町でいちばん下手な合唱団
何かを上達させようとするとき、私たちはつい、できないことを一つずつ直そうとする。
間違いを減らし、苦手を克服し、全員が同じ水準に近づけば、きっとよい結果が生まれる。そう考えるのは、ごく自然なことだろう。
けれど、人が集まって何かを成し遂げるとき、本当に大切なのは、うまくできることだけなのだろうか。
町の小さな合唱団を舞台に、歌の上達と、誰かと一緒に歌うことのあいだで揺れる人々の姿を描く。
最初の通し練習で、歌い出しは三つに分かれた。
私が手を下ろしたあと、由紀さんと莉子さんが先に入り、少し遅れて美代さんの声が重なった。誠さんは口を開いたものの、隣の声を確かめているうちに出遅れた。大地さんの声はよく響いたが、音が半音ほど高い。
最後まで歌い切ると、音楽室に短い沈黙が残った。
「もう一回、最初からやりましょうか」
修さんが言った。私は譜面台の上の楽譜をそろえた。
「その前に、どこでずれたか確認します。歌い出しと、二番の入り、それから最後の音。順番に直しましょう」
文化祭まで三週間。こだま合唱団が町の文化祭に正式な出演枠をもらったのは、今回が初めてだった。歌うのは五分ほどの一曲だけだが、だからこそ、まとまりのない演奏にはしたくなかった。
私は高校時代に合唱部にいた。専門家ではない。それでも、音を聞き、問題を分け、順に修正することならできる。仕事でも、混乱した案件を整理して締め切りに間に合わせるのは得意だった。
全員が同じ方向を向くには、まず目標をはっきりさせる必要がある。そう考えていた。
「誠さん、ここは楽譜のこの音から入ります。隣につられずに、まず自分の音を確認してください」
「はい」
誠さんは楽譜を見つめた。指で音符を追っているが、目が途中で止まる。
「ここ、私が歌いますね」
莉子さんが手本を示した。誠さんはうなずき、もう一度声を出した。今度は入りが合った。ただ、次の音で声が揺れた。
「今の入りはよかったです。次は音程を確認しましょう」
誠さんは「はい」と答えた。隣の大地さんは、何か言いかけて口を閉じた。
「大地さんも、一度この音を出してみてください」
私が言うと、大地さんは楽譜を見て声を出した。やはり少し高かった。
「僕、そんなに外れてますか」
「今は少し高いです。隣の音につられているのかもしれません」
大地さんは隣の誠さんを見た。
「じゃあ、隣を聞かないほうがいいんですか」
「聞かないのではなく、自分の音も確かめながら歌ってみましょう」
大地さんはもう一度、同じ音を出した。今度は少し下がったが、まだ安定しなかった。
私は練習ノートに印をつけた。歌い出し、誠さんの音程、大地さんの音程、最後のタイミング。直すべきところが見えれば、手の打ちようはある。
翌日、私は自宅の机で練習計画を作った。全体練習は週に一度、九十分。文化祭までの通常練習は、あと三回しかない。個別の課題を決め、できる人には補助を頼み、全体で合わせる時間を確保する。それが最短だと思った。
莉子さんには、誠さんと大地さんの音を確認してもらうよう連絡した。
〈短時間でいいので、次の練習までに一度見てもらえると助かります〉
返事はすぐに来た。
〈わかりました。できる範囲でやってみます〉
久美さんには追加練習の候補日を送った。弁当店を切り盛りしている久美さんは、通常の練習にも仕事を終えてから駆けつけることが多い。
〈その日は店を閉める時間が読めないので、約束はできません。いつもの練習には行きます〉
私は、では個別課題を送ります、と返した。
修さんからは、全員の予定が合わないなら練習方法を工夫したほうがいい、と連絡が来た。
私はその文面を読み、予定が合うのを待っていても本番は来る、と思った。来られる人に来てもらい、来られない人には別の方法を用意する。それなら、全員の事情を無視せずに済む。
次の練習では、歌い出しが前回よりそろった。誠さんも、冒頭の音は安定して出せるようになっていた。大地さんの声量は相変わらずだったが、莉子さんが隣で音を示すと、何度か正しい音に戻れた。
「よくなってますね」
私が言うと、由紀さんが楽譜を見ながらうなずいた。
「この調子なら、最後まで形になると思います」
私は少し安心した。やはり、個別に直す方法は間違っていない。
ただ、莉子さんは自分のパートを一度も通して歌えていなかった。
「莉子さん、次は二番の入りもお願いできますか」
私が声をかけると、莉子さんは譜面台の上に置いていた自分の楽譜を閉じた。
「そこも、ですか」
「誠さんの入りがまだ不安定なので。手本があると覚えやすいと思います」
「わかりました」
莉子さんはそう言って、誠さんの隣に立った。
二番の練習が始まった頃、久美さんが店のエプロンを鞄に押し込んで入ってきた。私はいったん練習を止め、楽譜を持って近づいた。
「今、二番の入りを確認しています。ここから一緒にやりましょう」
「ありがとうございます。どこまで進みました?」
説明を始めると、久美さんは何度もうなずいた。だが、全体練習を再開すると、説明した部分でまた入りが遅れた。私はもう一度、歌う位置を示した。
練習後、久美さんは楽譜を鞄にしまいながら言った。
「毎回、来るたびに追いつくところからですね」
「遅れた分は、できるだけ補えるようにします。追加練習に来られれば、もう少し余裕も出ますし」
「追加は難しいです。店を閉めてから来ているので」
「そこはわかっています。だから、個別の説明を――」
「説明してもらうのが嫌なんじゃないんです」
久美さんは楽譜の端をそろえた。
「来られない時間があるたびに、そこを埋めなきゃいけないものになるのが、ちょっとしんどくて。来られた時間に、できることをしたいんです」
私は返事をしようとして、すぐには言葉が出なかった。
「……わかりました。練習の進め方を考えます」
久美さんは小さく頭を下げた。
そのあと、莉子さんにも話をされた。
「私、手本を歌うくらいならできます。でも、毎回、誠さんと大地さんを見る役になるのは難しいです」
「負担になっていましたか」
「自分のパートを練習する時間がなくなっていて。私も本番で歌いたいので」
莉子さんは閉じた楽譜の端を指で押さえていた。
「もちろん、莉子さんの練習も必要です。ただ、今の状態だと、ほかの人の補助がないと難しい部分があって」
「そこはわかります。でも、歌えるからって、私がずっと教える人になるのは違うと思います」
誠さんが近くで楽譜をたたんでいた。顔を上げたが、何も言わなかった。
「僕が、もっと練習すればいいんですよね」
誠さんはそう言って、楽譜を鞄にしまった。
「そういうことではありません」と私は答えた。「できるだけ、みんなで歌えるようにしたいんです」
誠さんはうなずいたものの、その目は私ではなく、楽譜の入った鞄に向いていた。
修さんが間に入った。
「練習の方法を少し変えてもいいかもしれませんね。みんな、やりたいことも使える時間も違いますから」
「でも、今は少しずつ改善しています。ここで方法を変えたら、また最初からになるかもしれません」
私は練習ノートを開いた。直すべき箇所はまだ多い。残り時間も少ない。方法を変えるなら、何をやめるのかまで決めなければならない。
「次の全体練習で、通して歌ってみましょう。それを見てから判断します」
そう言うと、修さんはそれ以上は勧めなかった。
文化祭まで一週間を切った三回目の練習。私は、個別の修正をいったん止め、最初から最後まで歌うことにした。
歌い出しはそろった。最初の節も、前よりずっと安定している。
二番に入る直前、誠さんの音程が揺れた。
私は思わず、誠さんに音を示そうと手を動かした。その瞬間、次の入りの合図が遅れた。
莉子さんが歌い出しかけて止まり、誠さんは口を開いたまま周囲を見た。美代さんは誠さんの声を待ってから入り、大地さんは隣の音につられて高くなった。少し遅れて来た久美さんは、曲の途中で席に着き、楽譜を開いた。
「止めます」
私は手を上げた。
「今のところ、もう一度。誠さんは、私の合図を見てください」
最初からやり直した。今度は誠さんの入りが合ったが、その先で大地さんの音がずれた。直すために止める。再開すると、今度は別の場所で声がばらけた。
「一度、最後まで歌ってみませんか」
修さんが言った。
私は迷った。崩れたまま進めば、問題が残る。だが、止めて直してばかりでは、曲の流れを確認できない。
「わかりました。止めずにいきます」
私は指揮を続けた。
歌は最後まで続いた。しかし、最後の音は伸ばす長さがそろわず、誰かが声を切ったあとも、何人かの声が残った。
私は手を下ろした。
個別に直した部分は、確かによくなっていた。けれど、曲の最初から最後まで、全員で流れをつかむ練習が足りていなかった。直すことに時間を使い、つなげる時間を残していなかった。
「このまま細かいところを直しても、本番で通せなかったら意味がないですね」
由紀さんが言った。
「構成を変えるしかないかもしれません」
私が言うと、誠さんが顔を上げた。
「曲を短くするんですか」
「音程を保つのが難しい部分を、少し削る案です。そうすれば、残りの時間を全体の練習に使えます」
「でも、そこを残したほうが、曲としてはいいと思います」
由紀さんはすぐに言った。
「私もそう思います」と私は答えた。「ただ、残すなら、もう一度個別に練習する必要があります」
「その場合、莉子さんにまた手伝ってもらうことになりますか」
莉子さんが尋ねた。
「……必要になるかもしれません」
「私は自分のパートを練習したいです。できるところは手伝います。でも、私が教える前提で決めないでほしいです」
久美さんも口を開いた。
「私は追加練習には来られません。ここに来られる時間は、ちゃんと練習します。でも、来られなかった分を全部埋めるのは無理です」
私はすぐには答えなかった。二人の言葉が、練習ノートの余白に並んでいるように思えた。
誠さんは膝の上で楽譜を折り直した。
「僕も、できるだけ練習します。でも、急にうまくなるわけじゃないので。僕だけ歌わないとか、そういうことにはしたくないです」
「そんなつもりはありません」
「はい。わかってます」
誠さんはうなずいた。けれど、その返事で話が終わったとは思えなかった。
修さんが机の上の楽譜を見た。
「全員が納得するのを待っていたら、本番までに決められませんね。直子さんが案を作って、理由を説明するのがいいと思います」
由紀さんはまだ楽譜を見ていた。
「簡単にすれば歌いやすくはなるでしょう。でも、演奏の完成度は下がります」
「そうですね」
私は否定しなかった。
難しい部分を残せば、当初の目標に近づけるかもしれない。その代わり、莉子さんに補助を頼み、誠さんには個別練習を続けてもらい、久美さんには参加できない時間を埋めてもらうことになる。全員が同じだけ負担を負うわけではない。
「明日までに構成案を作ります」
私は楽譜を閉じた。
翌日、音楽室に持っていった案は、難しい部分を短くし、同じ旋律を全員で歌う時間を増やしたものだった。歌う範囲が狭くなれば、音程が揺れる箇所を繰り返し確認するより、曲全体を合わせる時間を確保できる。
「これでいきます」
私は譜面台に案を置いた。
由紀さんは紙を読み、眉を寄せた。
「やっぱり、ここを削るんですね」
「はい。残す案も考えました。でも、残りの時間でそこを仕上げるには、また個別の補助が必要になります。全体を通す練習も足りません」
「完成度を諦めるということですか」
「当初の目標には届かないと思います」
言ってから、私は一度、息をついた。
「ただ、完成度を軽く考えているわけではありません。今の構成のまま、全員に同じ負担を求め続けることも、一つの選択だったと思います」
由紀さんは紙を机に置いた。
「私は、元の曲で歌いたかったです」
「わかっています」
由紀さんはそれ以上何も言わず、楽譜を手に取った。納得したわけではないのだろう。それでも、練習は始めなければならなかった。
文化祭前日、追加で集まった最後の練習では、難しい部分を短くした構成で何度か最初から歌った。誠さんは入りの合図を確かめ、美代さんは楽譜を追うより、隣の声を聞いて旋律を覚えていた。大地さんの音程は時々揺れたが、前よりも曲の流れが途切れなくなった。
莉子さんは自分のパートを繰り返し歌った。久美さんは来られた時間の中で、曲の入りと終わりを確認した。
完璧にはならなかった。けれど、何を歌うのか、どこで入るのかは、全員が共有できていた。
本番の日、小ホールの舞台袖で、私は譜面台の位置を直した。客席には、文化祭を見に来た町の人たちが座っている。五分ほどの一曲でも、舞台に立つと長く感じられた。
「歌い出しだけ、合図を見てください。あとは止めずにいきます」
私は全員の顔を見た。
誠さんがうなずいた。莉子さんは楽譜を持ち直し、由紀さんは静かに息を整えた。久美さんは小さく肩を回した。
舞台に出て、位置につく。私は腕を上げた。
最初の音は、ほぼそろった。
途中で大地さんの音程が揺れた。誠さんの声も、周囲から少し離れた。美代さんは隣の声を頼りに、旋律を追っていた。
以前の私なら、そこで手を止めていたかもしれない。音を確かめ、やり直し、そろうまで続けていたと思う。
私は手を動かし続けた。
短くした部分を越え、全員で歌う旋律に戻る。最後の音は少しずれたが、声は途切れず、全員が歌い終えた。
拍手が起きた。大きな喝采ではなかった。客席の何人かが手をたたき、前列の人がうなずいていた。
舞台を降りると、由紀さんが言った。
「二番のところ、やっぱり音程が揺れましたね」
「そうですね。次に歌うなら、そこは直したいです」
私は答えた。由紀さんは返事をせず、短くなった箇所に指を置いたまま、しばらく楽譜を見ていた。それから「そうですね」と言い、楽譜を鞄にしまった。
「僕、最後まで歌えました」
誠さんが言った。
「はい。入りも合っていました」
「途中、ちょっと外しましたけど」
「そこは次の課題ですね」
誠さんは笑い、鞄の中の楽譜をもう一度確かめた。
莉子さんは楽譜を閉じた。
「今日は、自分のパートをちゃんと歌えました」
「手伝ってもらったところもありました。ありがとう」
「はい。でも、次からは自分の練習も先に予定に入れたいです」
「そうしてください」
私はそう答えた。次の練習計画を作るとき、最初から莉子さんの時間を誰かの補助に割り当てることはしないだろう。
久美さんは時計を見ていた。
「これから店に戻ります。今日は間に合ってよかった」
「来てくれて、ありがとうございました」
「私も出たかったので」
久美さんは鞄を肩にかけ、会場の出口へ向かった。
修さんが私のそばに来た。
「次の練習、いつにしますか」
私は練習ノートを開きかけて、手を止めた。
「日程を決める前に、次は何を目標にするか、みんなに聞きたいです。どこまで仕上げたいのか、どんな形で参加したいのか。そこから相談したいと思います」
「全員の意見を聞くと、時間がかかりそうですね」
「かかると思います」
私はノートを閉じた。
「でも、私が先に決めて、あとから調整するだけでは、同じことになるので」
修さんは少し考えた。
「じゃあ、次はその時間も取っておきましょう」
由紀さんはまだ、演奏の出来を気にしているようだった。誠さんは、外した音のことを誰かに話していた。莉子さんは自分の楽譜を鞄にしまい、久美さんの姿はもう出口の向こうにあった。
私たちの歌は、町でいちばん下手だったかもしれない。
次に歌うとき、うまくなる保証はない。何を目指すかで、また意見が分かれることもあるだろう。
私はノートの新しいページを開いた。日付だけを書き、目標の欄は空けておいた。
『町でいちばん下手な合唱団』を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
何かをよくしようと努力することは、大切です。ただ、その努力がいつの間にか、誰かの負担になってしまうこともあります。よかれと思って工夫を重ねても、全員が同じ方向を向いているとは限りません。
合唱は、一人ひとりの声が違うからこそ、互いの声を聴くことが必要になる営みです。上手に歌うことと、誰もが一緒に歌い続けられること。その両方を大切にするには、技術だけでなく、話し合う時間も欠かせないのだと思います。
この物語が、誰かと何かを成し遂げようとするとき、何を目指すのかだけでなく、誰と、どのように目指すのかを考えるきっかけになれば幸いです。




