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個人タクシーを手配してくれたのは崎さんだった。
丘の中腹に位置するサナトリウムから下界に下る為には、車は更にその丘の高みを目指して蛇行しなければならなかった。
水音は運転手に冷房を切らせると車窓を開け放ち、なま温い風を味わうようして目を細めた。
「よかったのに....バスでも」
「気にするなよ、僕が誘ったんだし」
「やっぱり二泊は無理だったんだ....」
「崎さんが懸け合ってくれたみたいなんだけど.....」
「いいの........
この前のことだってあるし。
それにこんなことで城都さんにも無理を言って.....」
水音は前に、東京から香川に向う途中の新幹線のトイレに立て籠もったことがある。
ドアが外側からこじ開けられた時、列車はもう福岡駅に着く寸前だった。
大事には至らなかったが、水音が統合失調症を患っている患者であることは明かされなければならなかったし、その病院名と主治医の名の開示は、兼ねてからの水音の懸案を今回の旅行へと先延ばしにしなければならなかった。
水音の声は明るかった。
「分かるの.........
信じてもらってないって........。
それは全然いいの、だから唯の旅行だと思って?」
「あれから僕なりに色々調べてみたんだ....」
「それってわたしのこと?」
「そう、君が君じゃなかったってことをさ........
最初は僕も俄かには信じられなかったよ.... ........
でも違ったんだ」
ルームミラーに映る運転手の視線を気にする僕に、水音が言葉を促す。
「いいから続けて?
それで、どうだったの?」
「あぁ.........
大学時代の友人にユングやフロイトに通じてる奴が居て、話してみたんだ........その........君が言うような証例....っていうか........ ....」
「で、なんて?」
「君の言う通りだったよ..............
でも、医者や科学者はそれを”前世”の記憶としては扱いたくないみたいなんだ」
「じゃあ、どう解釈してるの?
まさか捏造とか狂言とか..........」
「そうじゃないんだ....
日本は相当遅れてるから、まだそういうくくりでしか話されないけど、欧米ではかなり進んでて........
ほら、これなんだけど....」
本を手渡すと、水音はそのタイトルに目を輝かせた。
「もう三十年も前に書かれたものだけど、そいつはまず、これを読めってさ................」
「生まれ変わりの法則................
ホントだ、確かに進んでる」
「中には教わったことのない言語を急に話す子供や、行ったことのない町で土地勘を示した例まである。
水音が言ってた”小さい富士山”だけど、”飯野山”(いいのやま)じゃないかなぁ?
ネットで色々調べるうちに、三本線のセーラー服の学校も在ったんだ。
男女共学の普通科と音楽科からなる高校で.............
もしここだとすれば、突然君がピアノを弾き出したのも辻褄が合う。
僕の知っている君は、楽器は何も弾けなかったから。
問題はそこから小さい富士山が見えるかどうか....なんだけど..............」
サナトリウムの図書室の片隅に置かれていたアップライトピアノがシェアリビングに移されたのは、崎さんの提案だった。
僕の知らない水音は突然美しいピアノを奏で、周りを驚かせたのだ。水音の奏でるピアノがショパンだと教えてくれたのも崎さんだった。
丸椅子を並べ、その日からちょっとしたライブハウスが出来上がった。