生駒尚雄
「おい!」
生駒尚雄は叫んだ。その声はアスファルトの壁に反響する。ここは現在使われていない工場の中だった。
生駒はポケットに両手を突っ込み、舌打ちする。
「ったく、彭の奴呼び出しといていないってどういうことだよ」
生駒はそばにあったパイプイスを蹴った。錆びついたパイプイスは音を立てて倒れる。工場の中は物置と化しているようで、鉄パイプは山積みにされ、奥には用途不明の機械が所狭しと並べられていた。
生駒は暗い工場の中を何の気なしに進んで行く。
彭からメールがあったのは夕方だった。彭は生駒と違って高校に進学している真っ当な学生だ。どうやら学校帰りにメールして来たらしい。
「保護観察中だってのに、何なんだよ」
生駒は人を殺していた。そのせいで以前よりも自由の利かない生活を強いられている。
ずいぶんと災難な目に遭っていると思う。
だって、一発殴っただけで死んでしまうなんて、予想できるかよ。
あの女、勝手に死にやがってむなくそ悪い。
彭は生駒の中学時代からの悪友だ。今日はこの鬱憤を晴らせるかと思って会いに来たのに、呼び出した彭が居やしない。
親に見つからないように出てくるのが、どんだけ大変だったか分かってるのかよ。
生駒は心の中でそう毒づいていた。不貞腐れてその場に腰を下ろす。日はとうの昔に沈んでいた。口元が寂しくて自然とポケットの中を探るが、没収されたタバコはもちろんそこにはない。生駒はここに来る前に買っておけばよかったと後悔した。
「コツ……コツ」
しばらく貧乏ゆすりしながら待っていると、足音が聞こえてきた。生駒は溜息混じりに立ち上がる。
「遅いぞ、呼び出したのはそっちだろうが!」
生駒が叫び声を上げると、足音はピタッと止まった。足音の先は暗くてよく見えない。闇と静寂が化学反応を起こすと、どうも落ち着かなかった。生駒は無言の相手にイライラし始める。
「なんとか言ったらどうなんだよ、彭!」
なおも相手は反応を示さなかった。
「……だいたい、なんでこんな工場に呼び出すんだよ。携帯で検索かけてもここの場所、出てこなかったぞ。おかげで道歩いてたくそじじいに訊く羽目になっただろうが」
「コツ…………コツ…………コツ」
足音がさっきよりもゆっくりと動く。生駒は動悸を覚えていた。言いようのない恐怖が体を駆け巡る。
ホントにこの足音は・・・彭か?
当然、閃光のごとく光が降り注いだ。どうやらこの工場はまだ電気系統がつながっていたようだ。足音の人物がスイッチを付けたらしい。
生駒は咄嗟に右手を翳す。光が痛くて目が開けられなかった。
「コツ…………コツ」
足音がまた響く。そう言えば彭の穿く靴はこんな音がするだろうか? アイツが穿くのは決まってスニーカーだ。こんな革靴が大理石踏みしめるような音がするとは思えない・・・
生駒は恐る恐る目を開けた。
工場の様子がしだいにはっきり瞳に浮かび上がる。
「誰だよ、お前」
生駒は怒るよりは、どこか唖然としながら呟いていた。
「そうだよな。お前は私の顔さえ知らないんだ」
目の前に立つ男は、鼻で笑ってそう言った。
知らないおっさんだった。髪の毛は殆ど白髪で、目はくぼんでいる。しかし、白髪程歳を取っているようには見えない。体格は中肉中背で生駒より背が少し高い。スーツを着ているがヨレヨレで、ネクタイはしていなかった。両手をスーツのポケットに突っ込んでいる。
不気味だった。彼の目の中には生きている人間なら持っているはずの光がないのだ。目の中が真っ黒なのだ。
「……お前、誰なんだよ! 彭はどうしたんだ!」
生駒は今度こそ怒気を含めて叫んだ。
おっさんはスーツのポケットから左手を掲げ、一台の青い携帯を見せる。
―――――それは彭の物だった。
「……なんで彭の携帯をおっさんが持ってるんだよ」
「……脅し取ったんだ」
「はぁ?何言ってるわけ?」
生駒は先程このおっさんがやったように鼻で笑ってやった。彭がこんなおっさんの脅しで屈するはずがない。どう見たって、このおっさんの腕っぷしは弱そうだ。彭なら三分もかけずに捻りつぶせる。
「コンビニにたむろしていたあんたの友達を脅して、あんたにメールさせたんだよ」
「彭がなんであんたみたいなヘナチョコもやしに屈するわけ?」
生駒は身振りを交えて嘲笑う。
おっさんの口元が、それに呼応するように上がっていく。
「アハハハハ」
おっさんは低い声で笑い出した。生駒は驚くと同時に薄気味悪くて眉を顰める。その笑いに感情は籠っていなかった。
「簡単な話だ。あんたたちがどうしようもないぐずだからだよ」
おっさんは止まらぬ笑いを押し殺しながら言った。
「アァ? なんだと!もう一遍言ってみろ!」
「ああ、何度だって言ってやるさ。あんたたちはぐずだ、社会のごみだ、いなくなっても困りゃしない。むしろいなくなってくれた方が喜ばれる、そんな存在なんだよ」
「てめぇ」
生駒は、この生意気なおっさんに歩み寄ろうとした。
「やめた方がいい」
生駒は、このおっさんの静止を聞き入れなかった。
一心に睨み付けにじり寄る。
「バン」
この音を生駒は知っていた。頭では認識できているのに、うまく目の前の現実に結び付けられない。
だってこの音は、もっと遠くから聞こえてこなければならない。テレビのスピーカーから、鳴り響くものでなければならない。
こんな間近で聞くものじゃない。
おっさんはポケットに突っこんでいた右手を頭上に掲げ、軽くよろめきながらも立っていた。
右手の先にあったのは真っ黒な拳銃だ。
「なあ、知っているか?」
唖然としている生駒の前でおっさんは不適に笑う。
「ぐずってのは絶対的力の前で、ただ跪くことしかできないんだよ」
おっさんはゆっくりと銃口を生駒に向けた。生駒は固まって動けない。
「おい、生駒尚雄。よく見ろ。私の顔に見覚えはあるか」
「知らねぇよ・・・あんたなんか!」
考えるよりも先に声が出る。
「小松智美という名前を、分からないとは言わせないぞ」
おっさんの声がひどく冷たく冷淡なものになる。まるで内にある怒りを無理矢理押しこめているような。
冷や汗が額に溜まる。小松智美―――生駒の殺した女の名前。
「……てめぇ、あの女と何の関係があるんだ」
「父親だよ。法廷でも会っているはずだ」
「……父親……だと」
おっさんが近づいてくるが、生駒は動けなかった。
「彭もその拳銃で脅したのか?」
「ああ」
「なんだよ、復讐しに来たってか?」
生駒は無理に笑って言った。
「意外だな。もっとバカだと思っていたよ・・・その通り、私は君を殺しに来た」
「あの事件は、ちゃんと片が付いているはずだろうが!」
恐怖がイライラを肥大させる。おっさんの拳銃を握る力が強くなった。
「あれで終わらせろっていうのか? 面と向かって謝罪もしないような人間を許せと?」
生駒はおっさんの気迫に後ずさった。
「それがこの国の法律だろ?大人なら受け入れろよ。いいのか? オレを殺したら、あんたは犯罪者になるんだぞ?」
生駒は、それでも中傷の笑みを浮かべる。どうせこの大人には人を殺せる度胸はないと思っていた。
「いいんだよ、もう。私はどうなったっていい。自分がどうなろうと、何も感じない」
虚ろな目が生駒を捕える。
「生駒尚雄、世界はな、平等でなければならないのだよ。智美が奪われた幸せは、お前も奪われるべきなんだ」
おっさんの右の人差し指が動く。
生駒は本能的にアスファルトを蹴った。
「バン」
「待ちやがれ!」
おっさんが奇声にも似た叫び声を上げる。拳銃の弾は逸れていた。
生駒は一心に工場の奥に走っていく。
なぜだ、と思った。
なぜこんなにもついてないんだ、と。
ホント、ここまで来ると笑えてくる。
もっと悪いことをやっている人間はいっぱいいるはずだろ?
人を殺すかもしれない暴力や過失を犯している人間は、いっぱいるはずだろ?
大人になって「昔はワルだったんだ」とか自慢げに話す人間は、どこにだっているんじゃないか。
そいつらは、たまたま人を殺してないだけなんだ。
バレてないだけなんだ。
オレはたまたま〝偶然〟ってやつに蹴躓いて、人を殺してしまっただけなのに。
人を殺そうと思って、〝社会〟から背を向けて生きていたわけではないのに。
オレは同胞たちから選ばれた、犠牲者ってわけだ。
それとも反面教師としての判例か?
〝面と向かって謝罪もしないような人間を許せと?〟
生駒は先ほどのおっさんの言葉を思い出し鼻で笑う。
面と向かって謝罪したって許すことなんかないくせに。
むしろムカつくんじゃないのか?
これで終わらせてくれと言っているようで。
謝るんだから許せと高慢な態度を取られているようで。
悪いのはオレだから。
被害者にとってオレは、同じ人間ではなく悪者なんだから。
何やったって憎しみしか生まないじゃないか。
だから、あんたに会わなかったし、会えなかったんだよ。
「バン、バン」
おっさんが所構わず撃ってくる。おっさんはどちらかというと拳銃に翻弄されていた。素人の撃つ弾は決して命中率が高いとは言えない。
いつの間にか、目の前にアスファルトの壁が立ちふさがる。今さらながら工場の奥に進んだことを後悔した。呼吸がまともにできないほど息が上がっている。
「終わりだ」
おっさんも息を切らしながら言った。
「バン」
最後に放たれた弾は、皮肉にも生駒の頭に真っ直ぐ向いていた。
生駒の目には、それがスローモーションで近づいてくる。銃声はエコーがかっていて、今まで感じていた恐怖はどこかに消えていた。
死ぬんだ、と思った。
これでオレの短い人生は終わるのだ、と。
生駒は最後に、自分を殺す殺人鬼の顔を見つめた。
殺人鬼は嬉しそうというよりは、どこか疲れたような、ほっとしたような顔をしている。
この男に、オレの命を奪う権利はあるのだろうか?
頭に過った考えが憎悪となって心を支配していく。
もしも世界が平等だと言うのなら、この男はどうなるんだよ。
憎い。ああ、憎い。
壁が血で染まり、生駒は倒れ込む。
そして決してもう二度と、動くことはなかった。
―――――
目の前には生駒尚雄の無様な死体があった。
終わったんだ。
小松は肩を上下させながら、激しく呼吸を繰り返す。
これでいい。これでいいんだ。
「ハハ……」
小松は無理して笑った。笑わなければ、自分のやったことを否定してしまう。自分のやったことが喜びだと感じられなくなる。
小松は拳銃をその場に落としていた。
「ガタ」
妙な音に顔を上げた。
これは…………
「ガタガタガタ」
横から鉄パイプが迫ってきていた。拳銃で乱射した弾が当たってバランスを崩していたのだ。
鉄パイプは雪崩のように小松に襲いかかる。
もしかして、このまま死んでしまうんだろうか?
鉄パイプは小松の頭に向かっていた。
ああ、もし死ぬんだったら、
私の人生に悔いはない。
鉄パイプが何度となく小松の頭に当たると、小松の意識は完全に無くなった。
二つの死体は、夜の静けさに埋もれていく。




