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水音は頁を開かずに本を膝に戻すと、深く首を項垂れた。
「どうかした?」
「待って!
見えるの........
わたし、自転車に乗ってる........
お願い........待って?」
水音の、囁くような”待って”は、横に居る僕や、彼女の遠い記憶に対してではなく、寧ろ水音自身の分身に、何かを伝えようと懇願する響きを孕んでいる。
こんな時、僕は決まって水音の冷たい手の甲に掌を添えた。
それから先はもう聞き取れない水音の呟きに、いつも僕は哀しい気持ちにさせられた。
水音にとっての僕が何者でもないように、彼女もまた、僕の手の届かない他人へといつか消え入るような不安に駆られるからだ。
人を愛するという真実でさえ、その記憶の連続性に確からしさを根ざしているとすれば、忘却とは”生”そのものを揺るがす呪縛には違いなかった。
僕がもし水音ように、今、記憶を無くしてしまったら、多分僕たちは、生涯関わることのない人生を送るのだろう。
僕たちは、まるでささやかな事故のように恋を受け止めたけれど、奇蹟の矢を放つ気まぐれな天使は、もう二度と僕たちを見つけてはくれないのだろう。
新横浜駅から岡山に向かう新幹線の車内で、僕は水音のトイレに付き添わなけれればならなかった。
彼女が閉所恐怖症というのではなく、水音に声を聴かせる者の正体は、酷く狭い場所を好んだからだ。
「約束する........
絶対に鍵は掛けないから」
「駄目だよ、決めたことは守らないと........」
「学校の先生みたい........」
僕は、トイレの鍵を内側から掛けられなくする細工を幾つか会得していた。
後は、水音が用を足し終えるまでドアの前で、その個室を守らなけれればならない。
新幹線の車輌のトイレを塞いで立つ大男が不審者扱いされないで過ごすことは案外難しかった。
ウィークデーということもあり乗客は比較的少なかったが、そこが空室を表示している以上、僕は自分を正当化する術を予め用意していなければならなかった。
「ゴメンね?メンド臭くて........」
眉を寄せて申し訳なさそうにそう言う時の水音の表情が、僕は今でも一番好きだ。
14才で出会ってからこれまでずっと、水音が僕を忘れてしまってからも、そこにはあの頃と少しも変わらない水音が息づいているように思えたからだ。
「全然................?」
そう言った後、僕たちはよく意味も無く笑ったものだ。
水音は、顔を見られるのが恥ずかしいからと言って、僕に窓際の指定席を辞退した。
櫛比するビル群はやがて開け、景色と呼べそうな地平線や遠く霞んだ山の稜線は、いつの間にか二人を無口にさせた。
車窓へと肩越しに抜ける水音の視線を残したまま、僕は二人が高校生だった頃のことを思い出していた。
僕たちは同じ高校に通った。
受かっていた名門の私立を蹴って入学した彼女に対し、その公立高校は僕にとって、難関の進学校だった。
水音は僕に、教科書に載らない色々なことを教えてくれた。
あれは、入学した一年目の秋だったか........
その日、彼女が僕の手を引いて音楽室に連れて行ったのには、何か理由があったのだろう。
彼女はピアノの前に僕を立たせると、迷わずに右から二番目の鍵盤を選んで「コン」と弦を叩いた。
あの時の、僕の目を覗く水音の切実な表情や、静まり返った教室に響くピアノの金属音は、その前後の脈略を今の僕に忘れさせている。
「これが水の音........
君島君にはそう聴こえない?
綺麗だと思わない?」
水音はそんなことを言ったと思う。
その時、どう返事したのかはもう思い出せないし、そんな水音の癇癪を、共通の思い出の中に笑い飛ばす機会も、今となってはもう失われてしまった。
あの悲しい音色が、静止した水面を弾く時の雫の声に酷似していることに気づかされた時には、水音はもう、僕の知らない人になっていたし、いつの間にか、僕も大人になっていた。
水音は明日、二十五才になる。
六月のある朝、彼女は産声を上げずに、僕に会うために“ここ”に連れて来られた。
画家だった彼女の父は、眠って生まれた彼女を一目見るなり、その場で”水音”と名付けたのだと言う。