朝食カタストロフィー
白い壁面にフローリッシュな金の飾りが施され、鮮やかな赤いカーペットで彩られた一本道の短い廊下。一方は下り階段に繋がり、もう一方は突き当りに観音開き式の閉ざされた大きな扉が構えている。
窓がない代わりに天井照明が明るく、どこか神聖な場所に繋がっていそうな雰囲気だ。
ここに佇むは、この世の全てを冷視したような目つきの黒髪の少女。十六歳にしては童顔だが、その愛らしい顔つきが台無しなほどに表情が陰ている。
彼女が扉を徐ろにノックすると、中から男の荒くれた声。
「誰だ?」
建物の雰囲気とは釣り合わない粗暴な口調に、もしや空き巣でも中にいるのではと勘ぐってしまう少女。たじろぎながら言葉を返す。
「清水音羽です。ここに来るよう朝倉先生に言われました」
「あー、噂の学生だな……まあ、入っていいぞ」
あまり歓迎してなさそうな言い様だが、そこは気にしない。むしろ学生だと言い当てられたことで中にいるのが空き巣ではないことが確定したため、堂々と扉をあけて入室する。
大きな事務机が中央に鎮座しているだけで、他に家具はない。だが、床には雑多な荷物が散乱し、机の上も本やら書類やらが不規則に積まれている。
それらを蔑んだように瞥見しながら進み、男が座する事務机の前で静止した。
くすんだ赤色の髪に、眼光炯々な金の瞳、カーキ色のジャケットをだらしなく羽織る二十か三十代の男。
その男は髪頭をボリボリと左手で掻きむしり、礼節の欠片もなく面倒くさそうに言い放つ。
「お前さんが清水音羽か。朝倉から大体の報告は聞いた。俺はアイギス魔法騎士団の団長天神天満だ。お前さんには悪いがうちの騎士団が無期限で面倒を見ることになった。それに際して……」
机の抽斗をあけ、中から灰色の簡素な金輪を一つ取り出し、机の上にコツンと置く。
「エクトエゼルの断輪と呼ばれてるもんだ。二十四時間肌身離さず腕に着けてろ。魔法を使おうとすると、この腕輪に優先的にタスクが割かれ──分かりやすく言や、魔法が使えなくなる代物ってとこだ」
「ふーん」
淡白な反応のあと、大人しくその金輪を右腕に通す音羽。
経が大きくこのままでは容易に脱着できてしまうが、金輪には可動域があり、切れ込みを埋めるように左右から挟むとカチャッと経が縮まる。
一切の疑問も抵抗も垣間見せず、文句も言わず、片手だけとはいえ拘束具を身に着ける少女。それを見た天満が怪訝そうに伺う。
「ここまでで質問とか要求とかねえか? 強制的に軟禁する代わり、サポートは手厚くするつもりだが……」
「じゃあ一つ聞いていいですか?」
ここで少女が初めて人間らしい表情を見せる。疑問符を浮かべた純粋な表情。それに天満も調子が上がっていく。
「お、なんでも聞いていいぞ、答えられる範疇であればな」
「この世界の言語を理解できてるのはどうして?」
日本生まれ日本育ちの音羽が異世界の言語を理解し、話すことができる。疑問が生じるのも無理からぬことではあるが、天満としては調子の狂う返答だったらしい。少し困ったように顔を歪めた。
「そこを聞いてくるか。軟禁についてはなにもないんだな?」
「軟禁の内容は予想できるけど、この世界の不思議は地球人には予想できない」
「それもそうか。だが、もう少し自分のこと気にかけてもいいだろうに……まあいい。俺たちが喋ってんのは魔術で管理された人工言語だ。第三言語エングトリアっつってな」
やはり面倒くさそうに説明していた天満だが、音羽が関心を寄せている様子に段々と語気に元気が出てくる。
「第三言語?」
「第一と第二が互いの公用語、第三は両者が使える共通の言語ってことを表してる。惑星全体に効果を及ぼす大陸魔法によって、魔法の素質がない人間でも即座に理解し、発話できる言語だ」
「へー。この世界は異世界人に優しいんですね」
「結果的にそうなってるが、本来はこの世界での争いを無くすために作られた技術だな」
「ふーん……」
音羽はつまらなそうに相槌を打ち、窓の外に見える景色を眺める。
黒い屋根の建造物がぎっしりと並び建ち、上層階から見下ろしていることもあり、街全体が真っ黒に見える。
路上には遊ぶ子供たちの姿も確認でき、一見すると平穏な街並み。
しかし、音羽は悲しそうに瞳を細める。
「それで争いは無くなったんですか?」
「……多分、お前さんの考えてる通りだ。だが、この国は開国から一度も戦争してねぇし治安もいいから安全だけは保証できる」
「あまり楽観的に考えないほうがいいですよ。平穏って、突然誰かに壊されるのが常なので」
つんけんとした少女の主張に、天満はからからと笑った。
「お前さんを見てると、昔の自分を思い出す。あの頃の俺もそうだった……」
「へー」
「……興味ないか」
長い昔話が始まるのを察知した音羽は、あからさまに嫌そうな反応を示すことで自分語りをキャンセルしたのだった。
「また気になることがあったら聞きに来ます。それでは失礼します」
そう言って一礼すると、天満が呼び止める。
「勝手に帰るな。お前さんには監視の隊員を一人つけるつもりでな。その隊員がそろそろここに来る予定だ」
「随分と警戒されてるんですね」
「なぁに、監視と言っても世話係みてぇなもんだ」
そう言う天満の目つきは細く、鋭く、異物を見るように音羽を睨んでいた。
◆
場所は騎士団の食堂。
北条飛鳥はテーブルに肘をつき、だらしなく椅子に腰かけていた。
ここは天井が高いうえに片面の壁が全面ガラス張りで、とても開放的な空間となっているが、飛鳥はそんな清々しい場でも物憂げだった。
理由は向かいに座る黒髪の少女。
全てがどうでもいいと言わんばかりの半眼で、暗黒の表情でただ真っ直ぐ睨めつける姿は、見てるだけでも精神が疲弊してしまいそうだ。
あろうことかこの少女の面倒を見るように仰せつかったのが他ならぬ飛鳥で。
「歳いくつー?」
試しに質問を投げかけてみるが、返事はない。
「名前は……清水音羽だったっけ?」
やはり返事はない。語尾を不自然に上げてわざとらしく質問っぽくしても無反応だ。
「朝まだだよね? なにか食べる? 好きなの選んでいいよ」
「なんでもいい」
ようやく言葉が返ってくるが、冷徹で感情が希薄な物言いで、余計に気まずくなる。
「んじゃ、私と同じやつ頼んでくるわー」
ひとまずこの子から離れたい。そんな思いから急いで注文しに席を立つ。
カウンターの前に立ち、メニューを一瞥したところで、見慣れた品目が目にとまる。
(やっぱり朝はこれ以外にありえないわ)
迷いもなく決め、呼び鈴を鳴らす。
『今から注文するところ? 私も一緒にいい?』
不意に横から話しかけてきたのは玄武紀寅。喋り出しですぐさま分かるほど、普段から聞き慣れた声だ。
振り向くとやはり見慣れた姿がそこにある。室内なのにカンカン帽を被り、白いシャツに黒いネクタイ姿の少女。
飛鳥の顔がぱあっと明るくなる。
「紀寅! エリシオンから連れてきたあの子、全然生気がなくてこっちまで生命力奪われそうなんだけど、助けて!」
「が……頑張れ」
渾身の心の叫びのつもりだったが、紀寅はあははと乾いた笑いで励ますだけであった。
飛鳥は再びメニューに目を落とす。
「そうだ。最近ハマってる朝のメニューがあってね……。奢るから一回食べてみて、メチャクチャ美味しいから!」
「ううん、私はいつものでいいよ……」
「いつものって、あの非常食みたいなパサついたやつ? たまには違うの食べたほうがいいって! 不健康になるよ? ──おばちゃん、スタミナサンダー三つお願い」
遠慮する紀寅を無視して、呼び出した厨房のおばちゃんに注文を通す。
載っているメニューは全て文字しかなく、各料理のビジュアルは実際に注文して実物を見ない限り分からない。
名称に違和感を覚えた紀寅が顔を引きつらせながら飛鳥の腕をグイッと引っ張る。
「今のそれ! ほんとに朝のメニューなの? 私食べきれる? その料理、レディーが食べても死んだりしない?」
「大袈裟だなぁ……。ステレオタイプに流されるなかれ。紀寅がイメージしてるようなどっかり系じゃないから」
「ほんとかなぁ……」
俄には信じがたいといった表情で半眼を作っていた。
それから数分後、カウンターに並べられたのは紀寅が心配しているような重い食事ではなく、一見ヘルシーそうなサンドイッチだった。
「メニューの名前おかしくない?」
「別に普通じゃない? 焼肉を挟んであるからスタミナサンダーってことでしょ」
「そこは焼肉サンドとかでよかったんじゃ……」
紀寅はネーミングに文句を言いつつも、朝食として申し分ないメニューに安堵しているようだった。
かくして少女三人での朝食となった。
お待たせ。と、飛鳥が音羽の前にお盆を置く。
「さあ、召し上がり給え、私のイチオシ商品。肉汁とタレがパンに染み込み、口の中がパサつかず、油っぽさもない。これを逸品と言わずしてなんと呼ぶ」
飛鳥のプレゼンに音羽は終始全くの無反応だったが、飛鳥は気にせず満面の笑みで勢いよくかぶりつく。
そして一言。
「不味い」
「オススメじゃなかったの⁉」
咄嗟に紀寅がツッコミを入れた。
「なんか思ってた味と違う……」
「せめて私たちが口にする前に言ってよ。その事前情報はズルいって!」
「ごめんごめん、つい無意識的に出ちゃったのよ……。それにしてもおかしいなー。前に食べたときより味が濃い……居酒屋みたいな濃さだわ」
「あ……」
紀寅があることに気がつく。
「飛鳥がエリシオンに行ってるあいだに味変わったんじゃない?」
「そうかも。ここって利用者の声を積極的に反映してくれるのはいいんだけど、自分の好きなメニューが改悪されちゃうこともあるのがなー……」
飛鳥が騒ぐ隣で、音羽がその改悪されてしまったというサンドイッチを口に運ぶ。
それを見た紀寅が『どう?』と味を問う。
「別に、普通」
無愛想な返事に気まずい空気が流れるが、その意見はサンドイッチに対する悪評を軽減するには十分だった。
「うん。人それぞれ好みも違うし、こんな美味しそうな見た目で美味しくないなんてことありえないよ」
「紀寅、それって遠回しに私がバカ舌だって言ってない?」
あははと誤魔化しながら、肉とタレが挟まったサンドイッチを少しだけ齧る。
そして感想は。
「このタレは私には合わないかも」
「ほらー」
「でも、お肉は美味しいね」
「そう、肉が美味しいのよ肉が! それなのに、こんなクソみたいなタレ──クソッタレで台無しにするなんて、これはもう牛に対する侮辱じゃない? 厨房に文句言ってこようかな」
午前にしては大きめの声で騒ぐ飛鳥。それを黙らせたのは。勢いよく椅子をずらして立ち上がった音羽で。
他の二人がどうしたのかと心配そうに見つめる中、彼女は低い声音で呟く。
「たかだか食事ごときで、うるさいよ」
瞬間、音羽を中心に空間に亀裂が走る。食堂の景色がガラスのように砕けていく。
一瞬で目の前の光景がガラリと変わり、見渡す限り湖面と青空が続く異空間に転換されていた。
少女たち三人と、サンドイッチが乗せられたテーブル、それぞれが座っていた椅子、それらだけがこの異空間に迷い込んだかのよう。
突然の常軌を逸した現象に二人とも立ち上がって顔を見合わせる。
「どうなってんの? これ」
「報告書にあった天使結界⁉」
「私この子の監視役頼まれたのに知らないんだけど、なにそれ」
一度は紀寅に聞いたものの、張本人に聞いたほうがいいだろうと改めて思った飛鳥は、語気を強めてもう一人を問い詰める。
「なにをしたの? これアンタの仕業なんでしょ?」
音羽の頭上には天使の輪を思わせる半透明の青い三日月が浮かび、背後には同じく半透明の青い六枚の菱形が羽状に広げられている。それはどう見ても異質な存在であることを示唆していた。
そして、彼女は死人のような目で淡々と答える。
「どうせ教えても意味ない。ここで見たことは全部忘れるから」
「そういえば最初に会ったときも記憶がどうのって言ってたわね……記憶を操作できるの? ていうかその腕につけてるの断輪でしょ? なんで魔法が使えるわけ?」
音羽は右腕を軽く上げて断輪と呼ばれる腕輪を馬鹿馬鹿しそうに見つめる。
「これ……役に立たないよ。天使の力は魔法とかじゃなくて、この世界の外のものらしいから」
「天使……?」
「うん、私ね。世界を破滅させる天使を宿してるの」
「随分物騒な力ね」
飛鳥は苦笑しながら、横目で紀寅を一瞬だけ確認しようとする。
だが、すぐに戻すはずだった視線は紀寅に固定されてしまう。いや、厳密には彼女のすぐ後ろにいた人物に、だ。
『少し間違ってる。天使結界の実行権に人間という物体が付随している。それがオトハ』
いつの間にか紀寅の背後に立っていたのは、短めの金髪に赤い瞳、白い装束の幼い少女。
金のリングと羽状のオーラが背後に浮かぶ、まさに天使という表現が相応しい神々しさを感じる不思議な少女。
その天使のような少女は紀寅の腕を掴み上げ、無表情のまま淡々と言葉を発する。
「記憶に残らなくても記録なら残るって考えたんだね。オトハには気づかれなかったみたいだけど、私が監視してる限り無理だよ」
紀寅の右手には手帳とペン。器用なことに、手帳を持った手で同時に文字をも記していた。もちろん内容はここで起きたことや、音羽の発言内容だ。
「その姿……もしかしてイヴ……さん?」
「そう」
紀寅が尋ねると、謎の少女はあっけらかんと頷く。それに飛鳥は口を大きくあけてイヴを指差し、あたふたする。
「イヴって、本当にあのイヴ⁉ 全宇宙を創造したとかいう天使イヴ?」
「違う。それは人類の勝手な拡大解釈……。それよりオトハ……なんのつもり?」
イヴは他の二人を無視して音羽を牽制する。
「なんのつもりって別に……。ただ静かに食事したかっただけ。未来を改変するつもりはない」
「改変されるところだった」
不機嫌そうにする音羽に、イヴは顔色変えずに否定し、紀寅の持っていた手帳を掴み取って、ページを破る。
そして相変わらずの無表情のまま、呆れたように告げた。
「まさか。そんなことのために天使結界を利用するなんて」
次の瞬間、全ての音、景色が掠れ、飛鳥と紀寅の二人の意識はプツリと途切れる。
◆
紀寅は二口目をパクリといった。一口目よりも豪快に。
「うん……確かにあっさりしてて美味しいかも」
それに飛鳥がうんうんと頷き。
「やっぱりお肉が美味しいわー。でも、なんかタレの味が薄くない? まあ、これはこれでお肉本来の旨味が分かりやすいっちゃ分かりやすいけど」
そんなやり取りを横で聞きながら黙々と食べている音羽。一口、また一口とパンに齧りつく姿に、飛鳥もご満悦で。
「いい食いつきっぷりじゃない! どう? 美味しいでしょ? 気に入ってくれてるみたいでなによりだわー」
「結局うるさいまま……」
「ん? なんだって?」
飛鳥はうまく聞き取れていなかったが、音羽が言い直すことはなかった。