世界最強の魔術師
鬱蒼とした森の中を勢いよくスライドする金属の塊──アルゴノーツ。
三十トンを軽く超えるその超重量に、木々は根こそぎ薙ぎ倒され、土壌が抉られていく。
やがて数十メートルの傷跡を大地に刻んだのち、アルゴノーツは停止した。
墜落の衝撃でひん曲がった後部のハッチがガゴンと音を立てて弾け飛び、中から黒髪の少年が出てくる。
とても墜落直後とは思えないピンピンとした体だ。
彼は満足げに大きく息を吸う。
「この空気の味……間違いねぇ、イストリアに帰ってきた」
それに続き出てくる黒猫。やはりこの猫もピンピンしている。
「空気の味なんてどの世界も共通じゃないのか?」
「興が冷めること言うんじゃねぇ、世界最強の魔術師の帰還だ。盛り上げていかねぇとなぁ」
そう言う音神の顔は歓喜しているというより殺気立っていた。目を見開き、血走らせ、息も荒い。
「行くぞ黒猫、まずは軍の馬鹿共に思い知らせてやる」
「悪いな、旦那とはここでお別れだ。オイラは中で伸びてる二人を新しい飼い主にすることにした」
「ん」
「元々ヴァーユの鍵を見張るのがオイラの目的だっただろ?」
「そうだったな……んじゃ、あばよ」
音神は大きく地面を蹴ってジャンプする。
「翔音」
叫んだ瞬間、音神を取り巻く大気が渦巻き、彼の肉体を持ち上げる。
まるで人間ロケットのように空を飛び、森の上空へと飛翔。
森の中から薄っすらと黒猫の声が響く。
「永の別れだぞ? そっけなさすぎないかー」
しかし、音神はそんな言葉は無視して大空を飛ぶ。鳥よりも速く、山よりも高く、ある目的地を目指して。
◆
丘陵に聳え立つ古城風の要塞。
歴史的建造物に見えなくもないが、北大陸第二の帝国であるセルヴィーシャ帝国の魔導要塞で、範囲内の空間転移を防ぐ術式と、魔法を検知する術式を展開する機能を備えている重要施設。
分かりやすく言えば自国の上空にアルゴノーツが急に出現し、爆弾を投下されるのを防ぐために各地に施設されたセキュリティーのうちの一つである。
ちなみに古城風の装いなのは王の趣向だとか。
その古城に大軍勢が押し寄せている。
皆が皆ボサボサの髪に痩けた頬、生気のない表情をしており、とても正規軍の兵には見えない。
それもそのはず、彼らは長く尾を引いた白い衣を羽織っているが、その衣は彗星兵団と呼ばれるマルス帝国の使い捨て兵に着せられるもの。
彗星兵団は植民地から調達した奴隷たちのみで構成された決死隊だ。
魔法を利用した武器を持つことを許されず、銃や爆発物を持って特攻するだけだが、数が多いのと、死を恐れない──というより死を望んでいるとも言えるが、自分の命を捨てた特攻は相手にすると厄介だ。
その彗星兵団を迎え撃つはセルヴィーシャ帝国の保有する最大の魔法兵団、第一皇帝兵団の駐屯部隊である。
数百数千の奴隷たちが要塞に向かって侵攻している中、皇帝兵団は石で囲まれた無機質な会議室でふんぞり返っていた。
数名の監視員を除いて残りの隊員の全てがそこに集結し、部屋の前方に立っている子供に視線が揃う。
珊瑚色の衣装を着た十歳から十二歳程度の背丈の子供。フードを深く被り、頭部は足元を見るように俯き、おまけに前髪が長いせいで顔はよく見えない。
そしてチョビ髭を生やした痩せ型の中年男が机に肘をついたまま徐ろに問う。
「その子が噂の……?」
答えたのは若い男。子供の横に立ち、緊張した面持ちで質問に答えていく。
「はい。本部より派遣された世界最強の魔術師と称される者です」
「未だに信じられん。ファルクス訓練施設で好成績を収め、飛び急して第一級魔法騎士とは……本当に冗談ではないのだな?」
「はい。このゼア要塞も世界最強の魔術師──音神に任せれば犠牲者を一人も出すことなくマルス帝国の部隊を追い払えるでしょう。報告にもある通り、クイラ要塞とスーリアン要塞での活躍を鑑みれば、我々が危惧するようなことはなにもないかと」
「騎士団に一任するというのが不本意ではあるが、ここは一つ高みの見物といこう」
それからチョビ髭の中年男は一呼吸置いて音神に対して尋ねる。
「時にその方、名はなんと言う?」
しかし音神は無言を貫き、ただ床を凝視する。
代わりに横にいた若者が答える。
「まだ未成年なので、コードネーム以外の個人情報は……」
「ふむ……これは余計なことを聞いた、失礼」
世界最強の魔術師──音神。その素性を知る者は軍関係者でもごく一部で、名前や年齢はおろか性別すらも公にされていない。謎の多い人物。人によってはその得体の知れなさに不信感を抱くこともあるとか。
若者は少しだけ膝を曲げて屈むと、音神に柔和に問いかける。
「そろそろ敵が攻めてくる頃合いだ。音神、準備はいいか?」
音神はコクリと頷き、隊員たちに深々とお辞儀をしたあと静かに部屋を出ていく。
多くの隊員たちが安全圏から見守る中、まだ幼い騎士が一人、戦場へと出る。
◆
「おい下級人種のクズども。これはあくまでも威力偵察だが、もしもゼア要塞を陥落させれば赤星兵団への昇格があるかもしれない。心してかかれクズども」
大声で吐き散らす壮年の男は一人だけ服装が違い、彗星兵団が白い衣を纏っているのに対し、彼だけは赤いマントを羽織っている。マルス帝国の本軍である赤星兵団の制服だ。
植民地から調達した兵たちと違い、彼だけは生粋のマルス帝国民で、帝国の中でも高待遇のエリートである。
そのエリート兵が逸早く気づく。
「あん? 誰か接近してきやがるな? どれどれ……」
どういうわけか数キロ離れた要塞の微かな動きに反応し、望遠鏡を覗き込む。
「子供……? クイラとスーリアンの時に投入してきたっつーセルヴィーシャの切り札か……彗星のクズどもの戯言かと思ったが、本当にガキじゃねぇか」
彼は片手に持った通信機を口元に近づけ、告げる。
「おいクズども。A班とB班だけで城門に向かい、A班はガキの魔術師と交戦、B班は護衛と戦況報告をしろ」
通信機で口元が隠れていたが、彼は笑みを浮かべていた。
(巷じゃ世界最強の魔術師なんて言われてるらしいな? バカバカしい。俺が化けの皮を剥がしてやら)
場所は移りゼア要塞城門付近。ゆったりと散歩でもするように大軍へ向けて足を進める音神。
途中で足を止めたかと思えば、首を最低限横に動かし、左右を確認しだした。
囲まれている。
少なくとも五名の戦闘員が音神に銃口を向けていた。
死を覚悟したか、もしくは生きている実感を失った表情の兵隊たち。なんの警告もなしに一斉に小銃の引き金を引く。
発砲音が小刻みに鳴り響き、数多の鉛玉が容赦なく一人の子供に浴びせられる。
しかし、銃弾が音神に到達することはなかった。
全てがカランカランと音を立てて地に落ち、一時の静寂が支配する。
続いて彗星兵団の戦闘員たちのうち三名が再び小銃を撃ち始め、残り二名は背中に手を回して投擲物を手にする。
ピンを抜き、音神に向けて抛る……が、その投擲物は空中でボロボロに分解され、不発に終わる。
相変わらず銃撃も意味はなく、ただ音神の足元に銃弾が散らばっていくのみ。
遠くからその様子を見ていた別の彗星兵団が一連の戦闘とも呼べないやり取りを報告する。
数キロ離れた先でその報告を聞いた男は、より一層口角を釣り上がらせる。
「俺が出る。クズどもも全員出撃だ。今から伝える作戦通りに動けよ」
十数分後、彗星兵団の大部隊がゼア要塞に押し寄せた。
数百人単位の大軍勢、しかし音神は臆することもなく立ち向かう。
彗星兵団の最前列にいる者たちが再び銃撃を開始する。もちろんそれら銃弾は地面に散らばる。
だが、赤いマントの男は不敵に笑いながら心の中で勝ちを確信した。
彼は彗星兵団の影に隠れたまま奇抜な形の銃を取り出す。
(オマエは魔法によって銃弾の運動エネルギーを直接操作している──そうだろ? なら話は簡単だ。魔法化した銃弾を浴びせてやればいい。既に魔法によって操作された物体を別の誰かが魔法で操作することはできない。それは魔術の絶対原則だ。通常弾しかないと高を括っている今がチャンス。死に晒せやセルヴィーシャのクズが)
ほくそ笑みながら銃口を音神に向ける。
瞬間、音神の体が数メートルも飛び上がり、射線が合わない。
再び空中にいる音神に対して銃口を向けようとするも、身動きが取れないはずの空中で素早く横に跳ね、やはり射線が合わない。
明らかに赤いマントの男の銃の動きに合わせて移動していた。
(俺の魔銃に気づいてるのか? なぜだ……)
男には分からなかった。確実に気配を消し、音神の死角に入っている。その自分がなぜ察知されているのか。そこで次なる作戦に移る。
奴隷たちに持たせた銃には意味がある。彼らの放つ銃弾は赤いマントの男が使用する魔術の媒体にできるのだ。無害と思い込んでいる攻撃を有害に変える、それがこの男の常套手段だった。
号令さえかかれば周囲の彗星兵団が事前に知らされた通りに動く。逆に言えば独断で動くことはない。彼ら奴隷兵たちが無断で動くということはマルス帝国では反逆を意味するからだ。
男は大声で叫んだ。
「 」
しかし、音にはならない。
声が出せなくなったわけではない。自分で自分の声は辛うじて聞こえていた。体内を伝わる振動によって。
しかし、その声は周囲の空気を振動させることはなかった。いや、彼の声だけではない。周囲の全ての音が消えている。鼓膜を痛めそうなほど鳴り響いていた銃声も含めてだ。
焦る赤いマントの男。あらゆる可能性を思索するも、答えは出ない。音神が一体なんの能力者なのか。その答えはある程度絞れているが、だとしてもその対抗策までは浮かばなかった。
戦場を静寂と混乱が支配する中、突如として歌声が響き渡る。
透き通った女性の声で、神々しい歌声が。
聞こえてきた謎の声に戦闘員たちがみな動揺するが、彼らもまた声を出せない。
この戦場では美麗な歌声だけが響き、それ以外の音が響くことはない。
そして宙に浮かぶ音神の周囲に光の陣が生成されていく。
赤いマントの男は心の中で呟いた。
(まるで神だ……音を支配する神)
光の陣から光線が照射され、彗星兵団が持っていた銃、そして赤いマントの男が持っていた魔銃を貫き破壊する。怪我人は一人も出ていない。武器だけを的確に、そして一瞬で全て破壊した。
もう勝負は着いたかと思いきや、男はまだ諦めていない。
(コイツは潰しておかないとダメだ。ゼア要塞などどうでもいい。最後の手段として取っておいたがここで使うしかないな……ソティラスの崩壊定数)
男は彗星兵団の一人を背後から襲い、首の骨を容易く圧し折る。
崩れ落ちた死体の背中に両手の平を被せ、術式を発動する。
突如彗星兵団たちの体が青白く発光し始める。ただし赤いマントの男が殺した戦闘員だけは変化がなく、代わりに丸い光の壁が男を包むように展開された。
(悪いな、これがマルスの戦い方だ。いくら強者と言えども崩壊定数からは逃れられまい。ここら一帯の全てを消滅させて俺の勝ちだ)
瞬間、男の周辺の地面が砕け、宙に打ち上がる。
空飛ぶ絨毯のように地盤が薄く削れて赤いマントの男と死体だけを乗せて浮き上がる。
これは男の意図した挙動ではない。とすれば音神の仕業なのは明白。
最初は自信に満ちていた男も、底知れぬ音神の力に怯えつつあった。
(なんだ? なにをする気だ?)
薄い地盤は男を乗せたまま高速で飛行する。ゼア要塞から遠ざかり、ものの数秒で要塞が見えない位置まで吹き飛ばされた。
十数キロも離れた位置まで来ただろうか。
高速で吹き飛ばされたはずの男は森の中で横たわっていた。
土を削り取るように手で掴み、男は歯噛みする。
「魔術の効果範囲外に強制的に出されたか。まさかこんな方法で魔術の発動を止められるたぁな。魔銃も壊され、クズどもも置いてきちまったが……いい土産話ができた」
男は立ち上がり、おぼつかない足取りで本国へ向けて歩き出す。
◆
帝国が管理する孤児院。院と言ってもたった二人の子供しか面倒を見ていないし、むしろその二人のためだけに用意されたという少し特殊な屋敷がある。
その一室、貴族が住むような豪奢な部屋で魔術の教本を床いっぱいに広げる少年がいる。
歳は十か十二歳くらい、黒い髪に珊瑚色の服。
彼はつまらなそうに本をぶん投げ、イラつきを吐き出す。
「勉強めんどくせぇ……こんなこと勉強しなくてもボクだって十分強い」
そう言って魔術の勉強をやめて周囲の空気を操り、部屋中のものを宙に浮かせて遊び始める。
そこに一人の老人が入ってくる。
「ディオ・アルバ様、妹様がお戻りになられました」
黒い衣装に身を包み、背筋がピンと伸びた白髪の老人。この屋敷の執事だ。
ディオ・アルバは嬉しそうに飛び上がり、目を輝かせる。
「本当か? 一人じゃ退屈だよもう」
彼は玄関に走り、妹を出迎える。
「おかえりアリア」
「ただいま。お兄ちゃんまた勉強サボってたでしょ?」
「流石世界最強の魔術師、音神様だ、盗聴魔法はお手の物だな」
「聴かなくても分かるよ、サボった顔してるもん」
そう言って笑う少女の顔つきは兄のアルバと少し目元が似ている。彼らは双子ではあるが、二卵性双生児である。そのため、普通の双子と比べて相違点は多い。
兄のディオ・アルバは幼少期から結界能力に目覚め、術式なしで空気を操ることができたが、魔術の才能はこれといってない。
しかし、妹のディオ・アリアに関しては魔術の天才であり、結界能力によって空気を操り、聖女の歌声のような詠唱を鳴らし、二重詠唱と呼ばれる同時並行で別々の魔術を発動する技術まで持ち合わせている。
二重詠唱を体得したのは世界でも最年少であり、まさに世界最強の魔術師と呼ばれるに相応しい実力者だ。
力押ししかできない兄と違って、魔術の知識をふんだんに持っている。
未だ訓練施設で頑張っている兄からすれば少し複雑な気分だ。
「お兄ちゃんもしっかり魔術の勉強しないと……いつもなにかある度にボクに助けられてばかりでしょ?」
「分かった分かった、そのうちアリアを追い越してボクが世界最強になるから、そう焦るな」
「そのうちっていつ?」
「強がりなお前がボクに涙を見せる頃には、な?」
「じゃあボクを追い越すなんて一生無理だよ。だってボク、もう絶対に泣かないって決めたから」
「ったく……昔は泣き虫だったくせに……」
最後にアリアが涙を流したのは二人が両親を失った時で、それ以降アリアは兄よりも逞しく生きている。魔術の才能があるのはもちろんだが、生き抜くための努力、魔術の勉強を誰よりも頑張ってきたのだ。
この頃のディオ・アルバはその妹の逞しさに甘えていた。その先の未来など知る由もなく。