果てなく続く空の下で
長身の青年が、暗黒へと続く階段を下りていく。
黒眼黒髪で黒い装束に身を包み、外見は黒一色。瞳には強い憎しみが宿っており、階段を下りるその姿は、底なしの闇に沈んでいくかのようだ。
やがて彼がたどり着いたのは、照明が一つしかない石レンガ造りのじめついた地下室。
内装は木箱と樽が乱雑に置かれているだけで、その部屋にはほかになにもない。
倉庫として使われているか、あるいはすでに使われていないのではないかと思えるほど荒れてしまっている。
奥には別の部屋が広がっているようだが、暗がりになっており明かりはない。にもかかわらず、中から人の声が。
「やあディア、帰ってくるの意外に早かったね」
こんな陰気な場所には似つかわしくない陽気な調子だった。
ディア・トラモントは暗がりに向かって低い声音で返す。
「もしお前の考えが間違っていたら、そのときは殺す」
すると、暗がりからオンボロの木製車椅子がキコキコと音を鳴らしながら出てきて、
「好きにすればいいさ。僕の推論に綻びなんてないし、どの道君が殺さずともダモクレスの刺客に殺される」
爽やかな笑顔を見せてきたのは、金髪と銀髪が混じり合った珍しい頭髪の青年。常時瞼を閉じているせいか、どこか不気味な雰囲気が漂う。
下半身は膝から下がなく、車椅子なしではとても生活できない体だが、座っている車椅子はいまにも壊れそうなほど傷んでいた。
ディアはその青年の笑顔を不愉快そうに眺めながら、会話を続ける。
「それで……ソーマ、計画を詳しく説明しろ」
「時間がないから手短に話すよ? 通信でも言ったけどツクヨミ・ミコトの殺害及びヴァーユの鍵の回収。これは帝国が死ぬほど欲しがってる代物だ。交渉の道具として利用する。
二つ目、シミズ・オトハの回収。アルテミスと同じ情報領域を持っているはずだ。その女を解析すれば、次元転移すら可能になるよ、きっと。
幸運なことにこの二名はなんと同じ生活圏内にいる。これから君には、ある都市の指定した座標に飛んでもらう」
そう言ってソーマは黒い指輪を投げる。
空中で掴み取ったディアが指輪の内側を確認し、そこに刻まれた座標と思しき数字の羅列を見て顔をしかめた。
「なぜ指輪に刻んで渡す?」
「両得だよ。それはブランクで、ヴァーユの鍵に使う分さ。代わりに十番は置いていってね」
返された言葉にディアは不服そうにしつつも、その指輪と同じデザインの指輪をポケットから取り出し、それを投げ渡す。
ソーマは掴み取ろうと手を伸ばすが、目を瞑っているせいかタイミングが全く合わず、指輪は虚しくも床に転げ落ちた。
車椅子に座ったままでは拾うこともできないので、ソーマは指輪を無視してそのまま作戦へと移る。
「そんじゃウエス、出番だよ。ディアを指定した場所に飛ばしてあげて」
彼の言葉のあとに奥の部屋から出てきたのは十歳前後くらいの全裸の少女。
頭髪は黄緑で、翡翠のような綺麗な瞳をしている。首に金属のリングがついている以外は本当になにも身に着けておらず、表情は暗い。
ディアはその少女を冷めきった目でチラっとだけ見ると、
「お前も相変わらずの変態だな」
汚物を見るような目でソーマを睨む。
ソーマは苦笑し、
「変態だなんて心外だなあ。仕方ないでしょ? 空間転移をフレキシブルに扱えるのはニンフだけ。そのニンフが基本少女しかいないんだから……別にそういう趣味があるわけじゃない、決してね」
隣にいる裸の少女の頭部を爽やかな笑顔で撫でるが、少女は無表情のまま。
ディアは疑わしそうな眼差しで、続けて指摘する。
「服を剥ぎ取っているのは?」
「前にしなかったかな? 発生したてのニンフを捕獲したって話。元から服を着てないだけさ。僕も目が見えないわけだし、裸でも問題ない」
「嘘つけ」
「嘘は言ってないさ、目は見えない」
ソーマは屁理屈っぽく言うと、ふとなにかを思い出し、話を戻す。
「ああ、そうそう。今回の計画に一つ注意点があってね。世界最強の魔術師と謳われているディオ・アルバっていたでしょ?」
「知らん」
「ほら、音神ってコードネームの」
「知らん」
二度も冷たく即答されるが、ソーマはそのままの調子で続ける。
「そのディオ・アルバが実は楽園送りにされたらしいんだけど、問題はその場所……実は君がこれから行く場所とかなり近い場所に飛ばされてる」
「俺がその世界最強とやらに邪魔され、あまつさえ負けるとでも言いたいのか?」
ルドアの魔剣使い──または魔剣兵器とも称されるディアは、どんな相手であれ真っ向勝負なら負けない自信とプライドがあった。だからこそ苦戦をほのめかすようなソーマの言動に苛立ちを覚えていた。
それを感じ取ったソーマは、慌てて顔を横に大きく振る。
「いやいや滅相もない。そうじゃなくてね……」
彼が両手の人差し指を立てると、その指には同じデザインの指人形がそれぞれ填められていた。
◆
ナギハヤが結成した≪月の影≫という組織は、異能力で事件を解決するという名目で活動していたはずなのだが……
現在その部室は、比奈や櫛田が持ち込んだボードゲームの数々で遊ぶだけの空間に成り果てていた。
テーブルの上に置かれた将棋盤とその駒に興味津々なのはエイル・ナイアード。
少しぎこちない敬語で、感心したように感想を述べる。
「まるで古代イストリア式の術式媒体みたいですね」
彼女は綺麗な姿勢で椅子に座り、駒を並べる作業に没頭していた。
ソファーの上でくつろぐ櫛田世利は、乗り出すようにテーブルの上に置かれた将棋盤を覗き込み、文字や記号に見えなくもない駒の配置から、なにかしらの特異性を感じ取った。
「確かエイルさんは魔術の達人なんでしたっけ? もしやこの並べ方には、なにか特別な意味が……?」
「ないですよ」
即答だった。
そしてエイルは駒の一つを指でつついて倒すと、
「ドミノ倒しです」
ふんわりと笑みを浮かべ、彼女が並べた駒は見事に全てが倒れた。
それを横で見ていた比奈がすかさず、やかましく声を散らす。
「せっかく持ってきたのに、そんでもってせっかくルールを教えたのに、将棋で遊ばないんですか⁉」
盤そのものを取り上げて、駒を本来の正しい位置に並べ直す。
だが、エイルは眉をハの字にして、
「ルールは覚えましたが、とっつきにくいと言いますか……争いを元とした遊びなのは気が進みません」
途端に表情が陰る。
その落ち込み方は尋常じゃなく、心から争いを疎んでいるのが窺える。
櫛田もそれを汲み取り、重くなってしまった空気を少しでも軽くしようと、わざと明るく振る舞う。
「では、こちらのブロックスというゲームで遊びましょう!」
また別のボードゲームをテーブルの上に展開し、ふと思い出したように話題を振る。
「そういえば、エイルさんはどうやってこちらの世界に来られたんですか? 私たちは異世界への渡り方を知らないもので、少し興味があります」
なにか元気が出るような話題にしたつもりなのだろう。しかし、エイルはなおも暗い顔のままで、
「世界を渡るには二つの方法があります。アルゴノーツという乗り物を使う方法と、私たちニンフが念じる方法……私がこっちの世界に来たのは後者です。数日前、住んでた村が襲撃を受け、そのときお母さんが私を守るためにこっちの世界に逃がしてくれました」
これを聞いた櫛田の表情が凍りつく。
争いに対してなにか嫌な記憶があるのだろうと明るい話題に変えたつもりが、逆に掘り下げてしまったのだ。
エイルは泣きそうな顔で訴えるように続ける。
「あのあと村のみんながどうなったのか、私にはわかりませんが、もしかしたら私以外にも村の誰かがこっちに避難してるかもしれないんです」
「昨日、人を探していると仰っていたのは……」
「はい。間違いなくこの施設のどこかに私と同種の空間系能力を持った人がいるんです。少なくともその人を探し出すまではイストリアには帰れません。と言っても、帰りたくても自力では帰れませんが……いまの私は魔法が使えない状態にあるので」
彼女はうつ向き、同時に部室の中はますます気まずい雰囲気で満ちる。
そのときだ。
ドアがスライドし、北条飛鳥がせわしい足取りで部室に上がり込む。
彼女は脇目も振らずにエイルに向かって直進すると、その手を優しく握る。
「一緒にイストリアに帰るよ」
飛鳥が手を引っ張り、エイルは不意の事態に対応しきれず、成すがままに外に連れていかれそうになる。
誰も飛鳥とは面識がなく、中でも櫛田は強く警戒しており、
「待ってください! いきなり来て、なんなんですか?」
部室の入り口を塞ぎ、飛鳥の行動を阻害しようとする。
だが、飛鳥は足を止めず……
次の瞬間、閃光弾のような強烈な光が炸裂し、部室内の視界は白一色。
光ったのはほんの数秒だけだったが、櫛田たちが閉じていた瞼をあける頃には、すでに飛鳥とエイルの姿はなかった。
残された櫛田と比奈の二人は顔を見合わせたあと、ただ呆然と立ち尽くしていた。
◆
教室の隅で密談を交わす二人の男子生徒、そのうちの一人──月読御言が、周囲に不快感を与えかねない声量で喫驚してしまう。
「部室に住まわせた⁉」
と、言ったあとで声量の加減ができていなかったことに自ら気づき、気恥ずかしそうに周囲の視線に萎縮する。
密談の相手であるナギハヤは、仰天する御言に向かって得意げに話す。
「いい考えだろ? 部室には非常食、学園内にはシャワールームもある。衣食住では困らない」
「どういう話の流れでそんなことになったんだよ。昨日俺が帰ったあと、なにがあった?」
「エイルちゃんは追手から逃げてる最中で、なおかつこの学園にいるであろう誰かを探してるみたいでな。なら、学園内に身を潜めるのが安牌だろってなったわけだ。帰るべき家もないって言われたら、もうこの手しかないだろ」
「いまも部室にいるのか?」
「安心しろ、外に出ないように釘は刺した。予備の携帯も渡してあるから、なにかあったら連絡が入る。エイルちゃんが勝手に部室から出ることは絶対にありえない」
ナギハヤが自信満々にそう言った直後、教室内がなにやら騒然としだす。
渦中にはエイルの手を引く北条飛鳥の姿があり、それを目撃したナギハヤは、横にいる御言に泣き言を吐く。
「なんで北条がエイルちゃんを連れてきてんだ⁉ そもそも部室やエイルちゃんのことをどこで知ったんだよあいつ」
御言は真相を伝えようとはせず、ただ苦い笑みを浮かべるだけであった。
突如教室に現れた飛鳥は、久々に顔を合わせたクラスメイトたちにはなにも告げず、御言に目配せだけして、そそくさと教室を出ていく。
生徒たちからすれば、その連れている水色髪の少女は誰なんだとか、いままでどうして学校を休んでいたのとか、一体なにしに教室に入ってきたんだとか、色々疑問が残るのだが、彼らに聞き返す暇など与えられなかった。
御言は一目散に飛鳥を追いかけ、飛鳥の背中に向かって、
「どういうことか説明してくれ」
聞いたあと、廊下を曲がったところで飛鳥が立ち止まる。
「緊急事態ってやつ」
「緊急事態? お前が言うからには相当やばそうだな」
「刀剣を所持した黒服の男がこの町に出没したらしいの。司令部によれば≪鍵≫を狙う魔法騎士でほぼ間違いないだろうって。もう時間がない、あっちが接触してくる前にキミたちをイストリアに連れていく」
すると一緒についてきていたナギハヤが、目を輝かせてはしゃぐ。
「イストリアって異世界のことだよな? ひょっとして俺も異世界へ行けるのか⁉」
それに飛鳥が半眼になって、
「キミは無関係だからついてこないで」
そう言って空間に手を走らせた瞬間、その手から伸びたロープ状の光がナギハヤの足に絡まり、体勢を崩させた。
床に転んだナギハヤは、足の自由を奪われてアザラシのように体を動かし、
「え、なんだこれ、足が動かね! 待ってくれよ、俺を仲間外れにしないでくれよ」
ジタバタしながら必死に懇願するも、御言が構うことなく飛鳥とのやり取りを再開する。
「刺客が来たのなら、撃退すればいいんじゃないか? お前だって護衛として使わされたくらいだ。相当強いんだろ?」
足元でナギハヤが『無視するな』と暴れているが、飛鳥は一切のリアクションもなく御言の疑問に答えた。
「なんか勘違いしてるみたいだけど、護衛と言ってもイストリアに移送するまでの護衛であって、この世界に居座って半永久的に敵を迎撃し続けるわけじゃない。敵が一人ならそれでいいけど、何人いるかわからない敵組織を相手に、護衛任務はきつすぎる」
そう言って再び飛鳥はエイルを連れて歩きだし、御言は下に転がるナギハヤを指差して、
「これは置いていくのか?」
「エクトエゼル領域外に出れば縄はとけるから放置しても大丈夫だよ」
「そうか……意味はわからないが、ニュアンスは理解した」
そんなやり取りを終え、一同は喚き続けるナギハヤを残して校舎の階段を降りていった。
移動中、飛鳥は納得いかない様子でふと尋る。
「それにしても月読くん、やけに素直についてきてくれるのね、抵抗されるかと思ったわー。この子なんて、まだ帰りたくないって言って結構反発してきたのに」
未だに飛鳥に手を引っ張られる形で同伴しているエイルは、先ほどからずっと無言であり、どこか不貞腐れた表情をしている。
御言はその元気のなさそうなエイルを見てから、飛鳥の発言にこう返す。
「どの道抵抗しても無理やり連れていくんだろ? こいつみたいに」
「そうだけども……それがわかってたとしても、いつ帰ってこれるの? とか、普通はもっと不安そうにしない?」
「別にこの世界にそれほど未練はないからな」
本当に夢も希望もなさそうな感情で言い、飛鳥は思わず苦笑した。
そして飛鳥たちが校舎を出ると、入り口には清水音羽が突っ立っていて、飛鳥は音羽の前で立ち止まり、一言。
「お待たせ」
それを見た御言は目を見開く。
「なんで清水が待ち合わせしているんだ?」
音羽が自嘲気味に、
「私もよくわかんないんだよね。とりあえず、飛鳥ちゃんがここで待っててって言うから待ってたんだけど」
そして飛鳥が、
「さあ、揃ったことだし行きましょうか。事情は向こうについてから説明するから、音羽も私たちについてきてね」
笑顔で言い、校門へと足を進めようとする飛鳥。
御言は駆け足で飛鳥のそばまで寄ると、音羽に聞こえないように小声で耳打ちする。
「なんで清水までイストリアに連れていくことになっているんだ? それに、行き先を教えないまま連れていくつもりか?」
「次元振動──この世界だと≪境界≫って言ったっけ? あれを発生させたのが音羽かもしれないから、保護するように指示を受けたの。行き先を教えてないのも、本人を刺激しないようにするため。多分だけど、あの子の暴走は精神状態に左右される系のやつだから。また記憶やらなんやら消されたら困るでしょ?」
と言っている矢先に、それは起きた。
音羽から青白い光がオーラのように浮かび上がり、ふんわりと広がっていく。
それを見た飛鳥は青ざめた。
「言ったそばから、嘘でしょ⁉」
青白い光は半径十メートルほどの円形に膨れ、御言たちを包み込んだ。
◆
景色の全てがガラスのように細かく砕け、剥がれ落ち、現実からかけ離れた空間が展開される。
そこは青空と鏡のような水面が水平線の彼方まで広がる世界。
黒色の八面体が宙の至るところに浮かび、それらは水面にその姿を映すことはなく、非現実的な風景をかもしている。
急にこのような場所に飛ばされてきたら取り乱しそうなものだが、エイルは特に驚いた様子もなく、水平線の彼方をぼんやりと眺めながら呟く。
「夢鏡の空……どうして私以外にも」
言いながら、エイルと同じくこの空間に訪れていた二人へと目を向ける。
そのうちの一人が、
「夢鏡の空? それってこの場所の名前?」
と、反応を示したのは音羽で、この状況を不思議がってはいるものの、平常心を保っていた。
エイルは音羽の問に小っ恥ずかしそうに顔を赤らめながら少し早口になる。
「あのっ、夢鏡の空っていうのは私が勝手につけた名前なので、正式な名称はわかりません。この場所にも何度か来たことがある程度で、どういった場所なのかも……」
「でも夢鏡の空って名前、なんか幻想的で素敵」
「本当ですか? そう言ってもらえると嬉しいです」
こんな感じで、緊急事態には到底見えないほのぼのとしたやり取りを繰り広げ、横にいた御言はその図太さに感心していた。
「お前ら、なんで平然としていられるんだ?」
だが、そう言う御言もパニックに陥ることなく冷静に状況を把握しようと辺りを見回そうとしていた。
そして彼が振り返ると、そこにはいままでいなかったはずの人物が立っていて、
『やっと三人揃ったね』
目が合った瞬間に少女はそう言った。
音羽たちも振り返ってその声の主を目の当たりにする。
顔立ちは整っており、金髪でセミショート、瞳は血のように赤い。直立不動で、視線や仕草に一切の無駄がない。
頭上に光のリングが浮かび、背中からはいくつかの幾何学模様が伸び、金色に輝きながら左右非対称の羽を象っている。
一言で言い表すと、天使だ。
服装は白い半袖に黒いミニスカート。肩とスカートには、装飾なのか大きな蛍光灯のような輪っかがついており、少し奇抜な格好と言える。
その少女は三人に向け、無機質というか、あまり感情が乗っていない淡々とした声で話し始める。
「突然でごめんなさい。この空間を経由しないとあなたたちには会えないから、少し強引に力を発動させた」
御言はあからさまに警戒心を剥き出しにした態度で、
「何者だ? この空間はなんだ、俺たちをどうする気だ」
鋭く睨む。
天使のような少女はやはり感情が希薄で、どこか事務的に返事をする。
「これから説明するから、質問はそのあとでお願い」
そして御言が口を噤んだのを確認し、そのまま説明を続ける。
「この空間領域は、ある存在によって世界から消されたものが一時的に保管される場所で……」
言いながら宙に浮かぶ黒い八面体を指差す。
「あれがそう。世界から消えた情報体が可視化したもの。それで、エイルに一つお願いがあって、この空間のどこかにいる三人の少女を、エイルの力で復元してほしい。彼女たちも世界を救うために必要な歯車の一つだから」
「わ、私ですか?」
エイルは話についていけておらず、首は大きく傾いたままキョトン顔。そんな彼女を置いてけぼりにするように、御言が天使に聞き返す。
「いま、世界を救うために必要と言っていたが、世界は現在進行系で危機に瀕していると解釈していいのか?」
天使は考える間もなく即答する。
「そう。あらゆる並行世界が消滅の道をたどっている。そして世界の消滅を回避するために、あなたたちの協力が必要不可欠。まずはオーケストラ部隊の三人をエイルの力で表の世界に戻さないといけない」
世界消滅の回避。これが真実であるならば、エイルに課せられた使命は重大なものであるが、当の本人は首を左右に大きく振って自信のない表情を見せる。
「無理です。私にそんな力はありません」
だが、天使はそれを否定する。
「それがあるの。あなたにはこの空間にある情報体を元に戻す力、諱の諳誦がある。逆に言えば、いまはあなたにしか彼女たち三人を救えないし、三人を元に戻さないと世界も救われない……それだけは忘れないで」
「そう言われても……」
やはり自信なさげなエイルだが、天使はそれ以上エイルにはなにも言わず、視線を音羽に向ける。
目が合った音羽は、やる気に満ちた顔で天使に尋ねる。
「えーっと、私はなにをすればいいの? 世界を救うためならなんでもするよ」
それに御言が半眼になって、
「なに簡単にこの状況を受け入れているんだ。こいつの言っていることを信じるのか? お前も変なこと要求されるぞ?」
しかし、天使から出た言葉は、
「ほかの二人には特別なにもない」
「は?」
思わず聞き返す御言。
「じゃあ、なぜ俺と清水をここに連れてきたんだ?」
「いまはなにも言えない。でも、強いて言えばあなたにとってヒントになるから、かな」
「ヒント?」
聞き返すが反応はなく、天使はエイルのほうに視線を戻す。
「時間がきたみたい。ここは私にとってはアウェイだから、あまり長くは持たない。これ以上は彼女に気づかれる。だから、あとはお願い」
そう言い残し、天使は金色の粒子となって霧散した。
御言は空に昇っていく粒子に向かって手を伸ばし、文句を放つ。
「待て、わけがわからん。彼女って誰だ⁉」
返事はなく、もう一度なにか呼びかけようとしたところで、彼は目を覚ました。
場所は学校の保健室。
奇妙だが、御言と音羽の二人は夢でも見ていたように、ベッドに寝そべった状態からほぼ同時に起きた。
近くにいた飛鳥が、御言たちが目を覚ましたタイミングで、
「やっと起きたか寝坊助ども……キミたちが寝てるあいだにエイルが音神に拐われたわ」
さらっと大変なことを口にする。
それに御言が、
「冗談だろ? エイルはさっきまで俺や清水と一緒に別空間に飛ばされていたんだぞ?」
「別空間? なにバカなことを。キミたちは意識を失ってずっと倒れてたのよ? 夢でも見てたんでしょ」
夢と言われ、思わず反応したのは音羽。
「ううん、あれは夢じゃないよ。はっきり憶えてる……湖みたいな場所で金髪の女の子が出てきて……」
という主張を途中まで聞いた御言は、お互い確認し合うように音羽に続く。
「そうそう、天使みたいな奴」
この、御言の≪天使≫という言葉に反応したのは、飛鳥のほかに室内にいた、黒スーツにサングラスの男──養護教諭の朝倉臥魔だった。
「ほう……天使ですか」
「って、なんで朝倉がここにいるんだ?」
「保健室に養護教諭がいるのは自然だと思いますが?」
「場所の問題じゃない」
と、顔をしかめる御言に飛鳥が、
「私が呼んだ。連れ去られたエイルのことを引き継ごうと思ってね。音羽のことも話してある」
「へ? お前ら知り合いだったのかよ……というか、こいつに話して大丈夫なのか?」
「コイツは私と同じ魔法騎士団の隊員なの。悪魔でもある程度信用できる奴だから、音羽の件なら話しても大丈夫」
「なるほどな、こいつも俺の監視役だったわけか」
勝手に納得する御言。しかしそれは、朝倉に否定される。
「いえ、私とお嬢様は別任務ですよ。あの日、あなたと病院で会ったのは本当に偶然なんです」
なんて言っているが、いつものごとく表情や仕草が嘘っぽいので、実際のところどうなのかはわからない。
飛鳥は一度咳払いをして注目を集めると、
「そういうこと。朝倉はこっちにとどまるの。だからエイルのことは朝倉に任せて、ひとまず私たちだけでイストリアに向かうから」
それに反応したのは音羽だった。
「話がよくわからないんだけど、エイルちゃんって確か世界を救うためにやることがあったはずだよね」
御言に確認すると、彼もまたうんうんと頷く。
「そういやそうだ。あいつを助けないと世界が滅ぶぞ?」
だが、飛鳥は全く信じていなさそうな顔で、
「あの子を助けたいからって適当に言ってない? 一体全体どういう因果で世界が滅びるっていうの?」
すると、横から朝倉がニヤニヤしながら、
「いえ、少なくとも嘘ではないようです。エイルさんがいなければ世界が滅びると、本気で信じているみたいですね」
楽しそうに言うと、飛鳥はなぜか急に態度を一変させる。
「助けにいくとして、居所がわかってるならまだしも、わからないんじゃ話にもならないでしょ。探すとしてもどれだけ時間がかかることか」
さっきまで助けに行くような気配はなかったのに、いまは居所さえわかれば助けに行きそうな勢いだ。
御言は表情が明るくなり、
「俺が探してみる」
こともなげにそう言うと、目を閉じた。
その軽いノリに、飛鳥は呆れてため息をつく。
「探せないってば。音神の奴、空飛んで逃げたのよ?」
だが、間もなくして御言が閉じていた瞼を開き、平然と言い放つ。
「見つけた、幽霊都市にいる」
「なんの冗談?」
「櫛田の能力だよ。昨日コピーしたまま保持していた」
「あ~、そういえばあの子、そんな結界能力だったか。我ながら勘が鈍い」
自身の不甲斐なさに嘆息する飛鳥。
急かすように音羽が、
「早く助けに行かないと、取り返しのつかないことになるかも」
「世界が滅ぶ?」
「うん」
意志のこもった目で即答し、飛鳥はしばらく唸ったあとに、
「わかったわー。そのバカバカしい話を詳しく聞きたいところだけど、時間が迫ってることだし、エイルを助けたあとに聞くことにするよ」
妥協した感じは否めないが、飛鳥もエイルを救出する運びとなった。
その後、音羽だけを残してほかの三人は幽霊都市へと向かう。世界最強と謳われる音神からエイルを奪還するために。
◆
人里から遠く離れた森の中に、ニンフだけが暮らす村があった。
彼女らは一般的に精霊と呼ばれている種族だが、一部の者からは魔女と見なされ、時には魔女狩りと称した虐殺がおこなわれることもある。
そのため、ニンフは身を守るために人間社会から切り離された辺境の地に隠れ住むしかなかった。
だが、人間という種族は執念深い。
このクリスフィーという名の村も、悪意ある者たちに発見されてしまう。
それが訪れたのは昼間のことだった。
村のあちらこちらから悲鳴が響き、それを聞きつけて状況を確認しにきたニンフたちは、凄惨な光景を目の当たりにする。
川で洗濯中だったはずの少女は、自らの血で洗いかけの衣服を真っ赤に染め上げ、炊事をしていたはずの少女は、大窯の中で焼かれて黒焦げになっているではないか。
そしてニンフたちは、続々とやってくる赤い甲冑をつけた大勢の兵士たちを見て、これが人間による魔女狩りであることを即座に把握する。
ニンフは魔法での戦闘が得意ではある……ただ、数に圧倒的な差があるため、彼女たちが下した決断は空間転移を使って遠くに逃げることだった。
元々想定されていた事態というのもあり、対処は早い。
一人のニンフが魔術により信号弾のような光を空に打ち上げ、同時に口笛のような音色が森中を駆け巡る。
それは空間転移を使って逃げろ、という合図であった。
ただ念じるだけで二つの空間を入れ替えるという特性を持っているので、逃走は容易に思えた。
しかし、誰一人としてそれを発動させることができず、赤い甲冑の兵士の一人が、困惑するニンフを見て下品に笑う。
「馬鹿め、ここら一帯の空間は我ら帝国が保護している。空間転移なぞ使わせんわ」
少女たちは逃げることすら許されず、混乱の中で次々と命を落とし、森には断末魔の叫びがひっきりなしに鳴り響く。
そんな地獄絵図の中で、その少女──エイル・ナイアードは現実から目を逸らすように目を瞑り、耳を塞ぎ、その場でうずくまっていた。
もちろんそうしたところで、むざむざ殺されるだけ。それは本人もわかっているはずだが、それでも仲間の死を目にせず、断末魔を聞かず、自身に降りかかる死から意識を逸らすしか彼女にはできなかった。
しかし耳を塞いだところで、指の隙間を通って悲鳴が聞こえてくる。音を完全に消すことは不可能だ。
エイルは思わず叫んだ。
悲鳴を悲鳴でかき消して、自分の悲鳴以外なにも聞こえないようにした。
だが、なぜか猛獣の咆哮のような声だけは彼女の耳に入ってきた。それまでそんな声は聞こえていなかったのにだ。
耳から手をどけ、閉じていた瞼をあけるエイル。
そこで彼女が目にしたのは、想像だにしなかった光景。
周囲には誰の姿もなく、どこまでも続く水面と青空だけがひたすら広がる。空を映し出す巨大な鏡の上に一人だけポツンと突っ立っていた。
そして彼女の眼前には、黒い八面体が浮かんでおり、彼女はその物体にぼんやりと手を伸ばす。
ペタっと手のひらをつけたまま、エイルは首を傾げて語りかけるように声を発した。
「あなたは誰?」
なにも反応はないのだが、それでもエイルは会話をしているみたいに一人で喋り続けた。
「ここから解放したら、望みを聞いてくれるの? お願い……村のみんなを守って、白銀の大釜」
名前を叫ぶと、エイルは村に戻っていた。
未だ悲鳴は止んでおらず、泣き叫ぶ声が絶えず響く。だが、聞こえてくる悲鳴はニンフたちのものだけではない。
甲冑をつけた兵士たちの悲鳴もそれに混じっていた。
それはもはや殺戮というよりも自然災害と呼んだほうが相応しい。
全長百メートル以上もの巨大な蛇のような竜が地上でのたうち回り、長い巨体で村の建物も木々も薙ぎ払い、その度に命が潰れていく。
兵士だろうとニンフだろうと動物だろうと、その竜は関係なしに破壊の限りを尽くす。
エイルは叫んだ。
自らが喚び出してしまった竜に、誰も殺さないで、もうやめて、と。
殺戮が止むように何度も何度も叫び続けた。
だが、白銀の大釜に彼女の思いが届くことはなかった。
そして現在──
彼女はたった一人で広大な水面の上を歩いていた。
夢鏡の空はいまもエイル・ナイアードにとって忌まわしき場所である。それでも彼女は天使と名乗る少女の言いつけを守り、果てなく続く空の下を彷徨い続けた。
いくつも浮かぶ黒い八面体は全てが同じ形で、全く見分けがつかない。それでもエイルはその中から目的のものを探さなければならない。
普通なら不可能に思えるが……
エイルはある一つの八面体の前で立ち止まった。
「あなたたちがオーケストラ……?」
問いかけるも、八面体からの応答はない。
代わりに彼女の背後にいた別の少女が答える。
「そうだよ」
ただ存在していることが苦痛であるかのような、つらそうな表情を浮かべた少女で、その顔は清水音羽と全く同じである。
嗚咽をこらえながらこう続ける。
「どうやったらいいか、幸せになれるか、ずっと考えてた……その答えがやっとわかった。あなたが今日来てくれたことで、やっと全部元通りになる」
だが、エイルは気づいていない。
暗い表情の音羽は、確かに背後におり、喋っているはずなのだが、エイルの耳には届いていないようだった。
ただ一心に八面体へと手を伸ばすエイル。それと同時に音羽がその背中に軽く触れると、やはり声と同様にエイルは触れられたことにすら気づかない。
次の瞬間、エイルの触れていた八面体から光の帯が無数に伸び、ほかの何十何百もの八面体に繋がっていく。
ただ一つ、音羽の手の上に浮かぶ八面体を除き、周辺にある八面体は全て水面へと沈んでいく。
エイルは顔面を蒼白させて、己の手をもう片方の手で強く握りしめた。
「違う。私はそんなつもりじゃ……」
彼女には感覚で理解できていた。
オーケストラ部隊。
人々の記憶。
それらが元の世界へと戻されていくのが。
そして復元される存在の中に、幾千の悪魔とその王が含まれていることも、エイルは感じ取っていた。