浄玻璃の鏡
「予定より早かったですね」
男のやけに単調な声が聞こえた。
何かがズボンのポケットの中で蠢く。
「何やってるんですか?」
「何か菓子でも持ってないかって探してるんだよ」
「相変わらず甘い物好きですね。でも。あなたにそれをもらう権利はないはずですが」
「なんでだ?」
そばで、二人の男が話している。
「なんでって、一応この人の物ですし……だいたい僕たち食べなくてもやっていけますから」
「確か、三途の川の通行料として六文取っていいんだろ?こいつはここに直行して来たわけだけど」
「それはずいぶん昔の話ですよ。
今は保険が掛かっていて、現世にいる内に六文分徴収しているんです。もちろん偶然を装って小銭を落とさせたり、貯金箱の中から少々もらったりして、ばれないようにしていますよ。人に知らぬ内に六文分の損をさせているってわけです」
小松は目を開けたが、辺りがぼやけてよく見えない。辛うじて分かるのは、辺りが真っ白な色をしていることだけだ。頭が痺れるように痛かった。
「ちなみに、一文は現世のインターネット〝ヤホー〟で調べた結果、今の通貨だと三十円から五十円らしいので、六文は百八十円から三百円ですね」
「曖昧な調査の上、微妙な金額だな。いっそのこと、そんな手間のかかる徴収しなくていいんじゃないのか?
そしてヤホーじゃなくてヤフーだ」
「何言ってるんですか、あれはヤホーです!ローマ字読みの表を見たんだから間違いありません!」
「ローマ字読みじゃないだろ・・・
だいたいそれなら〝インターネット〟もローマ字読みで読めよ」
「rとtの後に母音がないから変じゃないですか! そんなことも分からないんですか⁉
とにかくあれはヤホーです!」
「いや……違うって……
後、それ漫才のネタのパクリになってるし、あんまり連呼するなよ」
「パクリですって! 僕がそんな卑怯なことするとでも言いたいんですか⁉ 失礼にも程がある!
僕はずっと全うに仕事をこなしています。いつだって大真面目です‼」
聞こえる声は、音程が高く耳障りだった。束の間、沈黙が場を包む。
「―――ある意味、大真面目であることの方が問題あると思うが。
ああ、もういいよ。面倒くさいから。ヤホーでいいし、あんたは仕事熱心でえらいえらい」
ゆっくりと乾いたような拍手の音がする。
「いや……それほどでも……」
きっと茶化されているだろうに、その男はずいぶんと照れた声を出した。
「さて……私たちが油売ってる間にお目覚めのようだね」
「……そのようですね」
照れていた声が引き締まり、そう呟いた後には溜息が聞こえた。
「溜息ついたら、幸せが逃げるらしいぞ」
鼻で笑った声が聞こえる。
「あなたと一緒にいて幸せを望むことの方が、馬鹿げていると思いますがね」
「……まあ、それもそうだな」
ぼやけた視界がしだいにはっきりしてきた。同時に頭の痛みが激しくなり顔を顰める。
「おはようさん」
「おはようございます、えーっと、小松伍郎さん」
目の前には二人の男がいた。一人は何かの段差に片膝をついて座り、不気味な笑みを浮かべている。服装は真っ黒なスーツを着て皺ひとつない。もう一人はスーツの男の横に立っていて、真っ白な布のようなものを羽織っていた。身長は中学生程度で眼鏡をかけ、手元には分厚い本があった。
「あんたら……何者だ」
小松はやっとの思いで声を出す。声はやけに擦れて震えていた。
「何者なんだ?」
スーツの男が首を傾げて隣を向いた。
「そうですね、番人もしくは審判者ってところでしょうか」
白装束の男が答える。
「まあ、とりあえず私には藤木要って名前があるよ」
スーツの男が笑みを浮かべたまま名乗った。
「僕は白夢です」
白装束の男も名乗る。
「ここは……一体……」
「ああ、そうだった言い忘れてたよ」
藤木要が立ち上がる。
「ようこそ、死後の世界へ」
まるでこの立方体の部屋の中のように、小松の頭の中は真っ白に染まっていった。
死後の世界?ここが?
「混乱しちゃってますよ」
「なんだよ、見事に死んでたくせに」
「・・・」
小松は言葉に詰まる。
「三途の・・・川は?奪衣婆は?閻魔大王はどうしたんだ?」
藤木要が声を出して笑い出す。
「なんか仏教徒らしいぞ。今時珍しく信心深い」
藤木要が小松の周りを一周歩いていく。白夢は眼鏡を中指で直した。
「三途の川と奪衣婆はあなたの場合パスしたんです」
「どういう……意味だ?」
「だって、罪名が明確ですから」
ザイメイ? 私は罪に問われているということか。
体を動かそうとして自由が利かないことに気付く。見ると両手は天井に向かって手錠でつながれ、足は鎖で縛られていた。
「だからさ。ここは死後の世界は死後の世界でも、君たちで言うところの〝地獄〟なんだよ」
「……地獄……」
小松は唖然とする他なかった。
案外綺麗なところだろ? と言って藤木要は不気味に笑う。
「ほら、死者なんていっぱいいるじゃないか。死後の世界も効率化を図ってね、罪名の明確なものはちゃっちゃと地獄に直行させることになっているわけ」
「私の……罪名は……」
「殺人ですね」
白夢が無表情で小松の顔を見つめる。
「余計なことをしてくれたもんだ」
「ホント、人間という生きモノはつくづく呆れてしまいますね」
白夢は溜息をつく。
「ちなみに閻魔のじじいはこのところさぼってばっかなんだよ」
「違いますよ!」
白夢が眉間に皺を寄せる。
「仮にも上司なんだから敬ってください」
「どう考えてもサボっているとしか思えないけどな」
藤木要は小指を耳に突っこむ。
「閻魔様は現世の――日本の裁判制度で言うと最高裁判所の裁判長に当たる人物です。もっと前例のない事象や、〝裁き〟の総括をやっておられます。だから、こういった平凡な〝裁き〟でお目にかかることがないだけです」
白夢が小松に対して説明する。
「あなたは元々無所属だったからって、閻魔様を軽んじすぎです」
白夢は藤木要を睨んだ。
「はいはい、じじいがサボってるのも〝裁き〟の円滑化のためなんでしょ」
白夢は藤木要の態度に半分諦めたように肩を竦めた。
「私の罪というのは……つまり生駒尚雄を殺したことなんだな……」
小松は目の前の事態を把握しようと、声に出して確認する。そうでないと、思考が現実に、いやあるいは幻想に追いつかなかった。
「ええ」
白夢は答える。
「ハハ……」
小松はそれを聞くと、思わず笑い出していた。
「何が可笑しいんですか?」
白夢の質問と共に、藤木要が小松のことを睨み付ける。
「……あの男はちゃんと死んだんだな」
「ああ、確かに死んだ」
背後から聞こえた藤木要の声は冷たい。
「だがお前は、〝死んだ〟ということをちゃんと理解していない」
小松の顔は笑みで歪んで戻らない。
「……別に私はどんな罰を受けたって構わないさ。後悔なんてしていない。生駒尚雄を、あの殺人鬼を殺したことを」
対峙していた白夢の口元に、初めて笑みが浮かぶ。
「〝どんな罰を受けてもいい〟なんて、軽はずみに言っちゃだめですよ」
そう言い終えると、ゆっくりと小松の方に近づいて来た。
そして左手を小松の両目に当てると、そのまま背後まで歩いていく。
白夢の手が離れたとき、目の前に広がる風景が変わっていた。
女の人がいた。顔は俯いていて分からない。
彼女は壁を背にして、小松と同様に体を拘束されていた。
「おーい、顔上げなよ。きっと会いたかった人が来てくれているんだから」
藤木要が小松の頭で頬杖付きながら言った。
彼女は恐る恐る顔を上げる。
小松は、自分はまた死んでしまうのではないかと思えるほど驚いた。
「とも……み、智美なのか?」
彼女―――智美は、真っ白なワンピースを着ていた。この白い部屋と同じ色。今にも部屋に飲み込まれてしまいそうな純白。
智美は何かを必死に叫んだ。けれど小松の耳には届かない。
小松と智美の間には何か薄いガラスのようなものがあった。決して相容れない隔たりが存在した。
「智美! 智美!」
小松は何度も叫んでいた。
「もう。私はどうなったっていい。自分がどうなろうと、何も感じない」
耳元で白夢が囁く。その声は小松の体に沈んでいく。
「あなたが生駒尚雄に言った言葉です。
そう、あなた自身に罰を与えたって意味がない。あなたは決して自分の過ちを悔い改める日はやって来ない。
じゃあ、あなたの大切な人が傷ついたらどうなるんでしょうね?」
小松は驚愕の眼差しで白夢の顔を見た。
「何言ってるんだ、娘は関係ない」
「関係ない? だってあなたは智美さんのために復讐したんでしょ? 原因は彼女にある」
「バカな! それだって生駒尚雄が智美を殺したからだ」
白夢は無言で、今度は右手を小松の両目に当てる。
手が外れた時、見覚えのある背中がそこにはあった。
「お前は死後の世界ってものを信じていた。仏壇に向かって元気にやっているか? 向こうで平穏に暮らしているか? と心の中で訊いてしまうくらい」
藤木要が小松の目の前に出てくる。
「分からないな。どうして死後の世界を信じておきながら、復讐なんてできるんだ?」
小松は藤木要の声に意識が向かなかった。先ほど突如として現れた背中に目が釘付けになっていたのだ。
「怖くはないのか?」
その人物は図ったように後ろを振り向く。
「復讐に復讐されてしまったらどうしようかって」
その顔は笑っていた。とても醜く歪んで。
彼は、小松の殺した生駒尚雄だった。
「どうして……」
「何を疑問に思うことがある? あいつを殺したのはお前じゃないか」
小松の思考は、完全に停止してしまった。
「本当に人間ってものは矛盾している。お前は娘のことを大事に思っていたはずなのに。
〝死んだ〟ってことは生駒尚雄もお前と同じ状況になっているってことだろ? 同じ死後の世界に存在しているってことだろ?」
藤木要がほくそ笑む。
「なあ、憎い人間をわざわざ同じ世界に連れてこなくてもいいんじゃないのか?」
藤木要は声を立てて笑い出す。
「少しくらい考えなかったのか? 死んだ生駒尚雄が娘と鉢合わせしたらどうしよう、とか。
生駒尚雄はお前のことを恨んでいる。
もし娘に会ったら、復讐してしまいたくなったっておかしくはないだろ?
何より娘は会いたくないだろうにね、自分を殺した男なんかには。死後の世界で平穏に暮らせるわけないだろ?」
生駒尚雄の手には鉄パイプが握られていた。
「……あの男は……何をしようとしているんだ」
「もちろん、復讐だよ」
「やめろ!」
智美に生駒尚雄に小松の声は届かない。生駒尚雄が一歩一歩前進して行く。
「なぜだ! あの男だって智美を殺したんだ。どうしてあの男には罰がない!」
「大丈夫ですよ。生駒尚雄もこの後あなたと同等の苦しみを味わうことになっていますから。
ここは、あなたが望んだように平等な世界なんです」
「平等⁉どこがだ。
私にはちゃんと生駒尚雄を殺す理由があった。でも、あいつは何の理由も因縁もなく智美を殺したんだ。あいつの方が重罪じゃないか」
白夢が横から顔を覗かせる。
「僕たちは人間じゃありませんから、そういった感情の主観に捕らわれることがないんです。人を殺したなら、ただその事実があって、その報復を与えなければならない。
感情も主観も含まない平等なんて案外こんなものですよ
それに……」
白夢はそこで言葉を切って、顔を不気味に歪める。
「あなたの生駒尚雄を殺した理由って、ただの自己満足でしょ?」
藤木要が、また段差に腰を下ろして頬杖を付く。
「人間は一体、死んだらどうなると思っているんだ? 全てリセットできるとでも? 生きていようが死んでいようが自分は自分でしかないだろう」
藤木要は言葉を切ると、不気味な笑みを浮かべた。
「最近ここに来たので面白かったのは一家心中した父親だな。家族全員にリンチされて、幽閉された。
まったくお前と同じでバカだったよ。
死んだからって全ての柵から解放されるわけじゃない」
〝一家心中父親が放火か〟朝刊の見出しが頭を過った。小松は歯を食いしばる。
「許せばよかったというのか」
藤木要は静かに小松のことを見つめた。
「娘を殺したあの男を許せばよかったというのか」
「それが仏になる道であり、白夢の望む極地だろうな」
藤木要は立ち上がり、小松の顎を持つ。
「だが私は別にそんなことは思わない。恨んだって別にいいんだよ。生きながらにして苦しめる方法なんて沢山あるんだからな」
藤木要の顔が醜く歪む。
「お前はずいぶんと平等な世界に拘っていたようだが、平等な世界だと、平等な罰しか与えることができないんだよ。
むしろ不平等を利用すべきだ。
うまくいけば、この上なく規格外の罰を与えることができるんだから」
復讐の仕方を間違えたんだよ、と藤木要は笑った。
藤木要が背後に戻ると、生駒尚雄が智美の前に立ちふさがっていた。
やめろ
小松は叫ぶ。しかし声が届くことはない。
生駒尚雄は鉄パイプを上に振りかざす。
やめろ、やめろ。智美、逃げてくれ!
鉄パイプは何度も、何度も智美を殴った。小松の声は向こうには届かないのに、その殴っている鈍い音は、智美の悲鳴はこちらに響き渡る。
「ここでは死ぬことができませんから、娘さんはずっと痛みを感じ苦しみ続けることになります」
白夢が抑揚のない声で説明する。
赤い血が見えた。智美の顔は原型を留めないほど、傷だらけになっていく。私が必死になって守ろうとしていたものが、私のせいで壊れていく。
「もう、やめてくれ」
小松はしまいには涙を流して懇願していた。
生駒尚雄が肩を上下させながら止まる。そして後ろの小松の方に振り向いた。
その目にはなんの光も宿っていなかった。自責の念も人を痛め付ける快楽も、そこにはない。
ただただ真っ黒なだけ。憎しみに支配された心だけ。
「浄玻璃の鏡は知っているか?」
背後から藤木要の声が届く。
「閻魔のじじいの持っている鏡だ。死者の生前の一挙手一投足が映し出すものらしいな。
これは全てじゃないが、お前の姿だと思うぞ。悪いところばかり見せるのはそれこそ不公平なのかもしれないが、あれは、お前が生駒尚雄を殺したときの姿にソックリだ」
小松は叫ぶことも忘れて、前の生駒尚雄の姿を見る。
復讐に魅入られ、何も見えなくなっている姿。
他人の痛みを思いやることを忘れた欠落した心。
怖いというよりも、あまりに憐れに思えた。
奴は私が苦しめば苦しむほど嬉しいのだ。
なんと醜い感情。なんて憐れな目的。
「あなたも同じだったんですよ」
白夢が追い打ちをかけるように囁く。
「やめてくれ」
小松は泣き叫ぶ。
「許してくれ、お願いだから、悔い改めるから、智美を智美を助けてくれ」
誰もその叫びを聞き入れるものはいない。
小松の視界がどんどん狭くなっていく。
智美も生駒尚雄もいなくなる。背後にいたはずの藤木要も白夢も消えていなくなった。
白がどんどん近づいてくる。
立方体のその部屋は、立方体の形を保ったままで、小松のことを押しつぶす。
小松は空っぽになった。恐怖などない、なぜなら頭の中も真っ白だったから。
そこはもう、何もかも書き直そうとしているかのように、白でしかなかった




