砂時計のアムネジア
そこはアイボリー色の壁と天井に囲われたホテルのような小綺麗な一室。
少し手狭ではあるが、ライトブラウンのカーペットが敷き詰められた床の上には、いかにも高級そうな羽毛ベッドが堂々と置かれている。
それ以外は事務机がポツンとあるだけという、少し殺風景な部屋。
彼女はその部屋で目を覚ました。
上体を起こし、窓のほうを見ればカーテンの隙間から陽光が漏れ出ている。
しばらく毛布を手で揉みほぐすように弄り、一言呟く。
「私のベッドだ……」
なぜか頭がぼんやりしており、昨日なにをしていたのか、今日なにをするのか、そういった日常的なルーチンが抜け落ちていた。
ひとまず着替えようと思い、自分の服装を確認するが。──身に覚えのない服装に困惑し、気怠い体をユラユラと揺らしながら洗面台の鏡を確認しにいく。
鏡に映った姿は服装もそうだが髪も少し不自然だった。
赤みを帯びた茶の長髪は寝起きとは思えないほど整っており、普段から色白ではあるものの、いつも以上に白い肌。それは美白というよりも貧血という言葉が相応しい。
赤い瞳も相まって吸血鬼のようだった。
そして服装だが、紺色のブレザーに少し短めのプリーツスカート。その下には短パンを穿いていた。
それは彼女が所有していない衣装。
ならばこの格好はなにか……。一応一人だけこの不可解な現象を引き起こした犯人と思しき者に心当たりがある。
十中八九あの子に間違いないだろう。と確信した少女は、その者に直接文句を言うべく、奇妙な格好のまま自室を飛び出た。
廊下の両脇にはズラッと扉が並び、部屋数はこのフロアだけでも二十はくだらない。こんな長ったらしい廊下を寝起きに歩かされるのはきついものだが、実は目的の人物がいるのは隣の部屋である。
朝であるにも拘わらず扉を乱暴に叩き、中の住人に騒音をお見舞いしてやると、十数秒くらい経ってから扉が開く。
顔を覗かせたのは屋内なのにカンカン帽を被った同世代の少女。
パッチリとした黒い瞳に、二つ結びの黒髪。白いボタンダウンシャツに黒いネクタイを締め、腰にはミニスカートを穿いている。
驚いて言葉が出ないその少女に向かって、先手を打つように怒声を浴びせる。
「ちょっと紀寅! また寝てるあいだに変な服を試着させたでしょ? 何度も言うけど、私はマネキンじゃないんだからね」
「飛鳥……⁉ もう大丈夫なの?」
出てきたのは文句への返事ではなく、気にかける言葉だった。
「……大丈夫ってなにが?」
「やっぱり……憶えてないんだね。その制服は飛鳥が自分で着たんだよ?」
「またまた~。そんな新パターンのドッキリなんていいから! もしかして、昨日私が紀寅の分のお餅食べたことまだ根に持ってる?」
心配そうに顔色を窺う紀寅に、ヘラヘラと笑いながら返す飛鳥だが、紀寅は深刻な面持ちを崩さずに続ける。
「飛鳥が言ってるのって、休暇中に旅行に行ったときの話だよね? あれはもう半年以上前のことだよ」
目を伏せ、言葉を詰まらせそうになりながら絞り出した言葉は、飛鳥に真実を察させるには十分な様相だった。
「飛鳥は任務でエリシオンに行って、それで敵と交戦中に──」
「また記憶失くしちゃったのかー。時間が経てば戻るとはいえ、難儀な特性だわー」
説明の途中でなにがあったのか理解し、わざとらしく楽観的な口調で言い放つ。
しかし、その瞳には薄く悲しみが滲んでおり、笑顔を作っているはずなのにどこか哀愁に満ちた表情になってしまっていた。
そこに紀寅が慰めるように微笑みかける。
「大丈夫だよ。飛鳥は暴走なんてしてないし、誰も傷つけてないって朝倉さん──と朱雀くんが言ってたから。任務の報告も全部聞いてるし、飛鳥は無理しないで落ち着くまでゆっくりしてて」
「別に無理なんてしてないけど……まあ、仕事休めるんならお言葉に甘えて」
お調子者っぽくそう言ってベロを出す。
本当は記憶を失ったあいだになにがあったのか不安で仕方ない。それでも目の前の親友に心配をかけまいと楽しげに振る舞おうとしていた。
そして紀寅も飛鳥のノリに合わせるように冗談っぽく。
「ところで……私のお餅はどう償ってくれるの?」
「こ、今度ご馳走奢ります」
「楽しみにしてるね」
紀寅の期待にアハハと誤魔化すように笑い、ゆっくりと扉を閉める飛鳥。
──本当に暴走してないの?──
と心の中で自問しては強い不安に駆られる。
記憶を失っているというのは誰だって不安なものだが。彼女はまた別格だ。
過去にも何度か記憶を失ったことがあったが、それは時間経過で回復していく。
問題は取り戻した記憶がどれも壮絶かつ凄惨であること。記憶が戻る度に必ずトラウマも一緒に蘇る。
目の前で肉親が処刑される記憶。罪のない人々が虐殺されていく記憶。それらの記憶は永遠に忘れていたほうがきっと幸せだ。
彼女を襲う不安はただの記憶喪失者とはわけが違う。
廊下をトボトボと歩きながら、刻一刻と記憶の復元が迫っている恐怖に苛まれていた。
「嫌だ、記憶なんてずっと消えていればいいのに……」
さっき紀寅と話していたときの空元気などどこにもなく、嗚咽をこらえながら弱音を吐くことしかできない。
『だったら、消したままにしてあげよっか?』
不意に独り言に言葉を返され、ピタリと足を止める。
背後を見ると、黒髪の少女が感情が死滅しきった虚ろな瞳で睨んできていた。
他人に弱い部分を見られまいと、咄嗟に気丈な態度に切り替える飛鳥。
「誰……? 新入隊員? なに他人の小言に割り込んできてるのよ」
「飛鳥ちゃん、記憶を失ったんだってね……つらい記憶なら、消したままにしてあげるけど……」
「はい?」
突拍子もない申し出に声を裏返らせる。
目を瞑って黒髪の少女が。
「そう……これもダメなんだね……うん、わかってる。歯車はちゃんと残すよ」
一人で誰かと話しているようだったが、この場には気味の悪い根暗な少女と飛鳥以外に誰もいない。
「キミ、頭のほうは大丈夫?」
「飛鳥ちゃんの記憶、消せないみたい」
「そりゃ、どんな高度な魔術だろうと記憶改変なんて無理でしょうけど……」
黒髪の少女は話を聞いていない様子で悠然と歩きだし、立ち尽くす飛鳥を置いて廊下を進む。
「全部終わったあとに……私が殺す……私が、殺す……」
ブツブツと小声で呟きながら、廊下の角を曲がる。その様は亡霊にすら見えてしまうほど纏っているオーラが暗黒そのものだった。
ふと飛鳥のお腹がギュルルと鳴り、自分が空腹だったことに気づく。
「とりあえずまあ、食堂行って腹ごしらえを……」
しばらく硬直し……。
「って、いまの見過ごせるかあ!」
元気よくツッコミを入れ、あまりの衝撃に自分の記憶喪失のことすら一旦忘れ、ドタバタと紀寅の部屋の前に戻り、扉を何度もノックする。
「ちょっと、紀寅! 明らかにやばい奴が! 宿舎に不審者が侵入しちゃってる!」
飛鳥の大声が宿舎中に響き渡る。時間帯的には早朝だったりするのだが、そんなことお構いなしに容赦なく大声で喚き続けた飛鳥は、何十人もの人を眠りの世界から連れ戻してしまうのだった。
◆
二十畳の応接室に十数名の男女が集まり、なにやら重苦しい雰囲気に包まれている。
黒都国の暗号文字で書かれた『緊急会議』の四文字が書かれた紙を掲示板に貼り、椅子に座る者、立っている者、テーブルに座る者など、なんともお粗末な会議場がそこに広がっていた。
そしてテーブルの上に座り、アイギス魔法騎士団の制服をだらしなく着ている目つきの悪い赤髪の男が、不機嫌そうに周囲に尋ねる。
「それで、全員揃ったのか?」
それに答えたのは黒髪黒スーツに黒サングラスという全身黒ずくめの男──朝倉臥魔。
「招集したのは団長なので、ご自分で確かめられてはどうでしょう?」
「それが面倒だから聞いてんだろが……まあいい、時間も五分くらい過ぎてるし、多分揃ってるだろ。遅刻なんてする奴がいたらぶっ殺すまで」
そう、この荒々しく言葉を吐く男こそ当魔法騎士団の団長である。かなり着崩して制服を着ているが、逆にこの空間で制服を着ている人物は団長ただ一人であり、それ以外の全員が私服だったりするのだが。
「よし会議を始めるぞ」
のあとに一拍置いてから女の子の声。
「すみません、遅れました」
白いシャツに黒いスカート、頭に黒いカンカン帽を被った少女──玄武紀寅が入り口から慌てて入ってくる。
団長は険しい顔で一言。
「おう、席につけ」
テーブルから降り、棚から一冊のファイルを抜き取る。
続いて朝倉が軽口を叩くように。
「遅刻されたようですが、ぶっ殺さなくてよろしいのですか?」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら尋ねる。
瞬間、凄まじい反応速度で団長がズボンのポケットから奇妙な黒い短刀を取り出し、それを振るう。
短刀だった物体は柄の部分が如意棒のように一瞬で伸び、切先は真っ直ぐ朝倉の顔面に突き立てられた。
団長と朝倉のあいだには五メートル以上の距離があいていたが、黒い長槍は余裕で朝倉の顔面に届いており、さらに突き刺さったまま両者の距離を広げる。部屋の壁に朝倉が磔にされたのはほんの半瞬後のことだ。
「ぶっ殺したぞ、これでいいか?」
一言言ったあと団長は何事もなかったかのように、磔になっている朝倉を無視して緊急会議を始める。ほかのメンバーも特に気に留めている様子はなくそれに応じる。
「ここにお前らを集めたのは事前に話してた通り、ヴァーユの鍵保持者がアトロポスの馬鹿どもに拉致られたからだ。これから他国の基地に潜入して救出しに行こうってわけだな。はっきり言ってクソだ」
言いながら槍を弄ぶようにグリグリしたあと朝倉の顔から引き抜くと、槍だったはずの武器は柄が急速に縮まり、再び短剣と呼べる短さまで一瞬で長さが変化する。
欠損した顔面を持ち前の再生能力で修復し終えた朝倉が、涼しげな顔で付け足す。
「我々が遭遇した相手はカドゥケウス騎士団の〈暴風〉で間違いありません。しかし、件の騎士団はみなさん知っての通り、二つの国家が保有する組織です。本部のあるヘルメス共和国と、〈暴風〉が所属するカトメロス支部のあるアトロポス帝国、この両方を同時に調査する必要があります」
続いて紀寅が小さく挙手をしてから。
「班分けはそれぞれの適正と土地勘を基に私が決定しました。作戦書を配りますね」
一枚一枚仲間に配っていく。
全員が書類に目を通す。完璧な人選に誰からも反論はなく、次の団長の言葉を以て作戦が開始される。
「よし……クソ会議は終わりだ。移動中にこの作戦書を熟読しろ。わざわざ精鋭を集めた理由はわかってるな? 事は一刻を争う。お前らの働きにこの世界の命運がかかってるぞ。いますぐ出立しろ」
会議に参加していた一人が小首を傾げる。
「え? 世界の命運がかかっているんですか? それはどういう……」
「詳細は極秘のため、伝えることができん。とにかく世界が危ないんだ、さっさと行け」
かくして各団員に詳細が告げられないまま、世界最凶の魔剣使いを奪回するための作戦が開始された。
実働部隊ではない隊長と紀寅だけが部屋に残る中、他に誰もいないことを確認し、紀寅が口を開く。
「世界の命運ですか……。立場上、私が知ることは許されないと解ってはいますが、ざっくりとした説明すらないので、気になって仕方ないです……」
それに団長はすんなり事実を教えてしまう。
「俺も知らん」
「はい? いまなんと……?」
「俺はなにも知らん。前団長の遺言で、五つの鍵を集めなければ世界から自由意志がなくなる。プログラムで管理されたディストピアに成り果てるらしい」
「根拠もなく信じて、実行に移してしまったということですか?」
呆れた表情を浮かべる紀寅に、団長は至って真面目に返す。
「そうだ。あの人の話を信じるのに根拠はいらん」
会議のときは終始めんどくさそうに執り行っていたが、今はその姿を微塵も想起させないほど、意志のこもった力強い瞳が大局を見据えていた。