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白い部屋  作者: 晨暉悠翔
2/5

小松伍郎

まただ。また、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。しかも三十分も前に。

 小松伍郎はしばらく仰向けのまま天井を眺めていたが、耐えきれなくなって体を起こす。

 心臓の鼓動が速いと感じるのは、おそらく気のせいではないのだろう。

 なぜなら今日は「決行の日」なのだから―――

 横を向く。妻はいつものようにそこにはいなかった。汚れ一つない布団が綺麗に畳んで置いてある。

 もう妻には早起きする理由などないはずなのに。

「チロリン」

 携帯の着信音が鳴った。これはメールの音だ。小松は枕元に置いていた携帯を手の上に載せ、じっと眺める。

〝お父さん、その携帯いつまで使ってるの? そろそろ買い換えたら?″

〝いいんだよ。たいして使わないんだから″

 こんな会話をしたのは一体いつのことだったろうか。

 小松は礼儀正しく折りたたまれた携帯を開いた。携帯の色は特にこだわりがなかったので、この機種のノーマルカラーのシルバー色だ。

 メールボックスには、もちろん未読のメールが一通あった。件名は空欄である。

『ご注文の品、昨日発送致しました。』

 本文を開くと短くそう書いてあった。

 小松は見知らぬメールアドレスからの〝通知″を閉じると、大きく息を吐く。

 今の小松の気持ちはまるで心の中で安堵と緊張がぐるぐると掻き混ぜられたようなものだった。

 こうなっては眼が冴えて、もう一度眠れるはずもない。

 小松はその場に立ち上がる。立ち上がってみると肩の重さや、体のだるさがやけに際立って感じられた。これを歳のせいだと片付けるには、まだまだ自分は若かったはずだ。


 早く終わらせなければならない。

 いや終わりなど、きっと存在しないのだろう。

 けれど、区切りが付けられる。

 その後、何度なく苦しみが繰り返されようとも、

 今よりは何十倍もマシなはずだ。


 寝室の襖を開けると、卵の甘い匂いがする。以前は食欲を誘ったその匂いも、今となっては苦痛以外の何ものでもなかった。

「万紗子」

 小松は妻の名前を呼ぶ。

「あら、あなた。今日はずいぶんと起きるのが早かったんですね」

 万紗子は長方形型のフライパンで卵焼きを作りながら、振り向き様に笑顔を見せた。その顔はひどくやつれていて、目の下には隈がある。

「万紗子」

「ねぇあなた。ついでに智美起こしてくれませんか?あの子ったらソフト部の朝練があるのにまだ寝ているんですよ」

「万紗子」

 卵焼きが巻尺にのせられる。

「智美! 智美、早く起きないと遅れるわよ」

 万紗子は二階に上がる階段の下で叫んだ。

「万紗子」

「変ね。降りてこないわ。まさかもう出て行ったのかしら?弁当忘れるなんてあの子らしくない」

「いいかげんにするんだ、万紗子!」

 小松の怒声に、万紗子は大きく体を震わせた。彼女の時間は一瞬にして凍りつき、その場に崩れ落ちる。目の中にあったほんの少しの生気は、黒く濁ってしまった。

「……ごめんなさい……」

 消え入りそうな声が壊れたラジカセのように繰り返される。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――――」

「万紗子―――」

 小松の声も消え入りそうなものに変わっていた。小松は妻のことを責め立てるつもりはなかったのだ。ただ、やるせない気持ちにイライラしてしまっただけなのだ。

 この茶番が見ていられなかっただけなのだ。

「万紗子……いいかげん、もうやめるんだ」

 万紗子はついには顔を覆い泣き出してしまう。そしてまた「ごめんなさい」と繰り返した。

 小松は、そんな妻の背中を優しく撫でてやることしかできない。

 世の中はなんて不平等にできているのだろう。

 私たちがこれ以上、何かを奪われる道理はないのだ。

 奪われなければならないのは、

 苦しまなければならないのは、

 アイツだ。

 小松の頭には、あの少年のほくそ笑む口元が浮かび上がっていた。

 小松の眼光が遠くを向いて鋭く光る。

 万紗子、大丈夫だ。

 きっとお前のつらさを、少しくらい楽にしてやれるはずだから―――

 万紗子は半ばフラフラしながら立ち上がった。「・・・朝ごはんにしますね……」そう力なく呟く。

 朝ごはんは、弁当の残りもので出来上がっている。

 万紗子は毎朝、毎朝、この弁当を作るために早起きしているのだ。


 もう、持って行ってくれる人のいない弁当を、毎日作っているのだ。


 朝ごはんを食べ終えると、万紗子はいつものように奥の部屋に消えていく。大事そうに、作った弁当箱を抱えながら・・・

 小松は万紗子がその部屋から出てくるのを待ってから、自分もその部屋の中に入って行った。

 この部屋に入ると、一瞬、これは夢の中なんじゃないかと疑いたくなる。万紗子もきっと、同じ思いなのだろう。

 あるいは現実よりも夢の中にいた方が、ずっと幸せなのかもしれない。

 小松はゆっくり前進すると、無造作に置いてある座布団に座り込んだ。

「智美……」

 智美は笑っていた。笑いながら小松のことを見つめている。

「とも……み………」

 小松は歯を食いしばり、娘の名を呼んだ。体を抱え込み、ひれ伏すように首を垂れる。

 その薄暗い部屋には、小松以外の人間はいなかった。


 世の中は、なんて不平等なのだろう。

 

 小松の座る前には、真っ黒な仏壇が存在していた。

 先ほどの弁当は、智美の笑った遺影の前に供えられている。

 小松はやっとの思いで顔を上げた。

 智美、なあ、元気にやっているか?

 向こうで平穏に暮らしているか?

 小松は何度も、心の中で問いかけた。

 そう、智美は死んだんだ。


 殺されたんだ。


 小松は右の拳を強く握りしめた。

〝お父さん″

 智美の笑顔が、あまりに鮮明に脳裏に蘇ってくる。

 思い出は、なんて綺麗にできているのだろう。

 現実は、なぜこうも荒んでしまっているのだろう。

〝お父さん、はい、誕生日プレゼント、いつもわがままばっかりだけど、これからもよろしくお願いします″

〝まったく、こういうときばっかり調子のいいやつだな″

〝いいじゃん、もらえるだけましでしょ″

 そう言った君が、なぜ冷たくなって帰って来なければならなかったのだろう。

 小松はポケットの中から携帯を取り出し、不細工なウサギを模したストラップを指でなぞった。

 これが、そのときの誕生日プレゼントだった。

〝お父さん″

 ああ、智美は高校三年生で、もうすぐ部活のソフトボールも引退して、大学受験に向けて当たり前のように勉強しているはずだった。

 なぜ智美だけ、当たり前から抜け落ちてしまったのだろう。

 なぜ智美には当たり前に人生を全うすることができないのだろう。

 もはや、小松には当たり前に笑っている、智美と同年代の子供たちさえも憎らしい。

 あまりに不平等じゃないか。

 あまりにひどいじゃないか。

 小松にはもう、どう泣けばいいのかさえ分からなくなっていた。

 

 智美を殺したのは十八歳の少年だ。

 同級生ではない。無職の、見知らぬ男。

 あの日、智美は塾に行って帰りが深夜になっていた。

 なぜ迎えに行かなかったのだ、と訊かれたら、小松には答える術がない。

 それは、揺るぎない日常であると信じていたから。

 学校に登校する自転車で、そのまま塾に行き、家まで帰ってくることが、絶対であると信じていたから。

〝お金をもらおうと思ったんです″

 裁判のとき、少年は悲痛な横顔でそう言った。

 少年犯罪は一般的に公開されない。しかし被害者遺族に対しては、程度によって裁判を傍聴することができる。小松は迷わず、その手続きを取った。

〝あなたは信号待ちしていた智美さんに襲いかかり、殴ったんですね″

〝はい″

 少年は俯き、ゆっくりと口を動かす。

〝前から、あそこの暗がりに潜んでいたんです・・・酔っぱらったおじさんとか脅してお金を取っていて・・友達とやっていた遊びだったんです″

 少年は言葉を切った。金髪の後ろ髪が妙に目につく。

〝そしたら、あんな深夜に女の子が一人で信号待ちしてて、それで……″

〝脅したんですね″

〝……はい″

 裁判官は顔を顰める。

〝けれど、殴る必要はなかったんじゃないですか?″

〝少し痛い目にあわせたら、言うことを聞くと思ったんです。そしたら……″

 少年は背中を曲げ震える。長い髪の隙間からピアスの穴が見えた。

〝まさか……一発殴って、地面に叩きつけられたくらいで死ぬなんて、思わなかったんです″

 誠実な言葉が連なり、しまいに彼は涙を見せた。

 法廷が同情という麻痺を起す。

〝殺すつもりなんて……殺すつもりなんてなかったんです″

 少年は泣きながら訴えた。

〝殺意はなかったんですか?″

〝……はい″

 少年は絶妙な間を空け、答えた。

 その後の裁判官の質問は、事件の内容とは程遠く、少年の生活や仕事に就けない理由など、少年のプライベートに移っていく。

 少年法は、少年を更生させるためにあるものだ。裁判官がむやみに少年を責め立てることは決してない。少年の生活、環境、性格、心理状態、過去、その全てを鑑みて、少年にとって最も良い結論を下す。

 法廷から聞こえる人の声が、段々と遠のいていく。

 小松には、少年法が何のために、誰のためにあるのか分からなかった。

 小松は無音の中に静かに座る。


 裁判長、知っていますか?

 娘は、ソフトボール部のエースだったんです。

 智美の投げる球は、見えないほど速かったんですよ。

 勉強はあまりできなくて、そのことで、よくケンカをしていました。

 ケンカが長引くと口も利いてくれなくて、ちょっと参ったな。

 テレビはお笑い番組が好きだったんです。よくテレビの前でゲラゲラ笑っていましたよ。

 智美は明るい性格なんです。つらいときでも笑っていられる性質(たち)でした。だから友達だってたくさんいたんですよ。

 彼氏?高校生でそんなのいませんよ。

 小さい頃は身長が低くて、泣き虫で近所の犬のいる家の前を怖がって通れなかったんです。

 あの時は本当にかわいかった。

 今じゃ、身長も私と殆ど同じで、憎たらしくなってね・・・。

 ねぇ、裁判長、あなたは智美が、初めて二本足で立った日のことを知っていますか?

 初めて「お父さん」と呼んでくれた日のことを知っていますか?

 なぜ、訊いてくれないんですか。

 智美のことを、

 智美の今までの人生を、

 どうして何も尋ねてはくれないんですか。

 訊いてくれたなら、いくらだって話せるのに。


〝判決を下します″

 無音の世界の中で、その声だけがやけに鮮明に響く。

〝被告人を保護観察処分とする″


 小松は虚ろなまま、判決理由を聞いた。

 その内に叫びだしてしまいたい衝動に駆られる。

 裁判長! あなたは何も知りはしないじゃないか。

 智美のことを、何も知らないじゃないか。

 知っていたなら、知ろうとしてくれたなら、絶対にそんな判決にはならないのに。

 ざわめきが耳まで届き、人々が次々と立ち去っていく。

 小松は例の少年を見た。いや、睨み付けたと言った方が正しい。法廷から出て行く彼を、決して逃すまいと目で追う。

 あれは、茶色の扉に姿を隠す直前のことだった。

 彼はきっと、気が緩んでしまったのだろう。

 小松は見逃さなかった。

 彼の口元が微かに上がったことを。

 彼は、笑っていたのだ。

 うまくいった、と言わんばかりにほくそ笑んでいたのだ。

 怒りが駆け巡ると、小松は最後には呆れてしまった。

 コイツは、人一人を殺しておきながら、なんの反省もしていないんだ。

 自分が助かろうと計算して、猫被っていたんだ。

 小松は法廷に一人取り残される。

「うわぁ、うあぁ」

 泣いていた。呻き声を上げながら。

 やるせない。どうしようもなく、やるせない。

 不平等じゃないか。

 あの少年は社会的に守られ、生き続け、いつかは幸せを掴むのか?

 智美の失った当たり前を、平然と手にできるのか?

 許さない。

 絶対に、許さない。

 

 なあ少年よ、知っているか?

 世界は平等でなければならないのだよ。


「ピンポーン」

 玄関のチャイムの音が鳴り響く。

「はい」

 万紗子の応対する声が聞こえた。

「宅配便です」

 宅配員の快活な声がここまで届く。

 小松は立ち上がった。今、小松を立たせているものは、あの少年に対する憎しみだけである。

 小松は急いで玄関に向かった。万紗子に荷物の中身を見られるわけにはいかないのだ。

 特に意識したわけではなかった。

 玄関に向かう途中、テーブルに置いてあった新聞の紙面がふと目に入る。

「一家心中、父親が放火か」

 小松は特に感想を持たなかった。いつもの悲惨な日常の切り取りであるとしか思わなかった。

「あなた、荷物ですよ」

「ああ、分かっている」

 万紗子から手渡されたそれは文庫本が十冊入るか入らないか程度の小包だ。

 万紗子が朝食の洗い物に戻るのを横目で確かめて、小松は寝室の中に入る。

 小包を畳の上に置くと、自分も座り込んだ。

 そして恐る恐る中身を開封する。人知れず動悸がした。

 中身のそれは、周りに敷き詰められた白い発砲スチロールに敵対するように、真っ黒な色をしていた。

「ハハ」

 小松は声を押し殺して笑う。

 愉快だった。この上なく愉快だった。

 小松は智美が死んでから、初めてまともに笑えた気がした。


 さあ、今日は「決行の日」だ。


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