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泣いていたのかも知れない。
たとえそうでなくとも、今思い出せるのはもう、彼女のそんな横顔ばかりなのだ。
僕たちは中学3年生だった。
確か校庭には風が舞っていて、無邪気に駆け回る生徒や跳ねるボールの音、それにあの陸上部の部室の脇のベンチでは、放課後の開放感に戯れる女子たちが突飛な笑い声を響かせていた。 そんな何もかもを包摂し輝かせていたあの頃の太陽が今よりもずっと上等な光からできていただなんて..... きっと誰も信じたくはない。だからこの残酷な人生に、それでも笑って居られるようにと、僕たちの記憶はその殆どが、夢のような光から出来ているのかも知れない。
人は時に無責任な言葉を口にして、かつて自分が子供だった頃の痛みを、ありきたりの経験にすり替えることで達観する。── 思春期の多感な心は傷つき易く、明日を見る力さえをも奪い去るほど切実なものだった── と。人を好きになるという未知の感覚が、まるで雨上がりの空に虹が掛かるように、決まって”世界”の側から仕掛けられていたことも、その時の手付かずの悲しみが、後に”恋”という名前で呼ばれることも、知らなかった筈なのに。
解放病棟205号。
水音に会いにここを訪れるのか、ここへ来る為に水音を訪ねているのか、僕にはもう分からない。ただ、プランターを両脇に設えた緩やかな勾配を持つこの小径を踏みしめる時、その軌跡の頼りなさは、何故かいつも僕を安心させた。名前を持たない物の凛とした孤独。これを”幸せ”と呼ぶには、余りにも潰えてしまった寂しみではあるのだけれど。
「お待ちかねですよ....水音ちゃん。
今、賭けをしたとこなの..............負けちゃった!」
「何を賭けたんですか?」
「ほら、これ、書かないと....」
彼女が外部の臨床カウンセラーなのか、ここに常勤する医師なのか、未だに僕は知らない。
「でも、明日の4時には戻ってくださいね?」
「水音の奴、外泊の許可まで.....」
「それはいいんです。前々から言っていたことだから」
彼女が唯一水音にとって、このサナトリウムでの”味方”だという事以外に、僕には何も知る必要がなかった。
面会室に扉は無い。開放的、と言ってしまえばそれまでだが、この建物の内部は、至る所にここを栖にする人たちの病態に鑑みた合理性が追求されていた。
面会室の長椅子に、水音は膝を抱えてちょこなんと蹲っていた。視線を合わせない水音のために、僕の表情を盗み見ることができるようにと、わざと僕は窓の外に目を細めた。
「来たの?」
「あぁ....」
「来ないかと思った」
「逆だろ?」
「違うの................
来ない気がしたから................」
「したから........崎さんに外泊をお願いした?」
「無理だったの?」
「あぁ、ちょっとね................」
「嫌な奴........................」
「ウソウソ.........抜けられそうだよ?
但し....条件付きで....だけど」
「またそれ?」
「でも、仕方ないよ。水音だって条件付けたろ?」
「それは真の方よ!もし城都さんが来たらお泊りしてもいいよ....って」
水音は崎先生を下の名前で呼んだ。そして僕を”城都”の姓で........。
水音に因ると、生まれつき”城都”には、下の名前が無いことになっている。