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月に咲くプリムローズ  作者: 音無哀歌
プロローグ
11/17

闇が降りる町

挿絵(By みてみん)


 廃墟ビルに囲まれた広場に、長く使われていない埃かぶったベンチたちが並んでいる。

 それは肉眼で確認できるほどの汚れっぷりで、腰を下ろそうものなら衣服は真っ白に変わり果ててしまうだろう。

 だのに、そんなベンチにどういうわけか腰かけている者がいた。

 コーラルピンク色の鮮やかな衣装に身を包む少年が、大胆にも背もたれに上体を預け、ふんぞり返っているではないか。

 これではせっかくの鮮麗な服が台無しだ……

 しかし、その少年がベンチから立ち上がったとき、服には埃一つ付着していなかった。

 不自然な点はそれだけじゃない。

 強く吹きつけるビル風が砂埃を巻き上げる中で、その少年は風に靡くことなく、マントのような丈の長い服も、深く被ったフードも、上着の袖や腰からぶら下がる御札の装飾品も、ただただ重力に従うのみ。

 もはや不自然すぎて合成映像にすら見えてくる。

 でも少年は間違いなくその場所に存在しており、地面に倒れている水色髪の少女のそばでかがむと、荒々しい口調で文句を垂れた。

「ったくよぉ、なんでコイツは目を覚まさねぇんだ? さすがにあれだけやって起きないなんておかしいよな?」

 誰かに説明を求めているかのように声を響かせるが、周囲にその少年と倒れている少女以外に人影は見えない……

 しかし、返事をする者がいた。

 さっき少年が座っていたのとは別のベンチにちょこんと座る、赤い目をした黒猫だ。

 その猫は男とも女ともつかない子供のような声で、人語を発した。

「ただ寝ているだけとは思えない。宝器(パンドラ)邪器(サタラ)による干渉を受けているか、あるいは逆に世界に対し干渉を与えているのか……? うーん、多分後者だな」

「なんでわかんだ?」

「なんとなく、長年の勘だ」

「いい加減だな、オマエらしいが」

 どうでもいいやという感情が滲み出た黒猫の言葉に、同じくどうでもいいやという感情を乗せて返した少年。

 今度は黒猫が、深刻そうに声音を低くして尋ねる。

「ところで音神の旦那、一つアドバイスするよ?」

 じっと遠くのほう、一点を見つめたまま問うと、音神と呼ばれた少年はイラつきを露わにしながら、

「必要ない、オレを誰だと思ってる」

 そう言ったあと、体を反らして大きく飛びのく。

 その刹那、一直線に伸びた光の(すじ)がベンチを貫き、そのまま背後にある建物の壁にまで穴をあけた。

 音神は遠くのビルの隙間に顔を向け、

「機会を窺ったところで無駄だぜ? オレに隙なんてねぇんだからな」

 自信たっぷりに笑みを浮かべる。

 間もなくしてビルの影から、

「結界能力での探知か……それもかなり広範囲ね」

 北条飛鳥は光輝く刀剣を手に、その身を晒す。

 参ったと言わんばかりに潔く姿を現した飛鳥だが、実は作戦のうちである。

 ここに到着する前、飛鳥は御言に向かって偉そうにこんな指示を出した。

『キミは絶対姿を見せないこと。私がたとえどれだけボロボロになろうと、絶対にエイルを救出するチャンスを作るから、キミは絶対に姿を見せちゃダメ』

 要するに陽動作戦というわけだが……

 そんな計画も虚しく、音神には筒抜けで、

「もう一人隠れてるだろ、出てこい」

 言い当てられた飛鳥はビルの影に隠れている御言に小さくハンドサインを送る。

 絶対に姿を見せるなと事前の指示では言われていたはずだが、御言は諦めた様子でビルの影から出てきてしまう。

 瞬間、飛鳥が頭を抱えた。

「なんで出てくるのよ」

 御言はわけがわからないという様子で、

「なんでって……お前がこっち来いって手招きしただろ、いま」

「絶対に姿を見せるなって言ったじゃん。手招きじゃなくて、ここから一旦離れろってサインよ」

「わかるかー!」

 と御言がツッコミを入れ終えたところで、遠くでそれを見ていた音神が、

「誰かと思えば、オマエか」

 深く被ったフードをとって、素顔を見せた。

 前髪が長いせいで顔が少し見えにくいが、それでも音神の顔立ちが御言と全く同じものであることは一目瞭然だった。

 その瓜二つの顔で音神が言う。顔を切なそうに歪め、

「久しぶりだな、生き別れの我が双子の弟よ。まさか生きていたなんてな……」

 御言は怪訝そうに言葉を詰まらせながら聞き返す。

「生き別れの……双子、俺とお前が……?」

「なんてな……」

 音神は不敵な笑みを見せ、さっきまでの哀愁漂う表情は跡形もなく消え失せて楽しそうに笑う。

「冗談だ。オレはイストリア出身だが、オマエはこの世界の人間。オレとオマエはただのアスエゼル同位体」

 御言の反応がいまいち薄いので、音神は顔色を窺いながら言葉を連ねていく。

「って言ってもわかんねぇよな? 異世界には自分と同じDNA情報を持つ人間が存在することがある。それがアスエゼル同位体だ。数奇な偶然だが、オレたちは次元を越えて巡り会ったわけだ」

 この説明を聞いてもやはり御言の反応は鈍い。

 むしろ言い返したのは黒猫で、『数奇な偶然』という言葉に異を唱えた。

「いや、君らが出会ったのには一応必然性がある」

 瞬間、御言が声を大にして驚く。

「うおおああああ、猫が喋った⁉」

 すかさず音神が、

「っておい、オレの顔見ても驚かなかったくせに、コイツには驚くのかよ」

 口惜しさにため息をつく。

 御言は苦笑しながら飛鳥を指差し、

「お前に関する情報はこいつから事前に聞いていたからな」

「なんだよ、端っからオレの存在を知ってたわけか。これだから有名人はつらいなぁ、おかげでドッキリ大失敗だ」

 落胆した音神が乾いた笑いを披露したあと、思い出したように黒猫に視線を落とす。

「ところで猫、必然性があるってのはどういうことだ?」

「音神の旦那が持ってたヴァーユの鍵、それをいま持ってるのがそこの坊主さ……オイラたちがこの世界に転送される際、ヴァーユの鍵とほぼ同じ空間座標に飛ばされたからな……だから偶然ではない」

「はーはーなるほどな。オマエが持ってたのか……確かにオレのアスエゼル同位体もとい偽物なら、鍵の適合者になりうる」

 と、黒猫の説明に聞き入り、皮肉を交えて納得する音神は一見すると隙だらけ。しかし、先ほど自ら宣言したように、彼に隙などなかった。

 次の瞬間、音神は体を軽くひねって、飛鳥が不意打ちで放った光線を軽々と躱す。

 それまで飛鳥を警戒しているような素振りはなかったにもかかわらず、まるで未来を知っているかのような動きだった。

 そして光の刀剣を構えた飛鳥が、

「世間話をしてるところ悪いんだけど、こっちはさっさと用事を終わらせて帰りたいの。その子の身柄引き渡してくれる?」

 直後、飛鳥が音神のほうへ突進し、音神との距離を詰めていく。

 とても人間とは思えない肉食動物のような足さばきで地面を駆け、光の刀剣による斬撃を放とうとしていた。

 音神はなおも笑みを浮かべたまま、余裕綽々で宙に手をかざし、

制空(アリア)ァ!」

 なにかを掴んだような動作をとり……

 一方で飛鳥は気にせず音神の懐に迫り、光の斬撃を放つ。

 だが、刃が届く前に音神が叫ぶ。

絶止(ターチェ)

 声が響いた瞬間、飛鳥の体がその場でピタリと止まる。

 片足が地面から離れた不安定な体勢で固まっており、その様は時間が停止したようにも見受けられるが、瞳だけはしっかりと動いていた。

 そして音神が勝ち誇ったように、

「おい女ぁ、オマエの考えはおそらくこうだ。音神が世界最強の魔術師と呼ばれる所以はヴァーユの鍵にある。だが、いまはオレと同じ顔をしたソイツが鍵の保持者だ。だからいまの音神なら軽く倒せる、と……」

 音神は虚空を掴んだ状態の手を振り回し、投げ飛ばす動作をとる。

風統(ヴェント)統制(バケッタ)

 今度は強烈な風──それはもう衝撃波にも等しい突風が発生し、飛鳥は何度も地面と衝突を繰り返しながら、数十メートルもの距離をタンブルウィードのように転がる。

 風に飛ばされた先には街灯の支柱があり、そこに引っかかる形で飛鳥の体は停止した。

 そしてピクリとも動かなくなった彼女に向かって音神が言う。

(あめ)ぇな、オレは鍵を手にする前から世界最強で通ってたんだぜ?」

 離れた場所でぐったり倒れた飛鳥の耳にはおそらく届いておらず、一種の独り言となってしまった。

 それから音神はギロリと御言へ視線を移し、

「さぁて残るはオマエだが、オレとしては自分と同じ顔をした奴が情けねえ醜態を晒すのは見たくねぇんだわ」

 次に腕全体で(くう)を切る。

風統(ヴェント)迅截風(インフレッタ)

 刹那、御言の後方にあるビルが中腹あたりから斜めに切断され、上半分が滑り落ちながら崩壊していく。

 さらに音神が下品に笑いながら、指揮者のように手を振るうと、崩壊中のビルの上半分が重力を無視して浮き上がり、そのまま滑空しつつほかの建物を巻き込むように町を破壊していった。

 地鳴りのような轟音が彼方まで響き渡り、その音を心地よさそうに聞き終えた音神は、目を細めて御言を睨む。

「とっととオレの前から失せてくんねぇかな? さもねぇと体細胞一つ残さず消し飛ばすぞ?」

 一瞬にして景色を変貌させるほどの圧倒的な力を前に、御言は戦意を喪失せずにはいられない。

 ただ言葉を失い、すり足気味で音神から後ずさりし始めた。

 しかし、ここで事態は急展開を迎える。

 それまで気を失って倒れていたはずのエイルが目を覚まし、どこか遠くを見つめて、

「私……」

 なにか言い出そうとするも、結局口を噤む。

 そして、エイルの覚醒にいち早く気づいた音神は、起き上がったばかりの彼女の胸倉を掴んで強引に起立させる。

「やっとこさ目ぇ覚ましたか……時間がねぇ、空間転移を使え」

 高圧的な態度で迫り、それにエイルは怯えきっていた。

「ご、ごめんなさい……何度も言ってますが、私は魔術が使えないんです」

「んなわけあるかよ。オマエら魔女がどんな存在かは、よーく知ってる。魔術が使えないニンフは存在しない」

 廃墟の町に力強い怒声が谺し、その次に腹部を蹴られたエイルの悲鳴が響く。

 か弱い少女に対する容赦のない仕打ち、それを目の当たりにした御言は怒りを露わにしながら叫ぶ。

「おい、待てよお前」

 音神は静かに御言のほうを振り向き、捕食者のような鋭い目つきで睨む。

「黙って見てろ偽物。なにもオレは命を奪おうなんて思ってねぇ。コイツが快く空間転移を使ってくれりゃ、オレとしてはそれだけで十分なんだ。オマエらはそのあとで何事もなかったようにイチャイチャハッピーできるんだぜ? いちいち邪魔すんなや」

「わからない奴だな。その空間転移を使えないと主張しているのに全く聞く耳を持たず、終いには暴力を振るっている。黙って見過ごせるかよ」

「わかってないのはオマエだ。ニンフがどういう存在なのかも知らないド素人が口を挟むな。第一、勝てない相手に噛みつくもんじゃねぇ」

「それが勝てるんだよな」

 と、自信たっぷりの御言。さっきまで音神に怯んでいたはずが、それが嘘のようにいまは戦意に満ち溢れている。

 その急激な心境の変化を、音神は鼻で笑う。

「おいおい、頭でもイカれたか? オレが本気を出せばどうなるか、さっき見せてやっただろうが」

「精々言っておけ。お前が自称最強でしかないことをいまから証明してやる」

「自称……だと?」

 数秒の沈黙、それから音神が、

「ゔぁああぁぁああああぁぁぁああああああ」

 獣の咆哮の如き力強い雄叫びを上げ、両腕を体の前でクロスして構える。

風統(ヴェント)

 そして、交差していた腕で(くう)を裂く。

高音廻風(ピウ・ヴィヴァーチェ)

 怒号のような音神の詠唱が響く。

 だが……

 なにも起きない。辺りには風一つ吹かない。

 御言は半眼になりながら、怒り狂う音神の様子に呆れていた。

「さすがに煽り耐性なさすぎだろ」

 音神は錯乱したように手を振り回す。

制空(アリア)

 なにも起きない。

 続けて叫ぶ。

翔音(スオーノ)

 音神が前方に跳躍し、勢いよく転倒。地面を一回転して尻もちをつく。

「なぜだ⁉ なぜ魔法が発動しない……」

「残念だったな」

 この状況が当然であるかのように振る舞う御言。

 それに音神は なにかに気づいたようにハっと目を見開く。

「まさか⁉ オマエ……」

 御言は得意げに言葉を返す。

「思い出したんだよ。俺がいつの間にか手にしていたヴァーユの鍵、その力の使い方を……お察しのとおり、この周辺の大気は俺が支配している。そしてこの支配は、絶対だ」

 言ってから宙をかき混ぜるようになにもない場所で手を動かす。

 すると、空気の全てが手足となり、自在に吹き荒れ、音神の体を軽々と持ち上げて念力のように御言の眼前へと運ぶ。

 空中で固定されて身動きがとれない音神は、不貞腐れたように現状を呪う。

「なんでオマエみたいなモヤシ野郎にこのオレが……クソ、本来なら瞬殺だってのに」

 そして、御言が拳を力いっぱい握り、それを音神の顔面に思いきりぶつけようとしたとき……

 寸前で御言の手が止まる。

 突然空が、空間が、淀んだように暗くなったからだ。

 まるで黒い霧がかかったみたいに周囲も見えづらくなり、数十メートル先は黒一色。

 霧のせいで、天上にあったはずの太陽は、ほのかに光る月のように変わり果てている。

 夜になったわけではない。星は見えないし、空が暗くなっているのは黒い霧が発生している幽霊都市だけだった。

 この現象は、数か月前に発生した≪境界≫と呼ばれるものに酷似している。

 御言も音神もそれまでのやり取りを一旦忘れ、その現象に意識が向く。御言に至っては能力を解除するほど。

 そして、それまで座って静観していた黒猫も目を見開き、スっと立ち上がって空を見上げた。

「あいつ、ここにいたのか」

 ほかの者も黒猫に続くように天を仰ぐ。

 その規模ゆえに、この暗闇でも肉眼で確認できる。

 空から吊り下がったような逆さまの建造物。悪魔の居城とでも言うべき城が空の一部を覆っていた。

 エイルはその城に怯えながら御言に駆け寄り、彼に心苦しそうに告げた。

「多分これは私のせいです。私が間違えて封印を解いてしまったんです」

 そう言って目を伏せ、いまにも泣き出しそうな表情を見せる。

「封印?」

 と、御言が聞き返すも、エイルの口から発せられたのは自責の言葉。

「ずっと前にも同じようなことをしてしまって、たくさんの人を傷つけて……なのにまた」

 ついには大粒の涙を流し始める。

 御言は微笑んで返した。自信満々かつ落ち着いた表情を見せ、

「大丈夫だ、任せろ。お前が封印を解いたっていうんなら、俺がまた封印してやるよ」

 それがなんの根拠もない言葉なのは明らかで、エイルが泣き止むことはない。

 彼女はただ、過去に自分が犯した罪と現状を重ね合わせ、涙を流し続けるだけだった。

 不意に少女の声が。

降魔殿(ごうまでん)……なるほど、この町の上空にあったわけね。朝倉がこの世界で遂行していた任務ってのがずっと謎だったけど、ようやく理解した』

 声の主は、赤みを帯びた長い髪を靡かせながら仁王立ちしており、それを見た御言は大きく仰け反って驚きを表現する。

「北条⁉ お前、さっきやられて……」

「なに死人でも見たような顔してるの? ちょっと体が丈夫にできてるだけだから、いちいち奇異の目で見るな」

 少しイラついたように言い、それから踵を返すようにスタスタと歩き始め、

「朝倉の奴を探すよ。多分あいつじゃないとこの事態には対処しきれない」

 御言がエイルの手を引っ張って、慌ててついていく。

「どういうことだ? あの城はなんなんだ?」

 三人がその場から離れていくのを音神は黙って見送る……

 わけはなく、怒鳴り散らすように引き止めようとする。

「なに勝手に次に進もうとしてやがる。オレの要件は済んでねぇぞ」

 飛鳥が立ち止まり、呆れて言い返す。

「状況わかんない? いまは人間同士で争ってる場合じゃないの。あんたも手伝いなさい」

「誰に命令してんだテメェ様はよぉ?」

 火花を散らすほど睨み合う二人のあいだに黒猫が割って入る。

「旦那、ここは撤退したほうがいい。あれはさすがにやばい、オイラでも苦戦する代物だ」

 そう言って黒猫が音神の足元を可愛らしい肉球でポンと叩くと、そこに黒い鍵穴のようなものが広がり、その穴は音神を落とすには十分なほどに大きく広がり、彼はかっこ悪く穴の中に転落した。

 そして黒い鍵穴は一瞬で縮小して消滅し、音神は影も形もなくなってしまう。

 黒猫は一度御言たちのほうを向くと、

「そんじゃ、あとは頑張りな、坊主たち」

 それだけを言い残し、ピョンピョンと飛び跳ねながら距離をあけていく。

 咄嗟に飛鳥が声を張って、

「おいこら、ここは共闘するところでしょ、戻ってこーい!」

 呼び止めるが、黒猫は躊躇なくその場から消え去った。

 それから飛鳥は視線を御言に戻す。

「そのニンフにも色々聞きたいことあるけど、まずはここを離れるよ」

 言った直後、物体同士が激しく衝突するような音が周辺から聞こえ始める。

 飛鳥は眉をひそめながら文句でも言うように、

「なんの音?」

 と御言に尋ねたが、すぐに自嘲気味に質問を取り下げる。

「聞いても無駄か。私がわからないのにキミがわかるわけないか」

 だが、御言にはわかっていたようで、

「そうでもない。俺はこの音の正体を知っている」

 それを聞いた飛鳥はどこか悔しそうだ。

 自分が理解できていない状況を素人である御言が把握できていることがよほど気に障るのか、その不満は顔にはっきりと表れていた。

「嘘でしょ? なら、さっさと説明し……」

 と、飛鳥が言いかけたところで、黒い物体が御言と飛鳥のあいだに落下し、先ほどから鳴り続ける衝突音と同じ音を発した。

 洗濯機ほどの大きさはあろうかというその黒い物体は、グニョグニョと粘土のように人型に変化していく。

 御言はその物体を指差して、飛鳥の疑問に答えた。

「これが音の原因……数か月前にあの城が出現したときもこんなふうに上から悪魔が降ってきたんだよ」

「数か月前に出現した? そんな話初耳なんだけど?」

「ああ、さっき記憶が戻った」

 こともなげに返した直後、たったいま彼らの目の前に降ってきた悪魔が、一本の長く巨大な腕で、飛鳥の体を捕らえた。

 ミシミシと音を立てながら飛鳥の体はいまにも潰れそうなほどに握りしめられ、声を出すことすら許されずに苦痛に顔が歪む。

 すぐに御言が助けに入ろうと悪魔に向けて手をかざし、大気を操る力を行使しようとするが、その前に背後から強い衝撃を受け、彼の体は前方に無様に転がる。

 倒れたままの体勢で背後を振り返った御言が目にしたのは、別の悪魔だった。

 身長と体躯は女子小学生。

 虚ろで真っ赤な瞳に、真っ黒な体。さらにその黒い体にピンク色のジェルが纏わりついている。

 左腕はピンク色の巻き貝のようなドリルの形状をしており、しきりにクルクルと回転していた。

 それは御言にとって大いに見覚えがある悪魔。

 その小柄な悪魔はご機嫌な感じで、

「どいてどいてー、私に任せて!」

 左腕のドリルを高速回転させながら、飛鳥を捕らえていた悪魔に突き刺し、刺したまま掻き回す。

 グチャグチャに粉砕された悪魔が細かくなって散らばったかと思えば、蒸発でもするかのように全ての肉片が黒い霧となって消滅した。

 解放された飛鳥がホっと安堵し、目の前の少女型悪魔に微笑みかける。

「ふう、助かったわ」

 そのお礼とともに、硬い巻き貝みたいな頭部を軽く撫でた。その様は、人間の子供を褒めるかのよう。

 撫でられたほうも撫でられたほうで、人間の子供とそう変わらないリアクションで無邪気な笑顔で応える。

 一部始終を見届けた御言は、盛大に声を荒げた。

「ちょっと待てぇ! なぜお前が生きている⁉ それに北条と仲良さそうなのはどういう……俺の記憶がおかしいのか? 俺の頭がイカれてしまったのか⁉」

 飛鳥とその悪魔──ラティアクシスはキョトンとしたまま首を傾げ、御言が続けて喚き立てる。

「だってお前、朝倉に顔グチャってされて死んだよな? 俺の目の前で」

 ラティアクシスはやはり首を傾げ、呆然となったまま答える。

「死んでないよ。あのときはご主人様に回収されただけ」

「ご主人様⁉ 回収⁉」

 何度も驚く御言。それに飛鳥が、

「ラティーは朝倉の配下だよ、知らなかったの? ほかにも何人か悪魔を従えてるけど、この子が一番素直に命令聞いてくれるから、割りと気に入られてるみたい」

「配下ってなんだよ配下って。朝倉の奴、悪魔を隷属させているのか? そんなことが可能なのか?」

「当然でしょ。悪魔は基本的に縦社会。下位の悪魔は上位の悪魔に従うのが基本」

 言葉の意味を理解できなかったのか、御言はしばらく宙空に焦点を合わせたあと、急にハっと目を見開く。

 その反応を煽って楽しむかのように飛鳥が、

「あれ、もしかして知らなかった? 朝倉が悪魔だってこと」

「知らねぇよ! 見た目はどう見ても人間だし、大体あの野郎、悪魔祓いが専門とかほざいていたぞ」

 そう言うと、飛鳥がますます愉快そうに腹を押さえて笑いだす。

「キミ、ホントに知らなかったんだ」

「笑ってる場合じゃないだろ、朝倉の奴が悪魔だっていうんなら、世界征服とか目論んでいても不思議じゃない」

 御言が深刻そうに話す一方で、飛鳥はそれを笑い飛ばす。

「それはないわ……まあ、アイツは少なくとも敵じゃないよ」

「なんで言いきれるんだ?」

 朝倉に対する不信感を抑えきれない御言は、我を忘れて聞き返す。

 明らかに場違いな会話を繰り広げる二人に、ラティアクシスは少し困ったように、

「早く行かないとご主人様から怒られちゃうよー。早く早くー」

 右手で大きくおいでおいでしてから、有無を言わさず目的地へ駆ける。

 周辺では、依然として流星群のように黒い影が降り注ぎ、至る所から落下した際に生じたであろう轟音が響いている。

 そう、呑気に話している場合ではないのだ。

 我に返った御言は素直にラティアクシスについていく。

「とりあえずここから離れるのが先決みたいだな」

 飛鳥が頷き、

「話は朝倉と合流してからね」

 一同は降り注ぐ悪魔の雨を躱しながら廃墟の町──いや、悪魔の巣窟となった町を突き進む。

  ◆

 仰向けの体勢からムクっと上体を起こす一人の少女。

 一面に白い花が咲く平原に寝転がっていたようだが、その場所に見覚えがないのか、不思議そうにキョロキョロと辺りを見渡す。

「なんで私こんなとこにいるんだっけ?」

 宙をぼんやりと見上げて、自分の身に起きたことを思い返し始めた。

 数日前のことになる。

 遊具が一つだけ置かれただけの寂れた小さな公園で、その少女は隅にあるベンチに退屈そうに座っていた。

 藍色の刺繍が入った白いトップスとケープ、それに薄い毛皮のインナーとスカート。髪は肩の高さまで垂らしたポニーテールで、ピンク色のリボンでまとめられている。高校生くらいの年齢だと思われるその少女は、特になにをするでもなく黄昏れていた。

 そこに現れたのは北条飛鳥。

 一直線に少女のもとへ歩み寄り、気さくに声をかけた。

「キミ、カプリだよね」

「そうだけど、なんで私のこと知ってるわけ?」

 いきなり名前を言い当てられた少女は、猜疑心を剥き出しにして眉間にシワを寄せる。

 だが、飛鳥は構うことなく強引に会話を展開する。

「ちょっとキミに聞きたいことがあるんだけど……」

「その前に私の質問に答えなさいよ」

 という言葉も無視し、

宝器(パンドラ)を集めてるって話は本当? だとしたら、なんで集めてるの? まさかイストリアに帰るためだなんて言わないでしょうね」

「もちろん帰るためだけど……って、だからなんでそんなことまで知ってるわけ?」

 カプリからの返答に、飛鳥は面白おかしそうにお腹を押さえて笑い、その態度にますますムっとするカプリ。

「なにがおかしいの?」

 もはや嫌悪すら覚えた様子のカプリに、しまったという表情で慌てて謝罪する飛鳥。

「ごめんごめん、悪気はないの。ただ、宝器(パンドラ)を集めたところでイストリアには帰れないよ」

「どうして?」

「この世界に投棄された宝器(パンドラ)のリストがあるの。前にチェックしたことあるけど、その中に空間転移をおこなえるものはなかった。つまり、この世界に点在する宝器(パンドラ)をどれだけかき集めたところで、キミたち魔術師は一センチたりとも空間転移での移動はできない」

「そんな話を信じろっていうの?」

 不審がるカプリに、すかさず飛鳥は小馬鹿にしたように苦い笑みを浮かべて、こう返す。

「むしろなんでキミは宝器(パンドラ)を集めたらイストリアに帰れるなんて突飛な話を信じたのさ? 一体どこの誰がそんな嘘っぱち吹き込んだの?」

「あんたには関係ないでしょ?」

「それが関係あるのよ。宝器(パンドラ)でよからぬことを企んでる奴がいるんなら、そいつを止めないといけないし、それに、キミたちみたいに楽園送りにされた魔術師をイストリアに還すのも私たちの業務の一つでもあるしね」

「イストリアに還す……? 私たちを?」

 途端に表情が和らぐ。

 飛鳥は軽く頷いてから、

「出身はどこ?」

「テミス、だけど……」

「ならよかった。同じ南大陸だから、故郷に帰るのもそう難しくなさそうね」

 普段、御言には見せないような優しい笑みをカプリに見せる。

 二人は初対面のはずだが、カプリが故郷に帰れることに対し、飛鳥は心から感動しているかのようだった。

 しかし、ここでふとカプリが疑問をぶつけ、それによって流れは大きく変わることになる。

「ところで、あんた何者なの? まさか……魔法騎士じゃないでしょうね?」

「いかにも、私は神の盾(アイギス)魔法騎士団の一等騎士だけど、それがどうかしたの?」

 飛鳥は誇らしげに答えるが、カプリの態度は急変する。

「ならこの話はなしよ。魔法騎士なんかの話を誰が聞くかっての……二度と私に話しかけないで」

 乱暴に言い放ち、公園から飛び出していく。

 その豹変ぶりは並ならぬものであり、魔法騎士に対する憎悪が窺い知れる。

 飛鳥も気圧されてしまい、去っていく姿を呆然と見送るしかなかった。

 しかし、公園を去ったあとのカプリの表情は、先ほどとは少し違う。

「さっきは勢いであんなこと言ったけど、あの魔法騎士をうまく利用すればイストリアに帰れるかもしれない……みんなに相談すべきね」

 などと冷静に独り言を並べながら路地を歩いていた。

『それは困るよ』

 不意に背後から呼びかけられ、カプリは立ち止まって振り返る。

 そこにはセーラー服の女学生がおり、その人物に一切見覚えがなかったカプリは、警戒して身構えた。

「誰?」

「騙してごめんね」

 セーラー服の少女は、泣きそうなくらい悲しみに満ちた表情を浮かべながら、軽くステップを踏んでカプリの横をすり抜けるように通った。

 瞬間、カプリは大量の鮮血を道路に撒き散らし、セーラー服の少女は何事もなかったように月見ヶ丘高校の方角へと進む。

「ちゃんと加減した? 死んじゃったら許さないからね」

 カプリが最後に聞き取った言葉はそれであり、その直後に力が抜けてその場に倒れてしまった。

 時は現在に戻り、周囲に広がる白い花が咲き乱れる大草原を目の当たりにしたカプリは一言、

「もしかして……私死んだ?」

 発言内容に反して、やけに淡白な口調。

 そして勝手に返答する者がいた。

「ううん、あなたはまだ死んでない」

 後ろから声をかけてきたのは中学生くらいの小さな女の子。

 赤く燃えるような瞳に、腰まで伸びた金髪、黒い装束に身を包んでいて、表情は常に哀愁が漂っている。

 カプリは一瞬驚いたものの、振り向いてその少女と顔を合わせたあと、すぐに平静さを取り戻す。

「まだ辛うじて生きてるけど、じきに死ぬみたいなオチじゃないでしょうね、死神ちゃん」

 金髪の少女はゆっくりと首を横に振り、あまり会話に慣れていない、覇気のない口調で返す。

「違う。私は死神じゃない」

「ま、あんたみたいな幼気な死神は確かにいないと思うけど、じゃあなんなの、ここはどこよ?」

 カプリの勝ち気な勢いに少し怯え気味になりながら、気弱な金髪少女は疑問に答えていく。

「私、アルテミス……枝木なの」

「枝木?」

「ここは夢の世界だよ」

「夢?」

「カプリはいま、病院で寝てるけど、もうすぐ起きるよ。その前に伝えないといけないことがある」

 どこか決意のようなものを感じさせる瞳でカプリを見据えるが、当人はバカらしそうに、

「はいはい、どうぞ。暇つぶしに話くらいは聞いてやるわ、夢子ちゃん」

 金髪の少女──アルテミスはなおも哀愁を漂わせた表情のまま、淡々と語っていく。

「指輪を渡してほしい。逆さまのお城が消える前に……」

「逆さまのお城? なにそのバカみたいな建造物。防衛能力高くても、まともに住めなくない? 耐震強度もなさそうだし」

 という指摘を無視してアルテミスは説明を続ける。

「赤い髪の人が指輪を持ってる。カプリも知ってる五つの指輪。それをあの人に渡して……そうしないとみんな死ぬから」

 この突飛な話を、カプリは冗談半分で聞き流していく。

 アルテミスの話は長々と続き、気がつけばカプリは病院のベッドで目を覚ましていた。

 まだぼんやりとした意識のまま、なんとなく窓から外の景色を眺める。さらに一度視線をそらし、二度見する。

 そして、ほっぺをつねって一言。

「痛い……ってことは夢じゃない」

 彼女の視線のずっと先にあるものは、黒い霧がかかった廃墟の町とその上空に浮かぶ逆さまのお城。

 ようやくカプリは、さっきまで見ていた夢がただの夢ではないことを悟った。

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