいってください、って言われてしばらく待ってたんです」
「事情聴取……か。化け物に襲われたってなったら、それも仕方ないか。お前も大変だったな」
「それはお互い様ですよ。それじゃあ、また明日学校で会いましょう」
笑顔で別れを告げた比奈。
病室に一人残された御言はげんなりして呟く。
「あいつなんでクラスまで把握しているんだ……まさか俺のクラスまで乗り込んできたりしないよな」
だが、すぐにそれはいらない心配だと悟る。
彼の体は動かない。
上体を起こすことはかろうじて可能だが、手足には感覚がない。
こんな体では学校どころではなく、ひょっとすると一生体の自由が利かないままという可能性すらありうる。
御言は病室で一人どんよりと落ち込み、深いため息をつく。
と、ちょうどそのタイミングだった。彼の病室に男が入ってくる。
黒いスーツに身を包み、黒いサングラスをかけた細身で背の高い男で、髪はオールバックにしており、年齢は見た感じ二十代後半といったところだろうか。
その見るからに怪しさの漂う男は、胡散臭い口調で御言に話しかけてきた。
「もう目を覚ましたんですね、これは興味深い……おっと、そんなに心配しなくてもあなたの体は明日にはちゃんと動きますよ」
「あんた……」
誰だ?
と、御言が問おうとするが、聞かれる前にその男が答える。
「私は朝倉臥魔、見てのとおり医者ですよ。あなたの担当医、言わば命の恩人です」
恩着せがましく煽るような喋りで、偉そうに胸を張る。
御言は少しその態度が不快に思えたが、それでも命の恩人であることに変わりはないので、嫌々ながら礼を言う。
「えーっと……とりあえず、ありがとうございました」
すると朝倉は眉をひそめた。
「命を救ったのに随分と軽いノリですね。なんですかその顔は? 私が医者だってこと信じていないでしょう?」
事実、御言は彼が医者だということに納得しきれていない。
こんな医者はおそらくこの世界を隅から隅まで探してもいないと思われるが、胸にはきちんと名札がついており、この病院の医師であることに偽りはないように見える。
御言は自分の置かれている状況や今日の出来事を思い返し、朝倉がいなければ自分はこの世にいないということを心に置き、そのうえで改めて礼を告げた。
「いえ、信じています信じています……命を救ってくれて、本当にありがとうございました」
「どういたしまして……まあ、実は治療なんてしてませんがね」
軽い口調でそう言ってニヤリと笑う。
あまりに突飛な発言に、御言は聞き間違えかとさえ思った。
しかし、朝倉はそのままの調子で続ける。
「いやー驚きましたね。まさか毒が勝手に解毒されるなんて驚きです。でも、本当に驚いたのはそこじゃないんです……どうやらあなた、ピノテレスを素手で倒したそうですね?」
ピノテレスとは言わずもがなだが、御言を襲ったあの化け物の名前である。だが、その名前を朝倉が知っているのは奇妙だった。
御言は不審感と身の危険を感じて顔を引きつらせ、
「なんで……」
その名前を知っているのか、と言おうとするが、それを遮って朝倉が答える。
「なんでピノテレスのことを知っているのか? そんな顔をしていますね。実は私、医者よりも悪魔祓いのほうが専門なんです」
「悪魔祓い?」
御言が聞き返すが、朝倉はそれを無視して問いかける。
「下級悪魔とはいえ、寄生型の悪魔を素手で倒すなんてとても人間とは思えませんね。あなた、一体なんなんです?」
朝倉は先ほどまでのふざけたノリとは違い、殺気のようなものを放ちながらサングラス越しに冷たく睨む。
御言はそのプレッシャーに気圧され、声を震わせながら答えた。
「人間だ……多分」
多分、と付け足したのは、御言自身もわからなくなっていたからだ。
ピノテレスと対峙したとき、皮膚は黒く変色し、岩のように硬化した。それは到底人間とは思えない現象である。
朝倉はどこからともなく手術などで使われるメスを取り出し、それを御言の喉元に突然突きつけ、
「あなたがもし変な真似をしたら、容赦なく私が殺します」
脅してくる朝倉に、御言は冷や汗をかきながら声を震わせて答えた。
「い、いや、俺人間です。別に化け物に体乗っ取られたりなんてしていません」
自分が化け物に寄生されていると思われている……そう考えての返答だった。
だが、朝倉はニッコリと笑い、
「知ってますよ。あなたはどこからどう見ても、なんの取り柄もないただの人間です」
少し困ったような表情でそう言い、構えていたメスを胸ポケットにしまう。
そしてさっきまでの胡散臭い雰囲気の軽い口調に戻り、
「まあいいでしょう。今日はゆっくり寝てください……続きはまた次の機会に聞かせていただきます」
それを言い残し、朝倉は脅すだけ脅した挙げ句、なにもせずに病室から出ていく。
御言は思わず、
『お前絶対医者じゃないだろ』
と言いそうになったのを抑え、去っていく朝倉を無言で見送った。
沈黙する病室。
空虚な部屋に残された御言はこれまでの出来事を振り返りながら、本日何度目かのため息をつく。
「確か明日には体が動く、って言ってたな……なら寝るか」
疲労のせいか、はたまた彼が普段使っている寝心地の悪いベッドよりも病院のベッドのほうが質がよかったからか、意識が戻ったばかりであるにもかかわらず、ほんの数分で眠りについてしまった。