月下のアムネジア
その町は静寂と暗澹に支配されていた。
純黒の空に一つだけ浮かぶ朧な天体が淡い光を放っているが、地上を明るく照らすには至らず、数十メートル先はもはや黒一色。見渡す限りが黒い靄に包まれ、それがどこまで続いているのか定かではない。
そんな闇に閉ざされた町に一人の少年がいた。
外見の年齢は十四か十五くらい。目にかかるほど前髪を長く伸ばし、反対に襟足はとても短い。肌は色白で、体型はお世辞にも男らしいとは言えない華奢なもの。
まさしくモヤシという言葉が似合いそうな少年だ。
彼は気がついたとき、まるで月明かりを浴びるかのように上空を見上げ、交差点の中央に佇んでいたのだが、少年はなぜ自分がその場所にいるのか憶えていなかった。
それどころか自分の名前すらも記憶にない、いわゆる記憶喪失という状態だ。
少年は言い知れぬ孤独感を押し殺しながら、置かれている現状を理解しようと周囲を見渡す。
彼から見える範囲には、高さ二十メートルほどのビルが建ち並び、それなりに発展した都会であることが窺える。だが、そうであるにもかかわらず、人の気配がまるで感じられない。
そして周囲は不自然なほど薄暗いため、一瞥した限りではそれ以上の情報は掴めない。
町の違和感を一通り感じ取ったあと、少年は苦笑しながら冗談混じりに呟く。
「これはいつ化け物が出てきてもおかしくはないな」
息が詰まるようなこの異常な状況下で、少しでも気を楽にするために発した言葉。
そのフラグにしか聞こえない台詞を発した丁度そのときである。いままで物音一つなかった町に少女の悲鳴が響く。
少年は体をビクつかせ、声がしたほうへ視線を移した。
そこにあったのは道路上にポッカリと空いた直径十メートルくらいの陥没穴。
アスファルトをえぐるようにあけられたその大穴には、光沢のない黒い液体が満ち、その中で小学生くらいの少女が死に物狂いで藻掻いていた。
少年はその光景を視界に捉えた瞬間戦慄し、押し寄せる恐怖に思わずたじろぐ。
なぜなら少女は足を取られて溺れていたわけではなく、水面から生える無数の黒い触手によって黒い液体の中に強引に引きずり込まれていたからだ。
少女は最初のうちこそ悲鳴を上げて助けを求めていたが、そのうち口元まで黒い液体に浸かり、それまで響いていた声がピタリと止まる。
少年はどうすることもできず、少女の姿が黒い沼の中へと消える様子をただ見ていた。
走って助けに向かっていれば状況が変わっていたかもしれないのにそうはせず、自分の身の安全を優先したのだ。
少女が消えてから間もなくして、黒い沼から新たな触手が形成され、付近に倒れていた別の人物──高校生くらいの少女を襲い始める。
その少女は気を失っているのか、全く動かない。このままでは為す術なく触手に捕まり沼に喰われてしまうだろう。
だが、少年は少女を救う気なんてさらさらなかった。
どうせ助けに向かったところで死者が一人増えるだけだと決めつけ、一歩、また一歩と後ろに下がっていく。
すると少年の耳に泣き叫ぶような少女の声が届いた。
──助けて──
確かにそう聞こえたが、少女は依然として気を失っており、声を発したような素振りは一度たりとも見せていない。
だが、確かに少年はその少女の声を耳にした。
助けを求める声。いまにも泣きだしそうな──いや、すでに泣いているのかもしれない、そんな声が。
そして、その声を聞いた瞬間から少年の様子は一変。まるでなにかに取り憑かれたように地面を強く蹴って走りだす。
少女を助けなければならない。そんな使命感に駆られ、風のように疾走する。
彼には体を動かしているという自覚はあるが、少女を助けると決断した覚えは一切なく、自身の精神が何者かに支配されているような感覚にすら陥っていた。
とにかく少年にとって少女を救うことが第一優先となっているのである。
しかし彼が少女のもとに駆けつけたとき、すでに少女の体は触手に捕らえられ、救出するのが困難な状況にあった。
無我夢中で触手を引っ剥がそうとする少年だが、それを拒むかのように黒い沼から新たな触手が次々と生まれ、それらは少女を引っ張るとともに少年にも絡みつく。
一見すると軟らかそうな触手だが、実際はロープのように硬く、千切ったり振りほどいたりするのは不可能に近い。
そして、触手はただ頑丈なだけではない。本当に厄介なのはその怪力だった。
人間の力では到底抗えない強烈な力、それにより二人の体はまるでクレーンにでも持ち上げられたみたいに軽々と宙を舞う。
そのまま触手に手繰り寄せられるように大きく弧を描き、ゼリーのように柔らかく、氷のように冷えきった黒い沼の中へと放り込まれた。
沼の中では手も足も動かせず、掴めるものは黒いゼリーのような物質だけ。本来なら少年は潔く死を覚悟するしかない。そう、本来ならば……
ここで再び少年の頭の中に声が響く。
──助けて、誰か──
少女はいまだに気を失ったままだが、それでも少年には確かに声が聞こえた。かすれるような声、悲しみに打ちひしがれた少女の心の叫びが。
次の瞬間、少年は肉体の限界を遥かに超えた力で、黒い沼を掻き分けながら少女の肉体に絡みつく触手を根こそぎ引き千切っていく。
荒々しく鷲掴みしては握力だけで砕き、切断し、それを少女が解放されるまで繰り返す。
そして脱力しきった少女の体を持ち上げると、黒い沼からできるだけ遠い場所に向かってぞんざいに投げた。
少女は宙を舞ったのち、硬いアスファルトにお尻を打ちつけ、その衝撃で目を覚ます。
一方で少年は氷のように冷えた黒い沼により体力を奪われ、身を任せるように無抵抗に沈んでいく。
そして、少女の無事を祈りながら、少年の意識は次第に遠のいていった。
◆
日本の某所に月見ヶ丘町というニュータウンが築かれた。
そこは緩やかな丘の斜面に沿って階段状に作られた緑あふれる町で、坂道ゆえに車通りも少なく空気がとても澄んでいる。
また、住人たちは施設されたモノレールによって麓から頂上まで行き来が可能なため、交通の便も悪くはない。
普通なら誰もが憧れる近代都市なのだが、この少年──月読御言はそうではなかった。
御言は月見ヶ丘町の人間だが、彼にとって興味があったのは月見ヶ丘町ではなく、その麓に隣接するように存在する二十日町という廃虚の都市だった。
二十日町は御言が以前住んでいた町で、現在では立入禁止区域となっている。
その理由は数か月前に起きた現象──≪境界≫によって住人たちの記憶が消えたことに関係していると言われているが、実際のところ立入禁止の理由は公表されていない。
二十日町──またの名を幽霊都市。単にゴーストタウンや廃虚と呼ぶにはあまりにも規模が大きすぎるため、人々は自然とそう呼ぶようになった。
幽霊都市には化け物が巣食う。いつしかそんな噂まで流れ始めたが、御言にはそれが真実であると断言できてしまう。
なぜならば≪境界≫が発生した日に化け物の姿を直接見ているからだ。
おかげで彼はこの数か月間、ずっと不安を抱えていた。
現在も幽霊都市に化け物が存在しているとすれば、この月見ヶ丘も危ないのではないか。
だが、この月見ヶ丘町で化け物が目撃されたという情報は未だ存在しない。
御言は机の上に肘をつき、考え込むように顎を手で支えながら小さく呟く。
「なぜ化け物はあの町から出ようとしないんだ? それとも……」
ざわつく教室で一人、誰に聞かせるわけでもなく独り言を放つ。
今日は月見ヶ丘高校の開校日で、つい先ほど入学式が終わって教室に移動してきたばかりである。
にもかかわらず、教室で一人、御言だけは学校のことなどそっちのけで化け物のことばかりを考え、独り言まで発していた。
一言で表わすなら変人だ。
そんな彼を隣の席に座る女子生徒がじっと見ている。少し童顔だが子供っぽさを感じさせない雰囲気で、前髪や横髪の一部のクセ毛が少し目立つ女の子。
彼女は御言が漂わせる気鬱な雰囲気とは正反対に、これから始まる学園生活に期待し胸を躍らせているようなキラキラとした表情だった。
しかし、御言の顔を見た瞬間から彼女の態度は急変する。
どこか恥ずかしげに顔を赤らめ、御言におそるおそるか細い声で話しかけた。
「久しぶりだね、私のこと覚えてる?」
御言は先入観からか、話しかけられたのは自分ではないと思ったものの、念のためにその女子生徒のほうをチラっとだけ見る。
やはりその女子生徒は御言をまじまじと見ており、加えて彼にとって見覚えのある人物だった。
すぐに話しかけられたのが自分だとわかって、驚いたように返事をする御言。
「ああ! 覚えているよ、≪境界≫の日に会った人工呼吸の子だよな」
「う……うん」
躊躇いもなく言い放たれた御言の言葉に、女子生徒は周囲を横目で気にしながら顔をさらに赤面させる。
人工呼吸。
それはこの女子生徒にとって途轍もなく恥ずかしいエピソードを想起させるキーワードだった。
≪境界≫が発生したあの日、彼女はお尻を強打し、その痛みとともに意識が覚醒した。
場所は暗闇に包まれた二十日町の交差点、アスファルトにあいた巨大な穴のそば。
彼女には記憶がなく、自分の名前や過去の出来事を一切覚えていない。これは御言やほかの二十日町の住人とおおよそ同じ症状だ。
その状況下で特に混乱に陥ることなく、彼女は好奇心からアスファルトにあいた大穴に近づき、おもむろに中を覗く。
穴には黒い液体が蠢き、表面から植物のツタのように触手が伸びている。
それを見てなにか言葉にしようとした彼女だったが、そのとき起きた現象により発言の機会を失う。
先ほどまで真夜中のように──いや、それよりももっと深い暗闇で満たされていた町が、ほんの数秒で太陽の光がサンサンと降り注ぐ白昼へと変貌した。
そして、アスファルトにあいた大穴に満ちていた黒い液体は、まるで太陽の光で蒸発でもするかのように、歯擦音に近い音を立てながら黒い煙となって霧散していく。
やがて穴の中には二人の男女だけが残された。
一人は小学生くらいの見た目をした女の子で、もう一人が月読御言だ。
遠くからでは生きているかすらわからないため、彼女は慌てて穴の中に下りて二人のもとへと駆け寄った。
急ぎ手首を握って脈を測ってみたところ、小学生くらいの女の子は無事だったが、御言のほうは脈がない──と、彼女はそう思い込む。
実際には体が冷えていたことと、もとから血圧が低かったことなどが重なり、脈が測れない状態にあっただけである。
しかし、それを知る由もない彼女は心肺蘇生法によって御言を救おうと考えたわけだ。
別に命の危険に晒されているわけでもない御言の胸に手を当て、心臓マッサージを施し、次に人工呼吸によって心肺機能を回復させようと試みる。もちろん御言の心臓も肺も、弱ってはいたがちゃんと動いている。
だが、彼女は気づかない。
気づかないまま自分の唇を御言の口元へと近づけていく。
顔面を真っ赤にしながら徐々に距離を縮め、ついに唇同士が重ね合おうかというとき、寸前で御言が目を覚ます。
それは接吻するまさに一歩手前の状態。
彼女の顔は耳の頂点まで赤く火照ったように染まり、刹那、体が弾けるように後ろに向かって大きく仰け反った。
……というのが、御言の隣の席に座っているこの女子生徒にとって、思い出すだけで顔が真っ赤になってしまう恥ずかしいエピソードである。
しかし、いまは恥ずかしさよりも、数か月前に出会った御言と再会できたこと、そして自分のことを憶えていてくれたことに対する嬉しさのほうがまさっていた。
彼女は配られたばかりの生徒手帳を開き、自分の名前が記載されているページを見せ、はにかみながら嬉しそうに自己紹介をする。
「前に会ったときはお互いに名前も言えなかったね。これが私の名前、清水音羽だよ」
音羽に続き、御言も自分の持つ生徒手帳を開いた状態で見せる。
「俺は月読御言。よろしくな、清水」
「清水じゃなくて音羽でいいよ。よろしくね御言くん」
生徒手帳を見せ合いながら挨拶をする。そんなどこか奇妙な自己紹介を終えると、音羽は一つ気がかりを覚える。
それは月読御言という名前。彼女はその名前がどうしても気になった。
日本神話に登場する月讀命という神様まんまな名前であるせいなのか、それとも彼が記憶を失う以前のクラスメイトだからなのか。
このときの音羽には理由がわからず、思い出せそうで思い出せない。そんな感覚が心に残ったまま下校を迎えた。
帰宅した音羽はベッドに寝そべりながら携帯電話をいじっていた。
ちなみに現在彼女が使っている携帯電話は≪境界≫以前に使っていたものと同一のもの。つまり、記憶を失う前のメールのやり取りなんかもそのままデータとして残っている。
音羽はその携帯電話のアドレス帳を何気なく見ながら、御言の連絡先を聞いておくべきだったと後悔していた。
だが、その最中でふと見つけてしまう。
すでに月読御言は彼女のアドレス帳に登録されていたのだ。
音羽は彼の名前を見たときに既視感を覚えていたが、どうやらそれは思い過ごしではなかったらしい。
メールボックスの中には御言とのやり取りもあり、音羽はそれを一つ一つ確認していく。
内容は読めば読むほど恥ずかしいもので、思わず毛布に包まらずにはいられないほど。
そして下の階にいる母親に丸聞こえなのではないかと思えるほど声を張り上げて、
「え? これ、どういうこと? そういう関係なの私たち?」
さらに過去の分まで遡ってメールを漏れのないように見ていく。
その内容はもはや人工呼吸のエピソードなど目じゃなく、記憶を失う前に音羽が書いたと思われる恥ずかしい文面がひたすら綴られていた。
音羽は記憶を失う前の自分の積極さに感心したあと、小さく声を漏らす。
「明日からどう接したらいいんだろう……」
その日の夜、彼女が寝つけなかったのは言うまでもないだろう。