3
あの日のことを書かなければならない。
高校二年の、夏休みが明けていた。
☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎ ☀︎
僕が目を覚ます頃には、もう父は出勤していて、階下に降りてまず目にするのは、狭いキッチンをくるくると立ち回る母の姿と、寝起きの悪い三つ違いの妹の、トイレと洗面所をのそのそと行き来する不機嫌な顔だった。
僕が大学に進み東京に出るまでの数年間、母は何かに付け”あや”は今反抗期だから........と、妹に手を焼いている風を装っていたが、少なくとも僕は一度も、妹が癇癪を起こしたり、家族を蔑ろにする現場に遭遇したことがなかった。
現に、僕たちは毎朝三人で食卓を囲んでいたし、食器を手際よく片すのも妹の仕事だったが、彼女はそんな日常を、ただ当たり前のようにこなしているように見えた。
今思えば、家族の中で一番利己的だったのは自分自身で、世界を白けさせたまま成長した僕に、彼女たちの些事はきっと聞き取れなかっただけなのだろう。
その朝、呼び鈴の音に玄関に出向いたのも妹だった。
「お兄ちゃん................来てるよ。
................合田さん........」
何度か家を訪ねていた水音を、父以外の家族は見知っていたが、登校前に僕を誰かが訪ねることは一度もなかった。
「今日、学校の創立記念日とかじゃないよねぇ?」
妹は、水音の様子が何だか変だと僕に告げた。
挨拶をしても一言も喋らないのだと言って、その違和感を溜めた瞳で、妹は僕の目を一瞬覗き込んだ。
食事を中断して二階に鞄を取りに行っている間、僕の心臓が妙に高鳴っていたのは、呼び鈴の鳴る直前まで、食事をしながら水音のことを考えていたからなのだろうか....。
それは、転校の前日に放課後の教室に現れた水音の、鮮やかなシュシュの水色だった。
妹はきっと、僕と同じものを見ていたんだろう。
「待たせちゃ悪いわよ?
上がってもらったら?」
それでも、呼び鈴が聞こえてから鳴り止むまでの刹那、それが水音の訪問だと僕に知らせていたものが何だったのか........
それは今も分からない。
「えぇ!?........汚れてるよ?」
「玄関でいいのよ........」
ドタバタと階下に降りた僕に、母は眉を顰めた。
「約束してるんだったら言ってくれないと........」
「え、あ、あやは?」
「今、追っ駆けてるけど........
バカだから外で待たせてたのよ」
「え?....帰ったの?」
「そんなはずないんだけど........
一分と経ってないでしょ?
直ぐに連れて戻るわよ」
水音はあの時きっと、僕にさよならを言いに来たのだろう。
その日を境に、僕の知っている水音は、何処かに消えてしまった。
あの日僕は、水音が私服姿だったことを告げた妹に、彼女の髪型や髪どめの色までは訊かなかったし、これまでに一度も問い質したことはない。
その恐ろしい胸騒ぎが後に現実となることを、もう一人の僕はその時、多分知っていたのだろう。
あの朝水音の身体は、病院の集中治療室で生死の境を彷徨っていたのだ。




