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月に咲くプリムローズ  作者: 音無哀歌
プロローグ
13/17

境界と夢鏡の空

挿絵(By みてみん)

 肌を刺すような冷えきった風が粛然と吹きつける夜道で、十歳と五歳の姉妹が寒さに負けることなく元気に歩いていた。白い息を吐きながら仲良く繋いだ手をブランコみたいに揺らしている様は実に子供らしく愛らしい。

 数分前まではクリスマスソングが流れる賑やかな商店街で遊んでいたが、いまは自宅へ帰るため、人通りの少ないしんみりとした雰囲気の住宅地を横切っている。

 喧騒の落差が激しく、普通なら帰り道特有の物寂しい空気で気分が沈みそうなものだが、二人は高揚感に満ちており、帰宅後のパーティーが楽しみなあまり、寒さすら忘れていた。

 特に姉のほうはつい先週誕生日だったこともあり上機嫌。目線は常に地平線の先にあり、周囲のことなど見えていない。

 そのため、不意に鳴り響く衝撃音の正体にもいち早く気づけず、発生源を直視するまで状況を理解できなかった。

 道路上にひどくひしゃげた金属の塊が二つ。原形をとどめていないが、それらが自動車であったこと、そして事故を起こしたことは想像に難くない。

 だが、幼い少女の思考速度には限界がある。一台が勢いのまま暴走を続け、自分たちに向かってくるのを頭では理解するも、即座に回避行動に移すことはできなかった。

 刹那が過ぎ、金属の塊は電柱に激突。大きく歪曲した車体に硬い電柱がめり込む。

 気がつくと少女は尻もちをついた状態で歩道の上に座り込んでいて、体に走る重い痛みでその場から動くこともできず、詳しい状況もわからぬまま、姿の見えない妹の名を掠れた声で呼んだ。

観音(みおん)?」

 返ってきたのは静寂と、指先に触れた生暖かい感触だった。手元を確認した少女が見たのは、石畳の上にゆっくりと広がっていく赤い液体。

 どこから滴っているのか、その液体の発生源──命の所在を目で追い始める少女。視線がたどり着いた先は電柱と潰れた自動車の間で、両者の隙間からさっきまで繋いでいたはずの小さな左手がはみ出ているのを見て言葉を失う。

 どう考えても二つの物体の間に人間が入れる余裕などない。そんな隙間は見受けられない。誰がどの角度から見てもわかる、即死だ。

 これだけでも心を大きく抉る悲劇だが、まだ続きがある。

 電柱に突っ込んだ自動車はドアが外れており、丸見え状態となった運転席にあったのは男性の変わり果てた姿。皮肉なことにそれは姉妹の父親であり、娘たちを迎えに来る途中で暴走するほかの自動車に衝突され、このような事故に発展したのだ。

 置かれた状況を完全に理解した少女は、顔から一切の血の気がなくなり、体は死体のように硬直。彼女には家族が二人死んだという事実を脳内で整理することができず、悪夢のようなこの凄惨な光景をただ目に焼きつけることしかできなかった。

 ──月日が流れても少女は外出できないほどの喪心状態が続き、部屋にこもって耳を塞ぐ毎日が続く。彼女にとって家の前を通る自動車のエンジン音すらも、心的外傷を抉る強い刺激となっていた。そしてその都度事故の光景や葬式、妹の手の感触など、頭の中でつらい記憶が幾度となくループを繰り返したという。

 心配した友人たちが家を訪問しても決して会おうとはしなかったので、そのうち立ち直るには時間が必要だとか言われ始め、次第に少女に会いに来る友人もいなくなっていった。

 ただ一人、幼馴染の少年を除いて。

 彼だけはしつこく会いに来ては、少女の部屋に向かって大声で呼びかけたり、差し入れを持ってきたり、根気強く少女に執着していた。それでも少女が心を開く気配はなかったが、会えないことに痺れを切らした少年は、事もあろうに皆が寝静まった頃を見計らい、二階のベランダによじ登って少女の部屋に直接訪問した。

 少年が何度も窓ガラスを小さくノックして少女を目覚めさせると、寝起きで頭が回らずわけがわからない少女は、なぜか幼馴染が窓の外で寒そうにしているという不可解な状況に、無意識的に窓をあけて少年を迎え入れてしまう。

 少年が久方ぶりに見た少女は完全に生気を失っており、窶れて元気がないどころの話ではなく完全に死人のそれ。体が動いていなければ死体にすら見えてしまう。

 少年はなに一つとして言葉を発さないままの少女の隣にちょこんと座ると、自嘲気味に語り始めた。

「昨日さ、ナギハヤから『お前はもはやストーカーだよ』って言われたんだけど……もし音羽が迷惑してるなら、明日から来るのやめようと思うんだ。警察に捕まるの嫌だし……ボクがやってることってストーカー、なのかな?」

 不安でいっぱいになりながら尋ねると、依然として表情の死んだ少女──音羽はどこか遠いところを見据えたまま無言でゆっくりと頷く。

「え? そうなの?」

 ひどくショックを受けた少年が泣きそうな顔で聞き返すと、音羽は我に返ったように少年のほうを向いて一言。

「ごめん、聞いてなかった」

 それは少年が事件以降に初めて聞いた音羽の言葉。大して特別な意味が込められた発言ではないが、少年にとっては喜びと同時に安心を覚えるものだった。少しでも生きた人間らしさのある振る舞いを見れたからだ。

 しかし、自分に関心が向けられていないことに些かの寂しさを感じる。

「ボクが犯罪者かどうかなんて話、どうでもいいか」

「犯罪者? なにか悪いことしたの?」

 物騒な単語が出てきたことで、音羽の関心はようやく少年に向けられるが、それでも表情の変化は微かなもの。

「それが自分じゃわからないんだ……ボクが音羽に会いに行くのって悪いこと?」

「うん」

「やっぱりそうなの⁉」

「だって、平日も家の前で叫んでるよね……学校行かないとダメだよ」

 かく言う音羽も学校に行っていないのはお互い様だが、とてもそんな精神状態ではないのは少年も重々わかっている。だからなにも言い返せない。

 とはいえ不勉強が好ましくないのも事実。そこで少年はある打開策を思いつく。学校に行かずとも誰からも文句を言われない、そんな都合のいい策を。

「なら、ここで一緒に勉強するっていうのはどう? 音羽だって勉強しないとダメじゃん」

 音羽は沈黙する。不満を感じているわけではないが、どうも乗り気ではない様子。

 そこで少年はもうひと押しする。

「進学しても、ボクと音羽、ナギハヤの三人で同じ学校に行きたいんだ。だから、ボクが家庭教師になってあげる」

「同い年なのに家庭教師?」

「うん! 音羽の役に立ちたいんだ」

 どんどんテンションが高くなっていく少年だが、音羽のテンションはあまり変わらない。むしろ少年のせいで相対的にさっきより暗く見えるくらいだ。

 音羽はちょっと口ごもりながら、ぼんやりと天井を見上げながら答えた。

「別に……いいよ」

「ほんと⁉ じゃあ明日から毎日勉強教えに来るね! こう見えても人に教えるのは得意なんだ」

 ぱあっと明るくなる少年に対し慌てて訂正する音羽。

「違う! 別にいいよっていうのは、そっちの意味じゃなくて……」

 だが、興奮した少年には聞こえておらず、彼は窓をあけて、

「あんまり早いと迷惑だろうから朝十時くらいに来るね、それじゃあ」

 そう言って笑顔を見せたあと、静かに外へ出ていく。

 呆気にとられた音羽は部屋で一人呟く。

「そこまでしなくていいのに……」

 言葉とは裏腹に、音羽の表情は僅かにだが和らいでいた。数分前まで過去を見つめていた瞳は、間違いなく未来に向けられている。

  ◆

 幽霊都市の中心地近くに走る小ぢんまりとした商店街。かつては賑わいを見せたその場所も、今では廃墟と成り果て、加えて漆黒の霧によって侵されている。

 突として意識を覚醒させた月読御言は、その商店街の石畳上で、綺麗な姿勢で横たわっていた。

 現在地に驚く様子はなく、無意識的に腹部を手で庇いながら体を起こすと、ある不審な点に気づく。ルキフェルによって穴をあけられた腹部がなぜか無傷で、破れていた衣服すらも元通り。

 立ち上がって何度かお腹を拳で軽くノックし、少しの痛みも感じないことに困惑しながら顔を上げると、十歩ほど離れた位置に直立不動で構えていた朝倉臥魔と視線が合う。

 朝倉は待ってましたと言わんばかりに、目が合った瞬間に淡々と告げる。

「あのままでは間違いなく死んでいたことでしょう。なので、私が治しておきました。命の恩人に、なにか一言お願いします」

 重要臓器を含む肉体の欠損という通常なら完治不可能な怪我を、事も無げに治したと口述する朝倉。それも医者としては蛇足としか言いようがない感謝の催促を添えて。

 口をあけて唖然とする御言は、これまでこの男から受けてきた仕打ちを思いつく限り思い返し、怨言を浴びせた。

「元はと言えば、お前が俺の体に変な装置埋め込んで強制的に従わせた結果死にかける羽目になったんだぞ? 命を救われてもプラマイゼロ。いや、むしろ今までの分を含めればマイナスだ。少しでも俺に感謝してほしいんなら、せめて怪しい装置だけは俺の体から取り除け」

 朝倉が怪しくニヤリと笑みを浮かべ、それを見た御言が身構える。

「お前がそういうふうに笑うときって、大体が不吉な前兆なんだよな……」

「今回は吉兆なのでご安心を。あなたの仰る装置についてですが、実はそのようなものは最初から仕込んでおりません」

「は? じゃあ、あのときの脅しは……」

 半ば脅される形で戦線に投入され、一歩間違えれば命すら失っていたのに、その脅しが嘘だった。もはや返す言葉も見当たらない御言は、怒り、呆れ、憎しみ、あらゆる激情を織り混ぜた表情のまま放心状態となっている。

「あのような単純な嘘に引っかかっていただけると、作戦が進めやすくなるので大変助かります」

 おちょくらんと小馬鹿にした態度で口が回る朝倉。

 ついに限界が来た御言は手のひらを朝倉に向けて突き出し、唇を震わせながら言い放つ。

「鎌鼬で細切れにされる前に、なにか言い残すことはあるか?」

 なにも知らない人が見れば意味不明な構えだが、御言はどこにでも好きなように風を発生させる≪鍵≫と称される能力を持つ。これは軽く拳銃をも凌ぐ力であり、単純にただ素手を突き出しているというわけではない。即死級の武器だ。

 朝倉はそれを知っているはずだが、顔色一つ変えずに事務的に言葉だけを返す。

「二つございます。まず、浮遊術式を切ったことで降魔殿を墜落させることには成功しましたが、地上に降りたルキフェルが我々に報復するために辺りを徘徊しています。あまり悠長にしていると発見され、我々二人ともども瞬殺されてしまいます」

「それは死活問題だな」

 未だ命の危機に瀕していると知り、若干の平静さを取り戻した御言だが、すぐにまた激昂することとなる。

 続けて朝倉が口にした内容は……

「そしてもう一つ。奥の手だった清水さんは殺されてしまい、ルキフェルに抵抗するまともな手立てがもうございません。それどころか……」

 途中で言葉を遮り御言が聞き返す。

「音羽が死んだ?」

「ええ、そこに遺体がございます。回収するつもりはありませんでしたが、偶然にも近くに降ってきたので、ついでに拾っておきましたよ」

 涼しい顔で、ある一点を指差す朝倉。

 御言が背後を振り向き、示された場所に視線を移すと、そこにあったのは音羽の変わり果てた姿。胸にあいた大穴から肉と臓物がずれ落ち、血液がじわりと滲み出ている、直視するにはあまりにも哀れな亡骸。

 しかし、この紳士姿の男は一切の同情も寄せておらず、それどころか片笑みすら浮かべているのである。御言がこの男に向ける軽蔑の眼差しは、もはや人畜を通り越してカビや便器のシミでも見るような目つきだった。

「勝手に巻き込んで死なせておいて、よくそんな顔をしていられるな。そもそも、なんで音羽を連れてきた?」

「先ほど申し上げた通り、奥の手として用意していたのですよ。清水さんの持つ任意の事象を消し去る力は非常に強力なので。しかし、先方には作戦が漏洩しており先手を打たれてしまったわけです。私の失態ですね」

「ああ、そう……」

 自分の失態と言いつつも反省の色が全く見えないのは相変わらず。

 そして意外にも御言のほうも感傷的にならず、それ以上音羽について言及することはなかった。もうすでに済んだことと言わんばかりに今後の話に移る。

「それで……これからどうするんだ? どうせお前のことだから、まともな手立てがないだけで、まともじゃない手立てはあるんだろ?」

「そうですね、まずは次なる脅威となった清水さんから逃げきってから考えましょう」

「なにを言っているんだ……?」

 眼前にある死体から逃げる。聞き間違いかとさえ思える発言内容だが、朝倉はその奇妙な話を至って冷淡に続ける。

「現在、新たに出現した清水さんが周囲の物質を消し続けています。土壌だけは残されているため、差し詰め文明のリセットと言ったところでしょうか。このまま放っておくと、人類の痕跡は地球から跡形もなく消え去りそうですね」

「ちょっと待て、話がぶっ飛びすぎて全然理解できない。新たに出現したって、音羽が二人に増えたのか?」

 さらなる詳細を求めるも、その答えが返ってくる前に息を切らした男女二人がこの商店街に駆け込んできたことで、会話は一時中断される。

 その二人とはヴィクセンと、悪魔に操作されていたはずのカプリ。既に悪魔から解放されているのか、操られていたときには見受けられなかった感情が表情に表れていた。まあ、それも怒りや不安といった負の感情なので、支配が解けているからといって素直に喜べるような状況ではなさそうだが。

 ヴィクセンは憤懣の宿った瞳で朝倉を睨み、これまでの彼の言動からは想像できない力強い声で問い質す。

「やっと見つけた。まったく、死ぬかと思ったよ。墜落するなんて聞いてないんだけど、どんな料簡(りょうけん)があってあんな指示を出したんだい? 答えてもらおうか」

 握る拳には力が入っており、怒りが爆発する寸前なのは明らか。しかし、朝倉はぶつけられた感情を意に介さない態度で、むしろ機嫌良さそうに抑揚をつけて答えた。

「もちろんお教えします。そもそも降魔殿とは巨大なアルゴノーツ。空間転移術式が備えつけられているので、あのまま空に浮かんでいてはイストリアが危険に晒されてしまうのです。破壊しない選択肢はないでしょう」

「ボクが聞きたかったのは墜とした理由じゃなくて事前に詳細を伝えなかった理由なんだけど……ひょっとしてアレかい? 確実に墜とすためにあえて言わなかったわけだ。作戦を躊躇うと、そう思ったわけだ」

「上空三百メートルから落下することなど、エリートであるあなたにとっては瑣末なことだと思いますが」

「そうだね……」

 直後、ヴィクセンの拳が朝倉の顔面に真っ直ぐ伸びる。それは目と目の間に直撃し、サングラスを砕く。そして、激情を圧縮したようなヴィクセンの怒号が響く。

「そりゃ瑣末だろう……墜ちるってわかっていれば、ね。咄嗟だったから危うくカプリが死にかけた。ボクだけなら気にしないけど、か弱い女の子を危険に巻き込むのは許さない」

 中央から折れたサングラスが地面に落ち、朝倉の真っ赤な双眸──光沢も感情もない虚ろな瞳が露出する。

「これは失礼しました。あなたが一緒のときは少女の扱いには気をつけます」

 冷徹さを感じさせる顔立ちでありながら、剽軽な物言いで謝罪する。

 全く懲りていないようだが、発散して平静さを取り戻したヴィクセンが怒りを覚えることはもうなかった。この男にこれ以上反発しても無意味であり、精神が疲弊するだけなのである。

 そして会話が一段落ついたところで、終始ピリピリした様子で傾聴していたカプリが口を開く。

「雑談は以上? 私はあの光が一体全体なんなのか聞きに来たんだけど。あれがルキフェルって奴の仕業なわけ? 結局復活させちゃったの?」

「はい、残念ながら魔王の復活は阻止できませんでしたね。しかし、あの光に関してはルキフェルが引き起こしたものではありません」

 カプリと朝倉の会話に出てきた()が気になった御言は、もしやと閃く。

「その光を発生させたのがお前の言っていたもう一人の音羽か?」

「ええ、周囲の物質を異空間に飛ばしているか、もしくは空間そのものを異空間に変えているか、とにかく触れないほうが懸命かと」

 続けてヴィクセンが鬼気迫る表情で補足する。

「あれに触れると光子に変換されて消滅するよ。さっきここに来る前にオーケストラ部隊が呑み込」

 喋っている最中に商店のシャッターを突き破ってきた七色に輝く光の帯が、そのまま彼の体を貫く。

 光に触れた建物やヴィクセンの肉体は、瞬く間に光子に変換され、小さな粒となって霧散して消滅した。皮肉なことに、触れたらどうなるかを口で説明しようとし、体で説明することになってしまった。

 眼前の建物が消えたことにより、町の中心地まで一直線に見通せるようになった他、上空にも光の帯が伸びているのが確認できる。触れたもの全てを消し去っている様子は、黒い霧で包まれた町を浄化するかのようだった。

 それまで状況が理解できなかった者でも、事態の重大さに気づかされざるをえない。

 そうこうしているうちにも七色に輝く光の帯はその数を増やし、町中の建造物を無差別に貫きながら、それらを光子に変換して消滅させていく。

「どうやら距離を置いたほうがよさそうですね」

 朝倉は落ち着いた口調の割には動きが機敏で、御言を軽々と肩に担ぎ上げ、走りだす。

「ちょ、待ってよ!」

 置き去りにされそうになったカプリは泣きそうな声を上げ、足元の水たまりに急いで飛び乗り、魔術によってその水を足場にして路上を滑走しながら朝倉のあとを追う。

 光から逃げる道中、カプリが俯きながら呟く。

「一瞬だった……ずっと過ごしてきた仲間たちが、あんなに強かったヴィクセンたちが、一瞬で死ぬなんて……」

「いえ、死んではいませんよ。オーケストラ部隊に関しては消滅するのは二度目になる、と言えば多少は安心していただけるかと思います」

「どういうこと……?」

「戻す方法は一応あるのですよ」

 そう言って朝倉が足を止めた。例の光から距離を稼いだとはいえ、足を止めるべきではないのだが、足を止めたのにはそれ相応の理由がある。

 カプリは戻す方法とやらを試すために止まったのかと一瞬考えたが、そうではない。

 黒い霧に包まれた暗闇の街角で、脇道から悠然と姿を現したのは黒装束で黒髪という一見すると目立ちそうにない格好の男。しかし、異様なほどに存在感を放つその美青年の登場は、足を止めるに十分だった。

「まさか……こいつがルキフェル?」

 初めて見るカプリにも、それが悪魔の王であると一発で理解できた。

 彼は忌々しそうに朝倉の顔を真っ直ぐ睨み、それ以外の二人は最初から見えていないかのように振る舞う。

「ようやく見つけたぞエッセンティア。まさか私の城を落としておきながら無事に帰れるなどと思ってはおるまい」

 背後からは無作為に全てを消滅させる絶対的な力、正面からは作為的に全てを消滅させることができる絶対的な力。さすがの朝倉もこの状況には手詰まりのようで、体を緊張させたまま、慎重に言葉を紡ぐ。

「この状況で戦うのはあなたにとっても得策ではないでしょう。いかに最上級悪魔であれ、天使結界の前では赤子も同然ですから」

「この私が戦う……だと? 理に縛られた存在ではどれだけ束になろうと、戦いにすらならないのは自明だろう」

 手を振り上げると、黒い光が彼の周囲に生成され、いくつもの拳大の黒い玉を形作っていく。

「今日で貴様の顔も見納めだ」

 ルキフェルがどこか口惜しそうに呟き、手を振り下ろす。

 その瞬間、カプリが大声で叫ぶ。

「アヴァルスの娘がいる!」

 まるで合言葉でも言うかのよう。

 ルキフェルは手を振り下ろしきったものの、黒い光は何事もなくその場で消失。そして、眉をひそめながらカプリに問いかける。

「娘がいるだと? 奴も堕落したものだ……だが、それがどうした?」

「アヴァルスは死んだけど、その娘なら、こ、この町にいる」

 カプリはやはり自信なさそうに思いつきを言うみたいに言葉を連ねていく。

 ややぎこちないが、断言しきった。自分でもなにを言っているのか理解していない、そんな表情で。

「それは真か? 逃げ延びるための虚言ではないだろうな?」

 ルキフェルはその不確かな情報に食いついてくれたが、その確認の言葉にカプリは返答できなかった。ルキフェルに気圧されたまま黙り込む。

 そこで代わりに答えたのは朝倉。

「ええ、本当です。この町に陛下のご子息がいらっしゃるのは紛れもない事実。よろしければ案内致しましょう。もちろんその場合、私たちは見逃していただけるのでしょう?」

「貴様たちを消し、記憶を奪えば案内されるまでもない、が……いいだろう。アヴァルスの遺児さえ消せば満足だ。疾く案内しろ、ただし三人とも私の視界から出るな」

 ルキフェルは思案しながら返答し、最後には恣意に任せた。

「ついてきてください」

 朝倉が不敵な笑みを浮かべ、御言を担いだまま人間離れした速度で走りだす。

 それに追随するようにカプリ。そしてルキフェルは最後尾から一定の距離を保ったまま宙を浮遊しながら進む。

 朝倉に担がれた御言は離れた位置から追いかけてくる悪魔の王と目が合いながら、小言でも言うように朝倉に尋ねる。

「誰なんだよアヴァルスっていうのは」

「もう一人の悪魔王ですよ。すでに他界しておられますが」

「なるほど、そりゃルキフェルさんが食いつくわけだ。ナンバーワンじゃないと気が済まなそうだもんな……それで、もちろん娘がうんぬんっていうのは嘘なんだよな?」

「いえ、これに関しては真実ですよ。なぜカプリさんがご存知なのか、それはわかりませんが、まさにこの町にいらっしゃいます」

「悪魔王の娘か……一体どんな奴なんだ?」

 答えは返ってこない。そしてこの素朴な疑問を最後に、目的地に着くまで会話が交わされることはなかった。

 しばらくして朝倉がなんの変哲もない一階建ての侘しい倉庫の前で立ち止まり、その建物の閉じられたシャッターを横目で見ながら手で指し示す。

「この中で休んでいる最中です」

 場を支配する緊迫と重圧が最高潮に達する中、ルキフェルはからからと笑いだす。

「やはり虚言だったか。私がエクトエゼル領域内の生体を知覚できることを貴様は知らなかったようだ」

 壁を消した。音すら発生させず、倉庫の屋根と壁だけが一瞬で消えた。

 倉庫の内装が露わになるが、そこにはダンボールしか積まれていない。

 ルキフェルが続ける。朝倉を蔑むように睨みながら。

「なにを企んでいたかはこの際どうでもいい。私は貴様に失望した。このようなもので私を謀れるなどと……」

 と、そこまで言ったところで朝倉が遮る。

「やはり消してくれましたか。いまあなたが消したのはニンフに設置させた多重術式の一部です。簡潔に説明すると、破壊することで空間転移が発動するというものです。私が万一の時に用意していた脱出装置と言えばわ……」

 刹那、朝倉の姿が青白い光のエフェクトとともに消えた。

 御言とカプリとルキフェルの三人を残し、朝倉の姿だけが消えた。ルキフェルが感心したように御言たちに言葉を投げる。

「お前たちもしてやられたようだな。まさか奴一人で逃げ出すとは」

 その言葉に誰もなにも返さなかった。

 ただカプリは腰を抜かしてその場に崩れ、誰に言うでもなくブツブツと呟き、

「どうして、こんなはずじゃ……アルテミスはこれで助かるって……」

 これからすぐに訪れるであろう死を悟り、絶望しきった表情を浮かべ、ルキフェルに狼狽していた。

 ルキフェルはそんなカプリに歩み寄り、怒りも呆れもない、淡々とした口調で告げた。

「確か最初にアヴァルスの娘がいるとほざいたのはお前だったな」

 カプリの肩から先と太ももから先、両手両足が消失し、血を噴き出しながら地面に倒れ伏す。

「ただでは死なせん。死に際まで苦痛を受け、己の愚行を悔いて()け」

 さらにルキフェルはカプリの血だらけの肩を足でグリグリと踏みにじる。

 カプリが叫ぶ。鼓膜を突くような甲高い声が響き、一帯はその音だけが支配した。

 御言は咄嗟に地面を蹴り、自身に背を向けているルキフェル目掛けて走りだす。悲鳴のおかげで足音はかき消され、ルキフェルの耳には届いていない。

 カプリを助けたいとか、そんな感情的な理由などではなく、単純にこの瞬間が悪魔の王を倒す好機と見た。

 一ミリでも手で触れることができれば敵の能力をコピーし、勝利することができる。その希望が御言を突き動かしていた。

 しかし、ルキフェルは目視することなく御言の突進を捉えていた。エクトエゼル領域内の生体を知覚できる彼にとって、目を閉じていようと他者の位置が手に取るようにわかる。

 伸ばされた腕を紙一重で躱し、二人がすれ違ったあと、御言の両手両足はカプリと同様に消滅していた。

 地面に転げ落ちた御言は明らかに平静を失った様子で悲鳴を上げ、鼓膜を刺激されたルキフェルは不愉快そうに御言を見下ろす。

「しかし過ぎた力だ。お前は神器(ソーラ)を持つ器として相応しくない。たかだか稀有なだけの能力一つでこの私に挑むとは」

神器(ソーラ)……?」

 目を見開き、横目で必死にルキフェルの姿を捉えながら聞き慣れぬ単語を復唱するが、これ以上会話する気がないのか、沈黙するルキフェルは踵を返して移動を始めた。別に彼は直接手を下す必要はないのだ。このまま放置していても謎の光によって御言たちは消されてしまうのだから。

「待てよ! 死ぬ前に神器(ソーラ)について教えてくれ!」

 四肢を失い、大量に出血しているにもかかわらず、ここぞとばかりに威勢を張る御言。

 ルキフェルは立ち止まり、自身に立ち向かった者への礼儀として、最期の言葉には耳を傾けることとした。

「お前の持つ力のことだ。神器(ソーラ)は器によってその性質が異なるというが、お前の場合は魔法に直接関与するか、術者本体に触れることで一つだけ能力を複製できる……だったな? 四肢を失えばもうなにもできまい」

「朝倉の話じゃ、この能力があればお前の力も無効化できたはずだ、話が違う!」

「肉体ではなく空間そのものを消した。と、城でエッセンティアが言っていただろう。されば神器(ソーラ)も形無しとなる」

 流石に二言目は余計だったのか、ルキフェルの表情が少し歪んでいて、言葉を返すのが億劫になっているのが窺えた。

 それでも御言は会話を終えようとせず、なぜか不敵に笑う。

「やっぱり能力をコピーされたらマズいっていうのは間違いないんだな……だったら死ぬ前に一つ面白いことを教えてやるよ。悪魔王様のお前が度肝を抜くような、新事実をな……アヴァルスの……娘より……」

 言いながら見る見るうちに元気がなくなっていく御言。声量も次第に小さくなり、離れた位置にいたルキフェルには当然その声が届くことはない。

 焚きつけられてしまったルキフェルは声を聞くべく、御言の倒れているところまで歩み寄っていく。そして、すぐ横まで来て立ち止まったところで、御言の声がようやくハッキリと聞き取れるように。

「やっぱお前、これのことまでは知らないらしいな」

 四肢を損失した少年とは思えない余裕のある表情で言い放った瞬間、一陣の風が吹き荒れ、ルキフェルの肉体が切断された。それは御言が持つ二つの力のうち、もう一つの力。大気を支配する力による奇襲だった。

 風の刃によって斬られた右腕が御言の背中にポトっと落ちるが、ルキフェルは首元をも切断されており、頭部が上空を仰ぎ見るような角度に傾いていたので、御言の姿は視認できていない。

「なんだこの力は……」

 魔法は使えないはず。と、ここにきて初めてルキフェルが動揺を見せる。

 周囲の魔法を制限していたからこそ、御言が神器(ソーラ)で複製した能力がどれほど強力だったとしても警戒する必要がなかった。だからこそ接近できる余裕があったわけだが、御言が奥の手として使ったのは第三者から複製した単なる魔法などではない。

 ≪鍵≫と呼ばれる、神器(ソーラ)とは別のこれまた特異な力だ。

 そしてルキフェルが動揺を見せることができたのはほんの一瞬だった。彼の能力を複製した御言によって、世界最強と呼ばれていた最上級悪魔は呆気なく世界から消え果てた。胴体も、右腕も、切り飛ばされた頭部も、全て同時に。

 御言は力のない瞳でルキフェルが消えたあとの空間を見つめ続けた。というより、大量に出血していたためか、首を動かすことはおろか、意識を保つのも限界を迎えていた。

 薄れゆく意識の中、空から降りてくる温かい光に気づき、眼球だけを動かして視界にまばゆい光を捉える。

「天国からのお迎え……か」

 だが、そうではない。

 御言同様に手足を失って地面に転がっていたカプリが息を吐くように笑い、声を絞り出す。

「ふふふ……やっと来たわ、ね……」

 いつ意識を失い絶命するかもわからない状況で、無理矢理にでも笑みを作っていた。

 次に聞こえてきたのは幾度も地面にぶつかる水の音。御言は首だけを動かして音のするほうへ目を向け、音の正体を把握した。

 血だ。真っ赤な血液が生きているかのように地面の上を飛び跳ねており、地面にぶつかる度にバシャバシャと音を鳴らしている。

 これはカプリの血であり、傷口から流れ出た血液が道路脇の溝の中へと流れ込み、ルキフェルに気づかれないように血液を操作して助けを呼んでいたのだ。

 次に空から降りてきた光の正体だが……

 その人物は地上に降りるや否や、

「大きな芋虫がいると思ったら、月読くんたちじゃない」

 冗談なのか本気なのか、馬鹿にしたような態度をとるわけでもなく真顔でそう言い放ったのは北条飛鳥だ。

 飛鳥も血だらけで服もボロボロ、おまけに血色のない顔色をしており、御言はそんな彼女に対して皮肉を込めて言い返した。

「そういうお前はゾンビのコスプレか? 結構似合っているぞ」

「あのガラス野郎結構強かったのよ。キミも冗談を言える程度には元気みたいね、なによりだわ」

「いいや、いまのが最期の言葉になりそうな程度には死にかけているんですが、治癒魔法とか使ってもらえないでしょうか?」

 飛鳥は首を横に振り、

「そんな便利な術がこの世にあるわけないでしょ……魔法はそんな万能じゃない。朝倉みたいな寄生型悪魔じゃないとどうにもならないわ」

 そう言ってカプリの体を掴むと、強引に引っ張って御言の近くまで運ぶ。

 どう見ても死にかけにしか見えないカプリだったが、急に元気を取り戻し声を荒げる。

「痛い⁉ ちょっと、あんたどういう神経してるわけ? 重症なのよ、もっと丁寧にできないの?」

「助けに来てやったんだから四の五の言わないで感謝しなよ。死ぬよりはマシでしょ? どうせ血流操作で出血を最小限に抑えてるんでしょ? 月読くんよりは全然軽症よ」

 それから飛鳥は人間二人を軽く覆える大きさの光る風呂敷のようなものを生み出し、大きく広げたそれで二人を包む。到底女子に持てるような重量ではないはずなのだが、彼女はそれを両手でぶら下げるように持ち上げると、羽を光り輝かせて空へと飛翔する。

 一度意識を失った御言が次に目を覚ましたとき、手足が生えた状態で降魔殿突入前にアジトにしていた雑居ビルの中にいた。

 再び魔術師たちが集まっているようだが、当初に比べて人数が減っている。オーケストラ部隊やヴィクセンが光に変換されて消えたというのもあるが、それを差し引いてもまだ最初の頃と数が合わない。

 表情も暗く、お通夜状態だった。実際人が死んでいたりするのだからこれも当然の有様。

「まさかあのあとルキフェルを倒してしまうとは、驚きましたね。清水さんが発生させた天使結界を利用するつもりでしたが、もうその必要もなくなりました」

 目を覚ましたばかりの御言に話しかけてきたのは、やはりこの男、朝倉臥魔だ。御言がなんらかの事件に巻き込まれ、意識を喪失し、次に起きたときに話しかけてくるのは、もはや恒例となっている。

 二人の子供を置き去りにして逃げた割には罪悪感を微塵も感じていないのも恒例だ。

「そんな反抗的な目つきで睨まれましても……怪我はこの通り治しておきましたので、私があなた方を置いて離脱したことも帳消しになったはずではないでしょうか」

 言葉の通り、御言だけでなく、カプリも元気な姿でソファーに座っており、欠損した肉体はしっかりと修復されていた。しかし、被害者たる御言が納得するはずもなく。

「ふざけるな、何度も言うがお前のせいで死にかけたんだぞ? 音羽が死んだのだってお前のせいだからな?」

 怒りに任せて怒鳴れる程度には御言の体力は回復していた。

 朝倉は肩をすくめ、宥めるように優しく言葉を返す。

「なにを仰るかと思えば……命の恩人のために命を張るのはごく自然なことですよ。まあ、今回は因果関係が前後しておりますが。それに清水さんだって一度死去されましたが、のちに新しく出現したのでプラマイゼロでしょう?」

「お前は悪魔だからわからないんだろう? その新しく出現したっていうのが、少なくともこれまで一緒にいた音羽じゃないわけで……」

「いえ、それが同一人物だとしたらどうします? いま起きている事態を収束させなければ確認をとれませんが、ひょっとすると中身も清水さんと同一のものである可能性は高い」

 声音は真剣そのものだが、御言は完全に疑っていた。普段の行いのせいで、朝倉に信用を寄せるのは無理に近い。ただ、朝倉の言うように事態の収束は不可欠だ。その点に関して言えば御言には一つ考えがあった。

「俺を焚きつけているつもりなんだろうが、その必要はない。お前に頼まれなくともあの光は止めるつもりだ。そして、止めるためにはエイルが必要になる」

「エイルさんならいまも我々が保護しています。すぐにお連れしますよ」

 朝倉は待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべ、即答し、階段を降りていく。最初からエイルのことを聞かれるとわかっていたかのような対応の早さだった。

 それからすぐに朝倉はエイルを連れて戻ってきた。

 ひどく落ち込んでいる様子のエイルに、御言はそっと近づく。

「ちょっと、お前の力を貸してくれ。多分あの力なら……」

 いま起きている現象を食い止められるかもしれない。

 そう言おうとしたが、最後まで言い切る前にエイルが首を横にブンブンと振った。

「イヤです。私はあの力をうまく制御できません。あの力のせいで故郷を壊滅させてしまって……今回の事件だって私のせいなんです。私が誤って夢鏡の空で封印を解いたから……あの光だって私が原因なんですきっと……」

 度重なる異常現象とその犠牲者により、彼女の精神は自責の念で押し潰されそうになっていた。

 さらに卑屈な言葉を連ねていく。

「だから……音羽さんが亡くなったのも、魔術師の皆さんが消えてしまったのも私のせいなんです。全部私が悪いんです……私がこの世界に来なかったら……」

「違う。お前はなにも悪くない。音羽だって死んではいないし、消えた魔術師たちも俺が元に戻す。それに今回力を使うのは俺だ。俺は他人の能力をコピーできるから、それを使ってお前の力を文字通り借りる。お前は留守番しているだけでいい」

 彼女の両肩にポンと手を置き、彼女を宥める。と同時に彼女の持つ能力──諱の諳誦(ナヴナ・スルール)をコピーする。エイルは嗚咽のせいで正確に聞き取れる言葉ではなかったが、わかりましたと小さく呟く。

 御言は最後にもう一度エイルを励まそうと、笑顔で彼女の頭──正確にはフワフワした帽子を被っていたので、その帽子を優しく撫でる。

「それじゃ、行ってくる」

 がくんと意識を失う。

 後ろ向きで倒れそうになった体を支えたのは朝倉だ。

「いやあ、私もエイルさんの力なら天使結界を止められるのではないかと見当をつけていましたが、どうも非協力的で困っていたのです。月読くんが代行していただけるのは大変助かります」

 調子のいいトーンでそう言って、彼の体を床にそっと寝かせた。

  ◆

 月読御言の意識は夢鏡の空へと飛ぶ。

 ひたすら続く水面と澄み渡る青空に点々と多面体が浮かんでいる神秘的な空間。

 以前の御言には理解できていなかったが、いまの彼にはそれが世界から消された存在が姿を変えたものであることが理解できた。どういった存在なのか、生物だったり、人工物だったり、それが彼の意識に感覚として情報が流れ込んでいく。

 中にはオーケストラ部隊やヴィクセンを始めとした魔術師たちもいた。

「さて、来たのはいいが、はたして本当に音羽の暴走を止められるのか……」

 ここまで来ておいて弱音を吐いていた。だが、探し回るまでもなく彼の背後から言葉がかけられる。

「待ってたよ、あなたがここに来るのを」

 彼が振り向くと音羽の姿があった。数か月前に起きた境界の日の、記憶を失う直前の姿のままで目の前に立っていた。服装もまるっきりその日のまま。髪の長さも肩に髪がかかるほど長くなっている。これも当時の髪の長さと同じ。

 と、姿は清水音羽そのものだが、とても顔色が悪く憔悴している。普段とのギャップから、御言は目の前にいる音羽が偽物ではないのかとも疑う。

「お前は音羽なのか?」

 それに彼女はうんと頷く。御言が続けて問う。

「死んだはずじゃ……」

 それにも彼女は頷き、

「そう、あっちの私は死んだよ……結局御言に想いを伝えることなく死んだ」

 泣きそうな……というよりすでに何度も泣いて涙が枯れてしまったような、そんな悲壮に満ちた表情をしていた。

 そして御言はあっちの音羽という表現に引っかかりを覚えた。

「あっちの……っていうことは、お前は並行世界の音羽だったりするのか?」

「私は境界の日に精神を二つに分けたんだよ。いまここにいる私は境界の日に分裂したもう一人の音羽」

「分裂……って、なんでそんなことになったんだ」

 ポカンとしたまま聞くと、音羽は眉を尖らせて急に憎悪に満ちた表情を向けた。

「あなたがそれを聞くの? ああ、そうだね。記憶がないから仕方ないよね」

 怒りや憎しみ、悲しみや絶望、失望や恨み、あらゆる感情を剥き出しにしている。

 目の前にいるのは本当に音羽なのかと疑わずにはいられないほど、いままでに見たことのない形相だ。

 御言は気圧されて、

「ご、ごめん、悪かったよ。ちょっとデリカシーがなかったかもしれない……記憶は一応戻ったけど、境界の日になにが起きたのか、それだけは覚えていないんだ」

 一歩後ずさりする。

 だが、音羽は一歩踏み出して、距離を詰める。

「全部思い出したい? 実はね、あなたの記憶はずっと私が消し続けてたんだ……エイルちゃんがここで力を発動させるのを私は事前に知ってたから、あなたの記憶と境界の日の記憶、あともう一人の音羽に幸せでいてもらうためにずっと悲しいのを消してたの。悲しいのと、つらいのと、あなたへの怒りをずっとね」

 彼女は相変わらず憎悪を浮かべたままきつい口調になっている。それでいて泣きそうな顔だ。

 ここは言葉を選ばないと、いつ目の前の音羽が理性を失って癇癪を起こしてもおかしくない。御言は次の言葉がなかなか思い浮かばず、言葉に詰まり、ただ音羽に気圧されて後ずさりする。が、音羽は逃さないと言わんばかりに下がった分だけ距離を詰めてくる。

「本当はね、胸糞悪くて嫌だったんだよ? でも幸せでいられるならそうしたほうがいいと思って記憶を消した。みんなの記憶とあなたの中身、それと私の悲しみもね」

 目の前の音羽はまるで正気には見えず、御言はそんな彼女に恐怖すら覚えていた。

 音羽は容赦なく話を続ける。恐ろしい形相のまま、

「自分でもすごい発想だと思った。全部なかったことにできるんだから……でもそれももう終わり。もう一人の音羽は死んで、あなたもいまから記憶を取り戻す。ほら、私の手に触れてみて……それで私が消したものが全部元に戻るから。私が言っていることが理解できるようになるから」

 まるで見下したみたいに半眼でそう言って手を伸ばす。

 御言は息を呑んだ。失った記憶を取り戻せるらしいが、躊躇していた。あの日の記憶を取り戻すことがいけないことのように思えていた。いま音羽が紡いでいた言葉の数々を理解できないほうが幸福でいられるような、そんな気さえしていた。

 だが、音羽はまるで脅すかのように言葉を付け足す。

「早くしないと私が発動させた天使結界で月見ヶ丘町の人たちが……ううん、地球上の全人類が消えちゃうよ? あなたが私の手を取れば天使結界は消失する。躊躇うことなんてなにもないはずだよ?」

「ナギハヤも、比奈も、みんな……消える」

 御言はそれを言われてようやく決心をつけ、音羽の手に触れる。

 瞬間、全てが解放された。

 音羽の力で消された人々、二十日町の建物、そして数か月前に起きた境界の日になにが起きたのか、本当の自分の記憶と本質を取り戻す。

 まさしく彼女の言ったとおりだった。

 記憶を取り戻せばなんてことはない。さっきオトハが言っていた言葉の意味を、彼は全て理解できた。

 なぜ、彼女が彼に対して憎悪を向けている様子だったのか、それも当然だ。

「そうだ、ツクヨミ・ミコトを殺したのは、ほかならぬ俺じゃないか」

 彼は真の目的と本来の記憶を取り戻したが……

 同時に大切なものを失った。そんな感覚に陥っていた。

  ◆

 数か月前にも二十日町の上空には降魔殿が出現していた。

 周囲に黒い霧を発生させ、さらには地上には悪魔が降り注ぐ。

 人々の悲鳴や断末魔が聞こえる中で、冷静に街道を駆ける青年がいた。

 全身黒装束で、瞳は虚ろで目の下にはくまがある。どこか殺気立っているようにも見える。

 彼は通称ルドアの魔剣使いとも称されるディア・トラモントだ。

 それまで堂々と見晴らしのいい路を進んでいたが、突然九十度曲がって小道に入る。

「探したぞ、ツクヨミ・ミコト」

 その呼びかけに月読御言は振り返り、

「ど、どなたですか?」

 少し怯えた様子で聞き返すと、ディアは冷たく凍ったような口調で、

「お前が知る必要はない」

 御言の首を左手一本で掴む。

 それは締めるほどの強い力ではなく、本当に掴んだだけで、御言は抵抗して振りほどく。

「いきなりなにをするんですか!」

 声を荒げて敵愾心を剥き出しにする。

 ディアは聞いてなどおらず、ただ自分の左手、五本の指に嵌められた指輪の一つを見て、

「これがソーマの言っていた鍵か。元素のうち空気を司る……だけだな、こんな力が一体なんの役に立つというのか」

 続けて腕を掲げる。

 すると、なにもない空間から歪な形をしたナイフが出現する。

 どす黒く、ところどころ植物の蔓のような縮れた線が生えた不気味な物体。ナイフと形容していいのかすら怪しい。

「この前手に入れた奴を、せっかくだから使ってみるか」

 そう言って柄の部分を握り、そのまま流れるようにそれを御言の胸に突き刺した。

 刹那、御言の胸から赤い血が止めどなく溢れ……

 彼の肉体は泥ともカビともつかないどす黒い物質に変換され、ボロボロに崩れた。

 ディアはそれを無言で見届けたあと、ナイフを投げ捨て、再び悪魔たちが降り注ぐ街道に出る。

 彼が小道から身を出したとき。その姿は月読御言のものへと変わっていた。

 そして、しばらく立ち止まったまま独り言をブツブツと言う。

「いい加減慣れたいものだが、人の記憶を覗き見るのは気分が悪い……ん? こいつ、こんな便利な通信機器を持っていたのに、壊してやがる。これが使えたらそのまま次の目標を呼び出せたというのに」

 ポケットから割れた携帯電話を取り出すと、それは指からすり抜けて地面に落ちた。

 それからシャツの襟を掴んで口元まで引っ張ると、

「聞こえているか? ソーマ、俺だ。鍵は回収した。これからツクヨミ・ミコトの記憶を頼りにシミズ・オトハを探す」

 だが、返事はなく、しばらくしてからディアがあることに気づく。

「そうか、変身したせいで通信機は消滅しているか……面倒だ、シミズ・オトハを確保したあとにまとめて連絡するとしよう」

 月読御言の姿をしたまま、ディアは次なる目的地へと向かう。

  ◆

 清水音羽は携帯電話を片手に昼間の二十日町をひた走っていた。

 昼間と言っても周囲は真っ暗で、空は黒く、上空には仄かな満月を思わせるほどに明度が下がった太陽が浮かぶ。

 さらには得体の知れない破壊音がしきりに鳴り響き、たまに人の悲鳴まで聞こえていた。そして避難を促すアナウンスまでも街中に流されていることから、常軌を逸した事件が起きているのは明白だ。

「お母さん、御言……なんで電話繋がらないの……?」

 自分の探している人たちが無事かどうかわからない状況に、段々と心を弱らせていく。それでも二度と大切なものを失いたくないという一心で、地の利を活かしながら裏路地を通って化け物に見つかることなく目的地目前というところまで来ていた。

 そのときである。

 マンホールから黒い液体が染み出ると、それは人型に姿を変えた。人型と言っても全身から枝分かれした触手を生やし、体格も人間のそれから大きく逸脱した細さだったが。

 とにかく禍々しい姿をした化け物で、音羽は目に捉えた瞬間に踵を返して来た道を戻ろうと……

 だが、地面から生えた黒い触手に挟み撃ちされ、逃げ道は完全に塞がれていた。

 再び後ろを振り向いて黒い化け物へと目を向けると、化け物は甲高い声を発した。

「やったやったぁ、ここで張ってて正解だったよ。ようやくニンゲンにありつける」

 音羽は言葉を返すことなくその場に崩れ、全てを諦めた。

 化け物が続ける。

「あれれー? なんかもう人生終わったって顔しちゃってるけど、別にお前を殺そうってわけじゃぁないんだよねぇ」

「え?」

 その言葉に薄っすらと希望のようなものを感じた音羽。目の前の化け物が実は人間の味方なのではないか、と。

 化け物は優しく微笑みながら、

「ボクは邪盗(やど)りのピノテレス。ニンゲンに寄生して共存を主とする悪魔さ。ほしいのは命じゃなくて、体だ。死ぬわけじゃないから安心してくれよぉ」

 そう言って、自らの体から生えた触手と、地面から生えた触手を蔓のように伸ばして音羽の体を捕らえた。

 さらに愉しそうに続ける。

「ちょっと嘔吐(えず)くかもしれないけど、いまからお前のお口からお体の中にお侵入してあげるよぉ」

 気色の悪い下品な笑い声を上げながら、音羽の顔面へと迫る。

 少女は嗚咽をこらえて叫んだ。

 たとえ可能性が低くとも、言わないよりはマシな言葉。

「たすけて」

 たった四文字のその言葉を。

 誰に向けたわけでもない。化け物に命乞いをしたわけでもない。

 この状況から救ってくれる誰かがいるとも思えないが、それでも心から誰かに助けてほしいと願った。

 刹那、空からペンチが落ちてきた。

 それはただのペンチではない。そもそもペンチと言っていいのかそれすらもわからない。巨大でトゲがいっぱいついたペンチの形をした物体。少なくとも音羽の身長よりも全長はある。

 その物体は化け物の体を押し潰し、細切れにしながらアスファルトに突き刺さった。

 やがて頭上からは呆れ返った声が。

「まったく、なんで降魔殿の真下に向かってんだ? 普通『やだー、死にたくなーい』って言いながら町の外に向かって避難するものでしょ? さっきから鳴ってるアナウンス聞こえてないの?」

 その声の主は音羽の背後に着地し、ウネウネと動く触手を手刀で断ち切った。

 助けられた音羽は状況もいまいちわからないままお礼を、

「あ、ありがと……ん?」

 言おうとするが、その人物の姿を見て絶句した。

 割れた頭蓋骨のようなマスクをかぶった全身真っ黒な少年。背丈は音羽と同じくらいだが、人間とは思えないほどに全身が細々としており、服は着ておらず、体の随所にトゲが生えている。かてて加えて猟奇的な表情まで浮かべていた。

 音羽は再び体を緊張させ、少しずつあとずさりする。

「私を助けてくれたの……?」

 警戒している少女に向けて、面倒臭そうではあったが、律儀に答える黒い少年。

「そりゃー、人間を保護するのが俺たちエゲトの役目だからだ……って言ってもどうせ信じてくれないだろ?」

 彼の言う通り、音羽は信じていなかった。

「そう言って油断させておいて、隙をついてなにかする気じゃないの?」

 執拗に疑心を向ける。

 刹那、音羽は黒い少年に胸ぐらを掴まれ、建物の外壁に押しつけられた。

 いつの間にか地面に刺さっていたはずの巨大なペンチも、ホッチキスの針で固定するみたいに音羽の頸部を正確に捉え、喉元を潰すか潰さないかの絶妙な位置で壁に突き立てられていた。

 化物はイラつきを露わにしながら言う。

「言っておくが、こっちはいつだってお前さんの首を刎ねることができる。油断させるだとか、そんな小細工はいらないんだ。疑うのは勝手だが、せっかく助けてやったのにこんなんじゃ、胸糞悪い気分だ」

 彼は壁に突き刺さったペンチを引っこ抜き、次に掴んでいた胸ぐらもそっと離す。

 音羽は彼の心情を察した。これまでに何度も人間の味方をしたが、その度に人々から畏怖の念を向けられた彼の苦悩を。

「ごめんなさい、私……」

「いや、俺も自分の都合ばかり喋って悪かった」

 見た目や身体能力は人間離れしているが、ここまでのやり取りを見た限りでは彼は十分な人間性を持っていた。

 音羽はそんな彼の手を握る。固く冷たい、おおよそ生物とは思えない手。それをぎゅっと握り、

「ううん、助けてもらったのにお礼も言えなくてごめんなさい。助けてくれてありがとう……私は音羽。あなたの名前聞いてもいい?」

 黒い少年は戸惑いながらも自らの名を明かす。その口吻にさっきまでの苛立ちや負の感情は見受けられない。

「お、俺の名前か? 仲間からはラメリデンスって呼ばれてる」

「ラメリデンスさん……外国人? にしては日本語上手だね」

 音羽が微笑むと、ラメリデンスは手を振りほどき、急におどおどした態度をとる。

「なんだこの感情は……そしてなんだこの感触は⁉ 柔らかくて暖かい……なんて優しい感覚なんだ……」

「ひょっとして人の手を触ったのは初めて?」

 ラメリデンスの感情がどんどん昂ぶっていく。

「ああ、みんな俺のこと怖がって逃げていくから、お前さんみたいに自ら手を握ってくる奴なんて今日初めて出会った。頼む、もっと触らせてくれ! なにかとんでもなく心地のいい感覚が全身を駆け巡った気がするんだ……!」

 ラメリデンスは目の色を変え、なにかに駆られたように無心で、少女の体に手を伸ばしながら距離を縮める。別に下心があるわけではなさそうなのだが、容赦なく体の隅々まで触ってきそうな勢いがあふれんばかりで、音羽は反射的に彼を蹴り飛ばしてしまう。

 先ほど見せた怪物じみた戦闘力とは裏腹に、ラメリデンスはすんなり蹴られ、尻もちをついた。

 ラメリデンスは一瞬なにが起きたのかわからず、キョトンとした様子でゆっくりと立ち上がり、

「人間の少女にエゲトの上級悪魔であるこの俺が蹴りを食らわせられる……だと?」

 瞬間、音羽の表情が凍りつく。なにか不味いことをやらかしてしまったと、体に緊張が走る。

 案の定ラメリデンスはさらに感情が昂り、猟奇的な目つきを全開にして音羽を睨み、

「なんだこの感覚は……蹴られただけなのに、こんな感情が芽生えるのか⁉ 頼む、いまのもう一回やってくれ!」

 まるで新しい遊びを見つけた子供のように歓喜に満ちていた。

 それは音羽にとって別な意味で危険人物であり、彼女は愛想笑いをしてから、

「ごめん、急いでるからそろそろ行くね。お母さんと幼馴染を探してる途中だから」

 その場から去ろうとすると、ラメリデンスはすぐに呼び止め、さっきまでの変態的な態度ではなく、人が変わったみたいに真剣な面持ちで、

「なるほど。だからこんなところを彷徨(うろつ)いていたわけか……それならこの俺に任せてくれ、音羽ちゃんのご家族とご友人を一緒に探し出してやろーじゃないか」

 そう言ってほくそ笑む。

 音羽は頷く。

「私一人で大丈夫……って言いたいところだけど、さっきみたいに襲われるかもしれないし、護衛をお願いしてもいいかな?」

「任せてくれ! この閉塞のラメリデンス。命を賭してお前さんを守護する。その代わり……事が済んだあとでいいから、さっきの刺激的な感覚をもう一度味わわせてくれ!」

「う、うーん、考えとく……」

 言葉の最後のほうだけラメリデンスは危ない目つきへと豹変していたが、音羽は苦笑して是非に答えずそのまま歩き始める。

 とても心強いボディーガードが増えたものの、多くの不安要素を孕んでいるのは言うまでもない。

 二十日町の中心まで来ると人影はほとんどなく、化け物の姿も見当たらない。まるでゴーストタウンのようだった。

 そんな町で、音羽は一人の人間と出会う。

 小学生くらいの身長で、綺麗な茶髪のショートヘアー、どこか影のある少女。

 町の中を堂々と歩いていたところを音羽のほうが発見し、慌てて保護しようと声をかけた次第だ。

「ちょっと君、迷子? パパとママとはぐれたの?」

 茶髪の少女は歩きながら無言で首を横に振り、音羽がもう一度尋ねる。

「お姉ちゃんは音羽っていうんだけど、君のお名前は?」

「さく……」

 少女は一度沈黙し、さも名乗ることが忌まわしきことかのように、躊躇いを見せながら改めて名乗る。

「比奈です」

 どこか普通の子供とは違う雰囲気を漂わせているその少女は、町がゴーストタウンと化しているのに怖れている様子も怯えている様子もなく、目の前にいるラメリデンスを見ても平然としていた。

 音羽はなおも歩き続ける比奈の目の前に移動し、行動を阻害すると、笑顔で手を差し伸べた。

「ここにいたら危険だから、お姉ちゃんについてきて」

 それに比奈は可愛げのない毒のある口調で返す。

「あなた理解力なさそうなのでハッキリ言いますね。一人でも平気なのでどっかに消えてください」

 冷たく突き放す言い方だが、それでも音羽はこんな場所に子供一人を置き去りにするなんてできるわけもなく、諦めずに少女の説得を試みる。

「ううん、一人は危険だよ。黒い化け物見なかった? お空に浮いてるお城からいっぱい落ちてきたはずなんだけど……」

「言っても信じないと思いますけど、私には特殊な力が備わってます。もう何度か怪物に襲われましたが、力を使って切り抜けました。あなたがいても足手まといなので早く私から離れてください」

「特殊な力……? もしかして比奈ちゃん魔法少女だったりするの? この辺りは化け物が全然いないみたいだけど、もしかして比奈ちゃんが退治してくれたの?」

「なんでそうなるんですか……能力については面倒なので言いたくありません。私も用事がありますので、それじゃ」

 そう言って去ろうとする比奈の腕を、音羽が乱暴に掴んで強引に引き止める。

「もし魔法少女なら、お願いしたいことがあるの。無事かどうか知りたい人が……」

「だから違いますって! あなたもしつこいですね。私のどこが魔法少女に見えるんですか」

 比奈は半ギレ状態で大声を上げ、それが二十日町に谺する。

 音羽は気圧され気味に答えた。

「だって比奈ちゃん可愛いから……」

「なんですかその偏見まみれの根拠は」

 比奈は呆れたようにしつつも、内心では少し照れているようにも見えた。

 突然、物音……というより蠢くような音が少女たちの頭上から降り注ぐ。

 三人が同時に見上げると、ビルに張り付く巨大な影が赤い双眸を向け、手足なのか或いは触手なのか、黒色の二本の管をくねらせていた。

 全長は優に十メートル以上はあると思われるが、形は靄がかかったみたいに判別できず、曖昧だ。

 その化け物は獣のようなしゃがれた声で人語を発した。

「見ツケタ……シミズ・オトハ」

 確かにそう言い、それから数秒間の咆哮を轟かせる。もはや轟音と呼べるほど凄まじい声量が町を埋め尽くす。

 次の瞬間、ビルに張り付いていたその化物がアスファルトへと激しい衝突音を立てながら着地し、衝撃で地面は陥没し、直径十メートルほどの巨大な穴ができる。

 化け物はその穴にスッポリと収まり、じっとしたまま動かない。

 ラメリデンスは音羽の肩にポンと手を置くと、

「ここは俺に任せな。こういうときのために音羽ちゃんについてきたんだ。約十分ぶりの戦闘か……待ち侘びたぜ、刺激たっぷりの心が躍動する戦いを期待してっぞクソザコ悪魔」

 瞬間、彼は巨大な化け物に食われた。

 伸び切ったゴムに引っ張られるかのような勢いで巨体の化け物に向かってすっ飛んでいき、捕食器官と思しき部位に捕らえられてしまう。

 ラメリデンスはどこかワクワクした様子で、

「おお、全然見えなかった……こいつ触手を透明に変化させていたか。思わず笑みがこぼれそーだ」

 言った直後、化物の捕食器官から高速で吐き出され、銃弾のように宙を滑空する。数秒後、遠く離れたビルにラメリデンスが着弾した。

 音羽はそれを見て青ざめた。もしいまの攻撃を次に自分が受けようものなら、全身をビルに叩きつけられて即死。潰れたトマトのようになってしまうだろう。

 咄嗟に比奈の腕を握ったまま走りだそうとするが、比奈はその場から動こうとしない。逃げようとする音羽に全力で抵抗していた。

 比奈は口元に人差し指を当てて静かにするようにサインを送っており、さらに強い意思を感じられる目つきだったため、音羽はそれに従うことにした。

 しかし、いくら待っても比奈はなにも行動しない。

 魔法少女に変身するわけでも魔法陣を出現させて魔法を使うわけでもない。

 ただ黙っていた。

 ひたすらじっと待っていた。

 それだけなのに化け物は重い腰を持ち上げるみたいに穴から這い出て、音羽たちのいる方向とは逆の方向へとゆっくりと進み始めた。

 化け物が完全に見えなくなるまで一体どれくらい時間が経過しただろうか。動きが鈍かったせいもあり、三分以上は経っていたかもしれない。

 化物が去ったあとで音羽は比奈にこう言った。

「すごーい、一体なにをしたの⁉ やっぱり魔法少女なの?」

「どんだけ魔法少女に拘るつもりなんですか……違いますって」

 やはり呆れたように返され、頑なに否定する。

「それで比奈ちゃんの特殊な力ってなんなの?」

「そんなに知りたいですか?」

 音羽がうんと大きく頷き、比奈から返ってくる答えに期待して待つ。

 だが、比奈が口を開く前に別の声が、

『音羽、良かった。無事みたいだな』

 それはいつの間にか音羽たちの背後に立っていた少年の声。

 音羽が振り向き、その姿を目視した瞬間、目を大きく見開いた。

 前髪だけが長いショートヘアーの男の子。音羽より少し背が低く色白。

 音羽は思わず仰け反るくらい驚く。

「御言⁉」

 少年は微笑みながら言う。

「ここは危険だ。すぐに離れよう」

 それを聞いた音羽は、なぜか表情が濁る。たったいま御言の無事な姿を見て笑みを浮かべていた音羽の顔から、笑顔まで消えた。

「本当に御言なの?」

 その疑問は自身でも不可解なものだった。それでも彼女にとって、心に引っかかる違和感があったのだ。

 眼前にいる御言は首を傾げた。

「突然なに言っているんだ? ふざけている場合じゃないぞ。早くここを離れるんだ、この町は危険だ」

 彼は音羽に手を伸ばすが、音羽は後ずさりして距離を取る。ふと我に返ったように、これまでの自分の行動を否定するような発言をする。

「なんで御言はここにいるの? 町のみんなの姿が見えないけど、みんな避難したんじゃないの? もしそうなら御言がここにいるのっておかしいよね」

 大切な人を失いたくない、その思いで半ば動転して御言を探してここまでやってきた音羽だが、冷静に考えれば、避難勧告まで出され、住人が全くいない町に自分の探していた人物だけが都合よく無事でいる。それも化け物だらけの町で、だ。おかしな話なのである。

「なんでって言われても……さっきまで気を失っていて、目を覚ましたらこうなっていたんだ。どうして俺を疑っているんだ? 一応俺が御言であることを証明するけど、先週一緒に映画を見に行っただろ? タイトルは確か……白の少女と黒山の召使い」

 それを聞いた音羽はしばらく考えてから、

「そうだよね。どこからどう見ても御言だよね……変なこと言ってごめん」

 詫びを入れてから彼の手を取る……その直前で大声が響く。

『だ、騙されるな……そこにいるのは俺の偽物だ!』

 ビルの影から颯爽と現れたのはもう一人の御言だった。

 音羽は伸ばしていた手を引っ込め、距離をとる。

 偽物だと言われたほうは急に態度が激変し、冷酷で暗い口調、張りのない声で、

「ありえない、なぜまだ生きている? 確かにあのとき俺が殺したはずだ。死体も消滅させた……生きているはずがない」

 もう一人の御言に対し目を怖くしてそう言った。

 その発言へ言葉を返したのは御言ではなく比奈だった。

「嘘⁉ 本当に偽物だったんですか。ちょっと悪ノリしただけのつもりだったんですが……」

 比奈は両の手のひらを一回だけ合唱させ、パンっと音を鳴らす。

 瞬間、さっきまでそこにいたはずの、音羽が本物だと思い込んでいた御言が消えた。

 なにか光が出たり、音が鳴ったりもせず、ただただその場所から姿だけを消した。

 さらに比奈が続ける。音羽に対して、

「えーっと、これがあなたが見たがっていた私の能力です。残念ながらあなたのお友達の御言さんって人は、この偽物さんに殺されてたみたいですね。お悔やみ申し上げます」

 淡々と告げたあと、もう興味なさそうに別の方向へ顔を向けた。なにか別の気がかりがあるようで、音羽のことなど他人事と言わんばかりだ。

 音羽は思考が停止した。

 残ったほうの、虚ろな表情の御言は比奈を見て憎悪に顔を歪めていた。

「いまのは幻覚なのか……? いや、俺にその手の能力は適用されないはずだ。概念に干渉する結界能力か、それともなにかの宝器(パンドラ)を使ったのか……お前は一体何者だ?」

 訪ねたのは偽の御言だが、逆に音羽も質問で返す。

「本当なの……? 御言を、殺した……って」

 御言の姿をした少年は虚ろな瞳で音羽を見据えると、無感情な声音で、

「いまさらなりきろうとしても無駄か……さっき言った通りだ。俺がツクヨミ・ミコトを殺した」

 それは音羽にとって耐えがたい現実だった。

 二十日町を覆う真っ黒な空よりもさらに深い黒色が、少女の中にあふれていく。

 憎しみや悲しみといった単純な感情ではない。

 虚無や絶望がぐちゃぐちゃに混ざったような、そんな複雑な感情が音羽の心を支配する。世界が塗り潰されていく。

 気がつけば町は光に包まれ、異なる次元によって全てが侵されていった。

 人と化け物、その日起きた異変と呼ぶべき事象の全てが、水面が延々と広がる空間へと迷い込んでいた。

──見たい? 御言がどうなったのか──

 それはオトハの声だった。だが、音羽は喋っていない。

 それに音羽は『見たい』と答えた。それは死んだ様子を見たいという意味ではない。元気な様子の御言が見たいという意味だった……

 瞬間、彼女の眼前に広がったのはある人物の記憶。

 彼には目的が二つあった。月読御言の持つ≪鍵≫を奪うこと。清水音羽を捕らえること。

 そのために最も合理的とされる手段は、月読御言を殺害したあと、その肉体と記憶を盗むことだった。

 月読御言の姿に変身して記憶をたどり、その記憶を頼りに清水音羽に近づけば簡単に任務を遂行できる。

 そのため、月読御言は胸にナイフの形をした宝器(パンドラ)を刺され、肉体が黒いカビのように変質して見る影もなく崩れ落ちた。

 再び水面が広がるだけの謎の空間へと引き戻された音羽に、いま一度もう一人のオトハの声が響く。

──御言はもうこの世のどこにもいない──

 まるで音羽を追い詰めるかのように言葉が続く。

──最後に会ったのはいつだったっけ? また月曜って言って手を振ってた気がする──

 そのオトハの声は、音羽の心の声だった。

──思い出したくない──

 御言との関係を思い出すだけで虚しさが押し寄せてくる。

 大切な人と永遠に別れてしまえば、いままでの思い出は全て苦痛に変わる。

──それなら、消してしまえばいい。思い出なんて──

「できるの?」

 音羽は二人に分裂したみたいに自問自答していた。

──悲しいのも辛いのも全部なくそ? 思い出も空っぽにしてとりあえず全部忘れよ? そしたら昨日と同じ日常に戻れる──

 その瞬間、音羽を悲しませる要素が世界からいっぺんに消えた。

 なにが起きたのか、自分が一体何者なのか、カーテンのようにゆらゆらと揺れる光を見上げながら、音羽も、ディアも、比奈も、みなが自分が何者であるかを忘れた。

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